『天女の涙』 ~倭国の命運や如何に~

今から1700年も昔の日本に栄えた古代都市、明日香京。謎に包まれた弥生時代をダイナミックに描く。

第 3 節 三国志

2016-05-13 14:19:16 | 長編小説
倭国は、当時の異国、とりわけ中華文化圏と頻繁に交流を行なっていた。魏国には、西暦239年に、卑弥呼の使節団が渡航して、青銅鏡・銅鐸・銅鉾・武具・刀剣など多数の埋葬品を持ち帰った。

これは、卑弥呼が二十八歳のときのことである。吾一と吾参が生まれるのは、その二十四年後の蜀漢滅亡の半年前のことである。

この時代の中国は、三国時代末期から晋に替わる時代の節目であった。このうねりの中、吾一と吾参は高貴な生まれの為、侍女達に守られて命からがら呉へと亡命したのである。

まだ赤子であった二人は、有名な軍師の血統を受け継いでいた。そう、蜀漢の宰相・諸葛亮孔明なのであった。二人の曾祖父は、伏龍と恐れられた天才軍師であったのである。

吾一と吾参は、蜀漢滅亡と同じくして西暦263年生まれである。呉の諸葛恪を頼ったが、その呉もそれから十七年後の280年、晋統一により滅亡してしまう。

諸葛一族は根絶やしにされたが、吾兄弟は落ちのびて倭国へ亡命した。それは、二人が十七歳のときのことである。

そのとき卑弥呼は、六十九歳になっており既に還暦を迎えていた。まだまだ健康な心身であった彼女は、彼等を一目見て気に入った。そして、宰相・諸葛孔明の子孫と聞いて、自らの親衛隊の長に抜擢したのであった。

諸葛吾一と諸葛吾参は、孔明に勝るとも劣らぬ治世・軍事の天才と言えた。その才能は、生き抜いた倭国で如何なく発揮されることになる。


第 2 節 渡来人

2016-05-12 22:28:03 | 長編小説
卑弥呼の宮殿には二千人の官使と二百人の文武官がいた。そして、国都・明日香京には、十万の民が暮らしていた。道路は、碁盤の目に整備され、市場では、週に一度市が開かれた。市では、大陸からもたらされた銅銭が使用され商売が賑わった。地方の国々では、物々交換が主流であったが、明日香京には国都の威厳が漲っていた。

明日香京は、約二百kmの外郭をぐるりと空堀で覆われていた。内側は、板葺きの塀で囲まれており、言わば、古代のお城とも言うべき要塞であった。

倭国は、邪馬台国など三十余国から成る連合国家であり、明日香京は、倭国の国都であると同時に邪馬台国の首都でもあった。

こうして日本の弥生時代には、国家が存在していた。そして、その頂点に女王卑弥呼が、君臨していたのである。

卑弥呼は、占いによってたった一人で国を動かしていた。彼女は、寝る間も惜しんで精力的に働いた。大臣や文武官がいるとはいえ、彼女の占いには、皆、絶対的な信頼を寄せていた。

連合国家倭国は、卑弥呼のカリスマ性によって一つにまとまっていたのである。

倭国の軍事力は、国長が、国内の十八歳以上の男子を徴兵して、各国の首都や明日香京の警備に当たらせていた。

その内、卑弥呼の身辺を護る親衛隊は、倭国直属の最高司令部であり、主に有力な国長の子弟が任命された。

卑弥呼と寝食を共にし、倭国全土を動かす訳であるから、良家の子弟達にとっては、名誉な任務と持てはやされた。しかし、その実は、倭国と邪馬台国に忠誠を誓わせる為の苦肉の策でもあった。

卑弥呼は、倭国に忠誠を誓った国々が争いを起こさないように配慮した。まず、国都まで届けられた、ありとあらゆる問題を文武官に精査させてから各大臣に吟味させた。そして、上奏された嘆願書を占いその結果が出ると、倭国王女の詔として勅命が下されるのである。

卑弥呼の元には、祭祀の視察依頼、国と国との土地・水権争いの仲裁、国長の家督相続の承認など常に問題が山積していた。

これらを卑弥呼が占った後、詔として国長や民に伝えていたのは、二人の渡来人である。彼らは、常に卑弥呼の身辺に侍して微動だにしない忠勤の士であった。

二人の名は、吾一と吾参という。倭国直属の親衛隊隊長と副隊長であった。双子であった二人は、卑弥呼でさえ間違えそうになる程良く似ている。しかし、性格は右と左、黒と白というぐらい対称的であった。

二人は、他の親衛隊隊員や官使、文武官とは少し違っていた。倭国の民ではないし、天人でもない。はっきり言って天界とは何の関わりもなかった。何と二人は、遠い異国の出身者であったのである。