偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏612松田山(神奈川)矜羯羅童子、制吒迦童子

2015年10月09日 | 登山

松田山(まつだやま) 矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒迦童子(せいたかどうじ)

【データ】松田山 550メートル(地図に山名なし)▼最寄駅 小田急小田原線・新松田駅、JR御殿場線・松田駅▼登山口 神奈川県松田町の根石集落▼石仏 最明寺跡。地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】ゴルフ場や公園になってしまった松田山に、最明寺という寺があったのは鎌倉時代のこと。寺跡に立つ案内には「浄蓮上人が信州善光寺の一光三尊の仏を模写し松田山頂に安置したのが始まり」とある。浄蓮坊源延は天台宗の僧。延暦寺や熱海市の走湯山で学び、走湯山の別当職も務めた(注)。その最明寺も室町時代の中期に寺勢が衰え、山麓に降ろしたのが大井町金子にある最明寺だという。それでも江戸時代の石造物が残っているので、寺が降ろされた後も何らかの信仰がほそぼそと続いていたようである。上写真は最明寺史跡公園。下写真は2基の不動三尊とそれぞれの矜羯羅、制吒羅童子。



 最明寺跡への道は根石から始まる。登山口に並ぶ馬頭観音は寺への物資を運んだ馬を供養したものか。寺跡までは車道歩きとなる。途中に荷を運ぶ親馬が仔馬を励ましたという伝承の〝物言い坂〟がある。いま最明寺跡は公園になっていて、護摩堂跡に石仏が並ぶ。その中に矜羯羅・制吒迦童子を従えた不動三尊が二基立っている。一つには江戸時代末期の「弘化」の銘がある。蓮華を持つのが矜羯羅童子、宝棒を持つのが制吒迦童子。いずれの童子も20センチに満たない小さな像で愛らしい。
 矜羯羅童子には二つの姿がある。蓮華の他に、両手で合掌してそこに経典をのせる像容もあり、石仏では両者が見られる。江戸時代の仏像図版集『佛像圖彙』の矜羯羅童子は合掌、蓮華を持つのは掌善(しょうぜん)童子としている。掌善は掌悪童子とともに地蔵菩薩の脇侍となるが、この三尊の石仏は少ない。
(注)走湯山は伊豆山とも称され、中世の関東における熊野信仰の中継基地とされた山。『日本仏教史辞典』(吉川弘文館)の源延(1156~?)には、伊豆山で書写したものが横浜市の金沢文庫に現存しているとある。



【独り言】善光寺如来 最明寺護摩堂跡の中央に、ここにあった寺は善光寺三尊を祀っていたと言いたげに「善光寺如来」銘の石塔が立っています。高さ140センチ。造立年がないのでいつのころの造立かはわかりません。上部の種字、キリーク(阿弥陀)・サ(観音)・サク(勢至)がはっきり残っています。脇に「西明徒者貫辧」とありました。西明は最明寺、徒者(いたずらもの)貫辧とは何者なのでしょう。


 上の写真は、松田山から西に離れた静岡県小山町の明神峠への山中にある善光寺式阿弥陀三尊の石仏。ここは江戸時代末期の念仏行者・唯念が籠ったところです。


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