**馬耳東風**

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真贋の迷宮 (ものの価値観の話)

2016-01-03 | 世事諸々
日本で骨董の蒐集家としてよく知られていたのは、青山二郎、白州正子、小林秀雄などですが、学識も見識も古美術品蒐集歴も人に劣るものではないこれらの人々も骨董では、しばしば、贋物をつかまされていたそうです。それは当たり前とも言えることで、怒る ことでも恥ずべきことでもない、と白州正子は(強気に)文芸誌に書いています。

小林秀雄はある時、一二度立ち寄ったことがある骨董店で、とても目に付く呉須(ごす)の赤絵大皿を見つけ、ためらわずに買ったそうです。特に良いものというのではなく感性に訴えるものがあり、所有欲をくすぐられて買った、ということでした。持ち帰って早速電話で骨董の指南役の青山二郎に話すと、詳細を聞いて青山はため息したそうです。「またとちったかな、贋物だな」見るまでもない、とにべもないものでした。

小林は電話を置くと、暫く意気消沈して呑んでいた晩酌も味気なくなり、赤絵の大皿は次第に見るのも厭になったそうです。翌日、近所(鎌倉)の懇意の店に持ち込むと、主人は大皿を一瞥しただけで押し戻すので理由を話し、二度と見たくないので置いていくからどうとでもしてくれと言うと、主人は小僧を呼び、「これはダメものだから良く見て勉強しなさい」といったそうです。

それで終われば平凡な話なのですが、何年か後、小林はこの大皿に再会するのです。それも、文芸春秋の社長室で社長の佐々木茂索がおっとりと自慢気に「最近買った掘り出しもの」と紹介するのを呆然と見ていたとのことです。この道の仁義で、小林はかろうじて沈黙をまもり寡黙を通したそうです。面妖な世界なのです。

明治か大正の作家の小品に「骨董」と題する佳作があります。骨董の価値とは何かを問う話です。主人公の新米骨董屋があるとき骨董業界の交換会で茶器のひとつに目を留めます。古備前で姿がよく気品があり、小僧時代から叩き込まれた選別眼で丁寧に細目を確認しても不都合は見当たりません。最上とはいかなくも逸品であるとひそかに得心したのです。

新米とはいえ独立開店以来十数余年、店の目玉といえる程の品はまだなく、数年前からそれとなく好ましい掘り出し物を探し求めていたのです。それを今日は見つけたという思いでした。懐には五百円という大金を持って来ています、高値になるとは予想してもこの物流会で出回ってくる茶器のこと、最高でも数百円と値踏みをしていました。

しかし、セリ値はしばしば飛ぶことがあります、欲しい気持ちが強いと思わぬ高値になることがあるのです。所持金以内でなら行けるところまで行ってみようと、もう気持ちは加熱気味でしたが、セリではそれがいけません。欲しい本人が自分でセリに顔出しすると高値に乗せられることがあります。そこで小僧時代からの友人に相談すると、立会い代行を快く引き受けてくれたのです。

この物流会は半年に一度仲間内で行われる重要な仕入れの機会でもあったのですが、今日は目的の茶碗のために資金を保留する気持ちが強く、他の商品の仕入れに金を費やすことが出来ません。セリは書画や喫煙雑貨など売れ筋商品から始まり次々に競り落とされて行くのをジッと眺めているだけでした。そして漸く茶碗の番がきました。セリ値が三百円を越えたら相談に来ると友人は言っていましたが、その心配は杞憂で二百円の少し手前で無事落札できたのです。ほっとした気持ちになったところでした。そんな折、後ろの席でひそひそと話す声が聞こえてきたのです。

「近頃は半人前の目利きが増えたもんだ、あんな二番手に百八十とはな」
「五年前の巡回では八十円だったな、確か」
「そうそう、いいものだが少し若いからな」

ひそひそ声の一人は自分の旧主人の骨董商で業界の重鎮とも言える人でした。それで冷や汗がでました。二番ものとは思いもよらなかったのです。古備前ではない証しがあっただろうか。その後数日間は睡眠もままならぬ苦悶の日々でしたが、ある夜、ふと迷いがほぐれる夢を見たのです。仙人髯の未知の古董商が、何故か先日せり落としたあの茶碗を手にしていたのです。「本物か、贋物か、ふむ、誰に判るというのだ、ふむ、古董の真価とは何だ、ふむ、古董商の言葉だけだ」彼はうなされてハッと目覚めたのでした。

骨董商の間では偽物という言葉はもともと使わないそうです。茶器など陶磁器には二番モノとか、若いモノと、仲間内では符丁のように曖昧に言うのがルールだそうです。贋作というのは主に絵画の世界で、日本画や油絵の巧妙な摸写品で、しばしば真贋の見極めが困難なほどの(良品)のことを指すのだそうです。

噂の域を出ませんが、ロシアのエルミタージュ美術館保有の数千点に及ぶルネッサンス絵画が、同美術館内の修復士のグループによって巧緻に摸写されて、本物として毎年数十点は市場に放出されていると言われています。ドガ、ルノアール、モネ、ゴーギャン、マネ、ゴッホ、クールベなどの市場価値の高い需要の多い名画の摸写が、かなり以前から美術館の(譲渡証明書)つきで市場に出回っているのは、絵画の市場では周知のことで、その真贋の見極めが練達のプロの目によっても、科学調査によっても、もはや不可能とまで言われているのです。

絵画市場を動かしているのはスイスのコモ湖周辺に店を構えるユダヤ人画商グループといわれています。日本の経済バブル期には多くの日本人がルネッサンス絵画を求めて彼らのもとを訪れ、上に挙げた画家達の絵画を、合わせて千数百億円も購入していたといわれています。しかし、数年後にはバブルは弾けて資金繰りのため手放され、コモ湖周辺の売主の元へ9割がた帰還しているといいます。

「利益はさほどでもないさ、強欲商法は継続しないからね、ほどほどの利益で満足している。日本人の次は、今は中国人で、彼らは金額にして日本人の数倍の絵画をすでに購入している。輸送費自己負担でね、いま中国にはフランスのルーブル並にルネッサンス絵画が溢れているはずだ」

「フェイク? まあ、あるだろうね、我々にだって判らないさ。彼らは巧妙この上ないからどうにもならんね。ルネッサンス時代のキャンバス生地の上にその時代のあらゆる塗油とオイルペイントを揃えて持っている、修復の名手がそのお膳立てで摸写をすると、どうなると思う?」

「例えばゴッホが生涯に描いた絵は70枚に満たない。その一枚に何十億払ってもいいという人は今でも数百人はいる。70枚しかないゴッホの絵が、いま知られているだけでも120枚は市場に出回っている、モネともなると一体何枚になるか、しかし誰が責められる。真贋は誰にも判らないんだ、もはや」

宝飾の王様は今でもダイヤモンドだそうです。このダイヤ取引の中心地はベルギーのブリュッセルにあり、古来ユダヤ人が取り仕切っていると言われています。世界のダイヤモンドの価格を決定し、維持しているのはこの市場なのです。ダイヤの真贋は紛れもないもので硬度と透明度で証明されるのですが、たったひと粒の価値が時には市街地の高級マンションにも匹敵するなど、容易には信じがたく、価格の正当性は霧の中、真価は色即是空・・・そこで浮かんだ一句、

         盗人(ぬすびと)に取り残されしまどの月・(良寛)・・別の世界の価値観です。


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