おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

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夢窓疎石(国師)の歩みと夷隅・千町庄

2008-06-23 11:06:29 | Weblog

 千葉県の辺境にまで足跡を止めている禅僧に驚いたので、紹介しましょう。
   夢窓疎石(国師)と退耕庵(いすみ市)
 夢窓疎石(1275~1351)は伊勢に生まれ、甲斐の国で育つ。天台・真言宗の寺で学び、奈良東大寺で受戒する(1292)。後に鎌倉萬壽寺で禅宗を学ぶ。甲斐国守護二階堂氏に招かれ、恵林寺を創建する。
 夷隅の千町庄を二階堂氏が領地とすると、夢窓疎石を招く。退耕庵に住んだ疎石は、
「珍しく住みなす山の庵にも 心とむれば浮世とぞなる」を作る(1323年正月)。
 いすみ市能実の太高寺の裏山には、疎石の座禅窟があり、自然石に「金毛窟」(※「金」の文字は欠けている、千葉県指定史跡)と彫られている。千町庄では、日々農耕の指導に尽力したと伝えられる。
 後醐醍天皇は、正中2(1325)年8月、京の都に招く。疎石は、去るにあたって、この地の豊作を願い、「能実」の地名を贈った。
 疎石は上洛し、南禅寺の住持となるが、翌年には伊勢善応寺を開く。後、鎌倉円覚寺に滞在、北条氏の信仰を得る。1330年には、甲斐恵林寺を開き、1333年鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇に招かれ、再び上洛し、臨川寺・西芳寺・天竜寺を開く。庭園の設計でも名高く、西芳寺(苔寺)・天竜寺・鎌倉瑞泉寺・恵林寺・岐阜永保寺などを手がけている。
 生涯にわたり、歴代天皇より国師号(夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円)を賜り、「七朝帝師」とも称された。
 高名な禅僧が、夷隅の辺境の地にも足跡を止めていると言うことは、その風土に豊かさと深さを添えてくれているに違いない。そう言えば、この地には狩野派の始祖正信も生まれているのです。


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