**馬耳東風**

エッセイ・世相・世論・オカルト
  アメリカ・中国問題・
    過去・現在・未来

織田信長の天下布武、(異人が目にした中世史)

2016-01-23 | 世事諸々
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは織田信長や羽柴秀吉に謁見してその印象を書き残しているので、その名前は現代の日本人にもよく知られています。彼は信長との最初の接見で、信長の印象を「奇矯なほど高い声で話す人」と言い、その後の観察で「動作は粗野に見えるが、内実は正義と慈悲と名誉を重んじ、因習に囚われず、規律に服することなく、部下の言うことに従うこと稀である」とその性向を異としながらも好意的に受け止めていたようです。羽柴秀吉については、身長が低く醜悪な容貌の持ち主だった、と容赦なく書き残しています。

ルイス・フロイスは1563年に長崎に上陸し、その後、当時の権力者に滞在と布教の許可を得るため数度に亘り上洛していましたが、生活の大半は九州で過ごしていたようです。九州も本土同様に戦乱の時代で、フロイスは幾多の戦乱を目の当たりにして日記に記しています。

「欧州の戦争が都市や領土の奪い合いであるのに対し、日本の戦争は殆どいつも、米や麦や雑穀を奪い合うものだった」とその卑小さを述べ、反面「戦の特徴は目に触れるもの一切を焼き払い蹂躙する乱暴なもので、誰も容赦せず、神社仏閣まで破壊しつくしていた」とその無法振りを述べています。財貨はことごとく持ち去られ、住民の多くは捉われて戦争奴隷となり、稲田はことごとく刈り取られたと言います。

フロイスにとって、さらに我慢ならなかったのは薩摩軍の豊後(ぶんご)侵攻を目の当たりにしたときのことで、薩摩軍は「豊後で捕虜にしたものを肥後の国に連行し・・まるで家畜のように数珠繋ぎにし、高来(島原半島)に連れて行って売り渡した。戦争奴隷は女子供が中心で、身体に顕らかな虐待の痕を残し、ポルトガル商人に二束三文で売却され」その後、マラッカやマカオを経て東南アジアやインド、遠くアルゼンチンにまで売られたという。アルゼンチンには今も日本人奴隷引取書が残っている、とのことです。

ルイス・フロイスの他にも目撃者はいて、丁度来日したばかりの天正少年合唱団(使節)のミゲル某は書き残しています。「奴隷達は、幼い子供達も大勢いたが、手足に鉄鎖を付けられ船底に押し込められ、航海の途中で死ぬものも多いと聞く、日本人は欲心と金銭への執着が甚だしく、道義の一切を忘れて同じ言葉を話す同国人を家畜や駄獣のように安値で外国に売り渡し、その非道に義憤を覚えずにはいられなかった」と当時の日本人の獣性にひどいショックを受けていたようです。その頃の九州地方は本土に比してまだ文化も低く人心は低劣で、この地方のどの戦でも敗戦地住民の奴隷化が普通に行われていた、とフロイスは書き残しています。

本土でも織田信長が台頭してくるまでの戦は、東日本の雄、武田信玄や上杉謙信などの強国でも、戦の大方の目的は糧食米の略奪で、騎馬武者以外の兵士、足軽や雑兵などは勝手に略奪の限りを尽くすのを許されていたといいます。女子供に対する狼藉も大目にみられ、人身売買こそ無かったものの破壊と放火は常道だったそうです。フロイスなど欧州人の目には戦というより野盗の襲来に見えたのかも知れません。勝者は敗者に対して残虐で簒奪と狼藉の限りを尽くしていた、と書き残されています。

織田信長の登場は戦争の様相を一新するものでした。叡山焼き討ちなどで残忍非道、神仏を怖れぬ異常人と評されていましたが、やがてその評価は次第に変わっていきます。ルイス・フロイスの見る目は最初から違がっていました。欧州人の規範からみると異論のない武将だったのです。敵に対しては容赦なかったが、それは当然で、非戦闘員の地域住民の民百姓に加害してはならぬ、不当に略奪もならぬ、と厳しい軍律を定めた、おそらく最初の武将だったのです。

そのため、時が経つにつれて敵地にあっても住民に恐れられることは少なくなり、往々にして敵地の住民が織田軍の侵攻をかえって喜び助けにさえなったと言われています。度々困難な戦に遭遇しても、危機を乗り越え、勝ち進めたのはそうした住民達のシンパシーや物心両面での支援も役立ったと言われているのです。信長自身が京都へ初めての進軍をした折、京都っ子は誰一人織田軍を懼れるものはなく、住居を捨て逃げ出すものもなく、沿道に列をなして迎えた、と信長公記は述べています。

甲斐の武田信玄は戦国時代にあって(堅固な)城は持たず屋形と呼ばれる砦風の居城に住み、絶えず国外に攻め出て敵に攻め込む余地をあたえなかった、と言われていますが、それは強軍ゆえに攻め込むものはなかったというより、当時の甲斐は貧しく、攻め入っても得るもの少なく、攻めるに価しないと思われていたのかも知れません。

甲斐の領地は狭隘で農地は肥沃とはいえず、天候不順で不作の年が多く、領民は常に土一揆を起こしかねない不安定な状態にあったのです。そのため信玄は苦慮し、それらの農民を雑兵として連れ歩き、糧食を求めて他領に攻め入っていたということのようです。不足の食料を他国で補うと同時に一揆のガス抜きにもなっていたのでしょう。

