『天女の涙』 ~倭国の命運や如何に~

今から1700年も昔の日本に栄えた古代都市、明日香京。謎に包まれた弥生時代をダイナミックに描く。

第 4 節 初陣

2016-06-03 20:45:39 | 長編小説
吾兄弟は、朝早くから夜遅くまで真剣に働いた。大和言葉にも慣れ、この地に骨を埋める覚悟であった。

やがて親衛隊で頭角を現した二人は、十九歳で初陣を飾ることになる。吾一が主将、吾参が副将として九州征伐へ向かうのである。

二人は、孔明に似て知将タイプで戦わずして勝つことを上策としていた。この時代、倭国に刃向かったのは、蝦夷と熊襲であった。九州征伐は、倭国が辛酸舐め尽くした熊襲が相手である。如何に優秀な吾兄弟といえど至難の技かと案ぜられた。

心配した卑弥呼は二人を呼んだ。
「 吾一、吾参。今度の征伐は、少なくとも五万は連れて行け。不足なれば十万までなら何も言わぬ。如何じゃ。返答を許す。」

「 はっ。吾一は、日夜、卑弥呼様の御厚恩に報いんが為、この日が来るのを待ち望んでおりました。然しながら兵の心配は御無用です。我らが率いる軍勢は、二万で十分で御座います。必ずや熊襲軍を打ち破り、敵の大将を虜にして見せます。」

吾一は、勇気凛々で威風堂々たる面持ちで伝えた。吾参は、じっと兄を見詰めていたが同じく堂々として終始、凛としていた。

卑弥呼は、吾兄弟の進言に満足そうであったが、『 泣いて馬謖の首を斬る 』の故事もある為、厳しい顔つきになって言い渡した。

「 そなた達の精勤を知らぬ者はない。二万と言えど手足の如く動くであろう。しかし、兵法は水物。天変地異が起ころうとも対処を誤るでない。もし、我が軍に何かあれば早馬を寄こすのじゃ。良いな。」

「 ははっ 。」二人は平伏して改めて忠誠を誓った。二人共、武者震いを全身に感じていた。時に西暦282年8月11日の朝のことであった。



第 3 節 三国志

2016-05-13 14:19:16 | 長編小説
倭国は、当時の異国、とりわけ中華文化圏と頻繁に交流を行なっていた。魏国には、西暦239年に、卑弥呼の使節団が渡航して、青銅鏡・銅鐸・銅鉾・武具・刀剣など多数の埋葬品を持ち帰った。

これは、卑弥呼が二十八歳のときのことである。吾一と吾参が生まれるのは、その二十四年後の蜀漢滅亡の半年前のことである。

この時代の中国は、三国時代末期から晋に替わる時代の節目であった。このうねりの中、吾一と吾参は高貴な生まれの為、侍女達に守られて命からがら呉へと亡命したのである。

まだ赤子であった二人は、有名な軍師の血統を受け継いでいた。そう、蜀漢の宰相・諸葛亮孔明なのであった。二人の曾祖父は、伏龍と恐れられた天才軍師であったのである。

吾一と吾参は、蜀漢滅亡と同じくして西暦263年生まれである。呉の諸葛恪を頼ったが、その呉もそれから十七年後の280年、晋統一により滅亡してしまう。

諸葛一族は根絶やしにされたが、吾兄弟は落ちのびて倭国へ亡命した。それは、二人が十七歳のときのことである。

そのとき卑弥呼は、六十九歳になっており既に還暦を迎えていた。まだまだ健康な心身であった彼女は、彼等を一目見て気に入った。そして、宰相・諸葛孔明の子孫と聞いて、自らの親衛隊の長に抜擢したのであった。

諸葛吾一と諸葛吾参は、孔明に勝るとも劣らぬ治世・軍事の天才と言えた。その才能は、生き抜いた倭国で如何なく発揮されることになる。


第 2 節 渡来人

2016-05-12 22:28:03 | 長編小説
卑弥呼の宮殿には二千人の官使と二百人の文武官がいた。そして、国都・明日香京には、十万の民が暮らしていた。道路は、碁盤の目に整備され、市場では、週に一度市が開かれた。市では、大陸からもたらされた銅銭が使用され商売が賑わった。地方の国々では、物々交換が主流であったが、明日香京には国都の威厳が漲っていた。

明日香京は、約二百kmの外郭をぐるりと空堀で覆われていた。内側は、板葺きの塀で囲まれており、言わば、古代のお城とも言うべき要塞であった。

倭国は、邪馬台国など三十余国から成る連合国家であり、明日香京は、倭国の国都であると同時に邪馬台国の首都でもあった。

こうして日本の弥生時代には、国家が存在していた。そして、その頂点に女王卑弥呼が、君臨していたのである。

卑弥呼は、占いによってたった一人で国を動かしていた。彼女は、寝る間も惜しんで精力的に働いた。大臣や文武官がいるとはいえ、彼女の占いには、皆、絶対的な信頼を寄せていた。

連合国家倭国は、卑弥呼のカリスマ性によって一つにまとまっていたのである。

倭国の軍事力は、国長が、国内の十八歳以上の男子を徴兵して、各国の首都や明日香京の警備に当たらせていた。

その内、卑弥呼の身辺を護る親衛隊は、倭国直属の最高司令部であり、主に有力な国長の子弟が任命された。

卑弥呼と寝食を共にし、倭国全土を動かす訳であるから、良家の子弟達にとっては、名誉な任務と持てはやされた。しかし、その実は、倭国と邪馬台国に忠誠を誓わせる為の苦肉の策でもあった。

