【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =051=

2017-11-13 06:15:18 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠

◇◆  公子さんのこと・・・・・ =2/4=  ◇◆

 公子さんは例年、加藤さんと連れ立って、正月を京都で過ごしていた。74年も、という話をしていたら、植村が話に入ってきて、その折にぜひ自分の田舎の日高町に来てくれないか、という。公子さんはいちおう植村家への手みやげを用意して、京都に行った。

 京都に着いて2日目の朝、公子さんのもとに、母方のおばあさんが亡くなった、という電話があった。京都で植村と会う約束があった、同じ日のことである。その晩、京都の宿で加藤さんもいれて長々と話し合ったけれど、結論は出ず。公子さんはおばあさんの葬式に出るために東京に戻った。

 植村も怒ったようすだったから、この話は終ったかな、と公子さんは思っていた。しかし、正月が過ぎると、植村はマツバガニをおみやげに公子さんを訪ねてきた。その後、日曜日などに、野崎家に夕食を食べにくるようになった。

 2月に、植村の長兄修さんと次兄が連れ立って、野崎家に結納をもってきた。公子さんの母親も納得して、話がそこで本決まりになった。というところまでは、まずはよくある展開といっていいだろう。その後がおかしい。こともあろうに植村は、結納の翌日、ネパールに旅立ったのである。「公ちゃんあとは全部まかせるから」といって。明大炉辺会(山岳部OBの会)のヒマラヤ偵察隊員として、ダウラギリの偵察に赴いたのだ。

 そして5月、予定より1週間遅れて帰国。あわただしく日取りを決め、5月18日、近所の氷川神社で式を挙げた。仲人は明大山岳部の大先輩、大塚博美氏(後に日本山岳会会長)だった。結婚までの経緯を長々とたどったのは、これがいかにも植村流だからである。

 ひとりで思いをめぐらし、自分では清水の舞台から飛び降りて、プロポーズしたつもりでいる。あたりまえに考えれば、彼の強烈な思いは、相手に半分もつたわらない、となっても仕方がない。公子さんはそれまでの長くはないつきあいのなかで、そのような植村流をちゃんと察していたに違いない。

 ダウラギリに飛び出していって、カトマンズとかさらに山の近くから、何度か公子さん宛てに手紙を書いている。手紙はすべて(かほとんど)が、『植村直己 妻への手紙』(文春新書、2002年刊)に収録されている。

 その3月28日付の一通から。《このヒマラヤ山中にも、心はいつも東京にあり、我々の5月の式のことが心配であり、便りせずにいられません。私の今の予定では4月末頃、または5月始めには東京へ帰ることができます。私の5月の希望としては、公ちゃんの希望の日程で式をあげてもらえば結こうです。(中略)式その他の件、公ちゃんの判断で総てきめて下さい。たいへんかってな言い方で申し訳けございませんが宜しくお願い致します。(後略)》

 結納の翌日飛び出して行って、あとはどうぞよろしく、というのはもちろん身勝手でもある。しかしいっぽうで、早くも公子さんに頼りきっている、ともいえるのである。植村にとっては、頼りきる相手として公子さんがいた。公子さんがそういう自分を受け入れてくれると確信した。これはその後もずっと変わることがなかった。

 この少し前、3月17日付の手紙に、「公ちゃんとの出合は私の人生を総てかえ」た、と書いている。「俺のような悪人につかまってしまったと、一生を棒にふってしまったとあきらめて下さい」とも書いている。言葉の飾りでいっているのではない、植村の真からの思いだろう。頼りにされるほうとしては、いわくいいがたい大変な人生を送ることを強いられるだろうが、それはひとまずおく。

植村が遭難した年の6月、私は文藝春秋6月臨時増刊号「植村直己・夢と冒険」の編集を担当した。そのとき、公子さんがこんなものがあります、といって見せてくれた24葉の山のスケッチがあった。植村が公子さん宛てに、毎日のように書き送った「山の絵本」ともいうべき絵と文章である(これも『植村直己 妻への手紙』に収録されている)。

 最初の3月31日は、「テルタンにて」とあって、次のような文章(イラスト参照)。現地で入手した和紙に、ペン書のスケッチと詩のような文。ヒマラヤの清澄な空気が伝わってくるような手紙である。植村の心の柔らかい部分が、1枚1枚から溢れ出てくるように見えて、私は驚嘆した。

『植村直己 妻への手紙』(文春新書)は、植村がいなくなってからずいぶん時を経て編まれた1冊である。そこで公子さんは心やさしい、短い文章をあとがきのように書いている。冒頭の1行に、《これは、私ひとりだけの「北極圏一万二千キロ」、そして、植村直己物語です。》とあるように、一万二千キロの旅のときの手紙が圧倒的に多い。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=テリス・ムーア

後にブッシュパイロット、官吏となりアラスカ州立大学の学長も勤めた多才な登山家。 1932年のミニヤコンカ登山では高度馴化の生理学的システムも判明していず、登山に適した化学繊維も無い時代、満足な数のポーターも揃えられない中、正確な測量、動物・鉱物サンプルの収集などを行いながら、一人の死者も出すことなく登頂し生還した。 第二次大戦後に恵まれた装備で挑んだ隊が大量の遭難死者を出していることからも彼らが克服した困難の大きさがわかるだろう。

1993年に老衰で死去するも、彼がアメリカ登山界に残した足跡は大きい。 ≪ ミニヤコンカ 初登頂 / サンガイ山 初登頂 / ボナ山 初登頂 / フェアウェザー山 初登頂 ≫

※ ミニヤコンカ : ヒマラヤ山脈の各峰の標高が正確に測定される前は、標高30250フィート(9220m)とされ、世界最高峰に位置づけられたこともあり、古くから登山の対象となっている。しかし、急峻な地形と「頂上に騙される」と遭難者が評する不明確な山頂、目まぐるしく変化する天候の為に登頂に成功した者は20名に満たず、世界でも屈指の難峰となっている。

初登頂は当時としては異例とも言える少人数の隊によって達成された。当初、エベレストより高い可能性があると目されていたアムネ・マチン峰の遠征隊として12人の参加が予定されていたが、戦争の勃発により登頂許可が得られなかったため遠征が頓挫。一部は無許可のままアムネ・マチン峰へ向かったが、リチャード・L・バードソル、テリス・ムーア、アーサー・エモンズ3世、ジャック・セオドール・ヤングの4人はミニヤコンカの測量および登路偵察、大型獣の標本採集を目的とした西康遠征隊を結成した。

満州事変の混乱に加えて中華民国軍はチベット軍との戦闘も行っていたため、最寄の都市である打箭爐周辺でも人足や駄獣の大規模な徴発が行われており、資材の運搬要員の確保にも困難を極めた。結果として最終的にベースキャンプより上でも活動したハイポーターはわずか2人、ヤング隊員は第1キャンプへの荷揚げを完了すると撤収の際に必要なポーターの手配と折衝をするために下山したため、終盤の登山活動は3人で行われた。

エモンズが手を負傷したため最終アタックはバードソルとムーアの2人で行われ、6700m地点に設営された第4キャンプから9時間半かけて登頂に成功した。なお、登頂前に4人はより綿密な測量活動を行い、ミニヤコンカの標高は7587m(24891フィート)、測定誤差±25m(85フィート)と現在の計測値に非常に近い数値を算出している。この標高の登頂は1931年に登頂されたインドのカメット峰(7756m)に次ぐ世界第二位の記録だった。

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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