この時代、信玄に限らず上杉謙信も他の武将の多くも戦の目的はルイス・フロイスの言うように糧食の簒奪だった、というのも事実だったかも知れません。戦でその目的を果たすと、あっさりと軍を引いてまた来年やってくる、ということを繰り返していたのです。執拗に一城を攻めて滅ぼそうとする意図は、この頃はまだなかったのです。

武田軍団に限らず上杉も新潟という積雪寒冷の国で稲の不作が常年化していて慢性的に食料不足だったのです。自国の農民を満足させるためにも毎年他国に攻め入り短期合戦で収穫期の作物を奪っていたのです。相手も必死なのでいつも勝てるとは限らず、僅かな戦利品に我慢することも多かったようです。

信玄や謙信の戦記をみても一様に短期戦だったのはそのような理由によるもので、自国の農繁期になると農兵主体の軍は帰国せざるを得なかったのです。室町幕府の終焉までそのような戦が多かったので、ルイス・フロイスが目撃して奇異に感じたのはそんな戦争だったのです。

ところが、程なくして登場してきた織田信長により戦争の目的も様相もがらりと変わります。敵を屈服させるか滅ぼすか本当の戦いになったのです。周囲の状況も一変していました。足利幕府の衰退が顕らかになり、後継を競う抗争が始まっていたのです。

織田信長が最初に頭角を現したのは、周知の通り桶狭間の戦いでした。今川義元が足利に代わって武家の頭領になるべく京を目指して動き始めたのです。大軍四万を率いて信長の所領尾張を通過することになったのです。普通この兵力差なら信長は、臣下の礼を尽くして今川軍を迎えて従属を表明するところですが、なぜか沈黙していたのです。

そのため今川の大軍は尾張領に入るや出城を次々に攻め落として進軍していきました。信長はそれでも動かず、一兵も出さず無抵抗を続けていたのです。今川義元は信長を測り兼ねながらも、多分恐れをなし、右往左往しているのだろう、服従して来るのは時間の問題と思ってか悠々軍を進めていたのです。四つの出城が破られ武将の死が伝えられても信長は動かず、あくまでも沈黙を続け、城詰めの武将達の出陣要請にも応えなかった、と信長記は述べています。

本心を明かさず、一人部屋に閉じ篭っていたのですが、地下(じげ)の情報網を駆使して義元の本陣の位置は正確に把握していて、予め工作してあった地頭など主だった領民に義元軍を熱烈に歓迎させ、酒食を供して油断させ、休息の地として桶狭間という狭隘静謐な林地に誘い込むと、一気に三千の手兵で急襲しその首(しるし)を挙げたというものです。

信長はその後「天下布武」の朱印を顕して全国制覇を目指したものの、1582年、志半ばで明智光秀の謀反により本能寺内で自刃して果てた、と信長記は簡潔に述べています。

天下布武とは「武力をもって国を統一する」と一般に解されていますが少し違うようです。信長幼少時の養育係りだった平手政秀が書き残したとされる「政秀寺古記」という資料によると、「天下布武」の言葉の出典は中国(周)時代の「春秋左氏伝」で、信長の学問の師で僧侶の澤彦宋恩(たくげんそうおん)に教えられたものといいます。

布武の武の意味は、七徳の武、と書くが武力の武ではなく指針というほどの意で、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする・・という七徳を目指すものが天下を治める、という意味のようです。澤彦宋恩は信長に本拠地の居城の名になった「岐阜」という呼称も教えたとされています。古代中国の革命児、周の文王、に倣った地名ということです。その他に、澤彦宋恩は信長の裏参謀で(桶狭間の策)を授け軍律の制定を教えたと一説には言われていますが、それは推測の範囲です。澤彦は信長の幼名を吉法師といった頃からの学問の師で、元服の折、信長と命名したのも宋恩だったということです。そんな人物であったのに、何故か、裏方に徹して姿をみせず、その記録も少ないということです。

一方、信長の後継者、秀吉は駆け引き上手で天下人になりましたがルイス・フロイスの評価は低く、心身卑小で知恵浅く、無作法、言動は虚飾に尽きて、品格なし、とされています。また、信長亡きあとの、(かのもの)の戦は回を追う毎に愚かしく、最後の戦、朝鮮出兵に至っては無用の戦いで、文禄の役で20万の人命を消耗し、慶長の役に至っては彼岸の殺戮甚だしく人の成すところにあらず、と批評されています。幸いというか、秀吉は慶長の役最中(さなか)に癌病死に見まわれ、その奇禍によりこの戦は終焉に至っています。

この時代一番の謎は明智光秀の謀反の動機で、後の世に伝わる光秀の真意は真の動機と思えず、光秀を追い詰めた信長の仕打ち「所領の没収と次の戦さで勝ち取った国を与える」云々は動機の一部ではあったかも知れませんが、信長を撃つ覚悟と勇気にいたるほどのものではなかった、と思えるのです。一部に言われているように、天下平定後に天皇を廃して信長自身がそれに替わろうとしている、という逼迫した憶測があり、公家出身の光秀には、それは耐え難く、一身を賭して信長の死を望むべし、と決意することが出来たという説で、本来小心者の光秀を思うとあり得ることかも知れません。

光秀には天下を取る意図など毛頭なく、またその可能性を一瞬たりとも信じるほど愚かではなかったはず、と思われるからです。事実、光秀の三日天下ならぬ、十三日目に大阪・山崎の戦いで秀吉軍に破れ、逃走中の山林で落ち武者狩りに出遇って討ち取られています。無念は察するに余りありますが、つとに本望は達成しているので、悔いるところはなかったかも知れません。

PVアクセスランキング にほんブログ村