卑弥呼は、倭国に忠誠を誓った国々が争いを起こさないように配慮した。まず、国都まで届けられた、ありとあらゆる問題を文武官に精査させてから各大臣に吟味させた。そして、上奏された嘆願書を占いその結果が出ると、倭国王女の詔として勅命が下されるのである。

卑弥呼の元には、祭祀の視察依頼、国と国との土地・水権争いの仲裁、国長の家督相続の承認など常に問題が山積していた。

これらを卑弥呼が占った後、詔として国長や民に伝えていたのは、二人の渡来人である。彼らは、常に卑弥呼の身辺に侍して微動だにしない忠勤の士であった。

二人の名は、吾一と吾参という。倭国直属の親衛隊隊長と副隊長であった。双子であった二人は、卑弥呼でさえ間違えそうになる程良く似ている。しかし、性格は右と左、黒と白というぐらい対称的であった。

二人は、他の親衛隊隊員や官使、文武官とは少し違っていた。倭国の民ではないし、天人でもない。はっきり言って天界とは何の関わりもなかった。何と二人は、遠い異国の出身者であったのである。



第 2 章 第 1 節

2016-04-23 14:38:29 | 長編小説
第 2 章 下界の卑弥呼

第 1 節 下僕

ここで話を卑弥呼に戻す。下界についてであるが毎年、天界から落ちる天人は、どうなったのであろうか。誰もが知りたい謎ではないだろうか。筆者も隠しておきたい訳ではない。少しばかり解釈を加えておく。

そもそも天人でしかない天の子は、いくら修養を講で積もうと登龍門に合格しなければ天女にはなれない。そして、銅講・銀講・金講をそれぞれ合格して天神となる。下界では、天人と人間では区別がつかない為、天界の掟により下僕として扱われるのである。

下僕は、天界で扱う修養を使えない。また、その能力がない。また、天の羽衣がないため寿命が尽きる。その一生を人間の家畜同然に扱われる運命にあった。下僕が、人間の役に立つか立たないかは、品格よりも体格にあると言って良かった。

然しながら、下僕も元はと言えば、天の子である。天寿を全うした下僕は、死後、天界に召されて天人と同列に祀られるのである。これは、天照大御神様の御配慮なのは言うまでもない。

ここで、卑弥呼が登龍門を合格して天女になったかどうかについて少しお話しする。どのような掟破りをして、下界へ降ったかは後で触れるとして、掻い摘んで説明する。

まず、卑弥呼は貧しい天男・天女の間に生まれた。幼い頃から、才気煥発な娘であった彼女は、何をさせてもそつがなかった。また、彼女はとても親孝行で、それを知らぬ者はないというぐらい有名な話であった。

そんな彼女も、他の天人と同じように登龍門に臨むことになるのである。そこで何と首席で卒業してしまうのである。更に、銅講・銀講も文句無しの首席で卒業して、金講5回生の秋、彼女に人生最大の転機が訪れるのである。

天界では、卑弥呼があと半年も経たずに卒業を迎え、晴れて天神となるはずであった。しかし、そのとき下界の倭国では、後継者争いから、乱れに乱れて醜い戦いが止むことがなかったのである。

繰り返し続く戦乱に、田は踏みにじられ家は焼かれる有様に、疫病が大流行し、人びとは生きる気力を失いかけた。誰もが、もうこの世の終わりをささやき始めた。そのとき!一人の天女が、立ち上がった‼︎

皆様、もうお解りでしょう。そう、天女・卑弥呼その御方であったのです。卑弥呼は、天神の位を得ずに下界の倭国王女として生きる道を選んだのでした。

倭国では、卑弥呼の超人的な働きにより争いはなくなります。民は熱心に稲作に従事して、秋には大豊作となりました。卑弥呼は、村ごとに用水路を整備して、衛生面を向上させます。また、薬草を栽培するのを奨励して、疫病を予防・治療するのに成功したのです。

他にも彼女の功績を挙げると、枚挙にいとまがありません。とにかく倭国の民は、歓喜して彼女を迎え入れ、王女として忠誠を誓うことを約束したのです。

ところで卑弥呼は、天神になれなかったことを、どのように思っていたのでしょうか?それは、貴方の想像力を膨らませて読み進めて頂ければ幸いです。そして貴方が、卑弥呼に成り切って感じて貰えれば、更に嬉しいです。



第 12 節 銅講

2016-04-23 10:23:56 | 長編小説
ここで後述となるが、由の命に別状はなかった。天女になれば、不老不死の天の羽衣を持っている。それは、天男も同じである。簡単に言うと登龍門を抜けて「 天の羽衣 」儀式を済ませていれば良いのである。

しかし、それでも由は、危うい所を助かったと言って良いだろう。由は、生まれつきの強運の持ち主であった。

それはともかく、由と京は、めでたく銅講へ入門することになった。これは、天の子と言えど狭き門である。由も京も胸を張って銅講の門を潜れる。銅講生と言えば、秀才の徒であった。

季節は、冬を越しようやく春を迎えようとしていた。天界にも下界と同じく生命の息吹が、あちこちに感じられて、自然と浮き立つ景色になりつつあった。

そして、春爛漫の桜が咲き乱れるなか、二人は、銅講へ入門した。それからも二人の友情は、変わらぬ清さがあった。加えて美貌も飛び抜けている。二人は、どこに行っても人気者であった。京は勿論のこと、由も天男の憧れの的であった。