偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏738富士山・小富士(静岡)扶桑丸山教

2017年06月19日 | 登山

富士山・小富士(こふじ) 扶桑丸山教(ふそうまるやまきょう)

【データ】 富士山・小富士 1970メートル▼最寄駅 JR御殿場線・御殿場駅▼登山口は二つ 静岡県小山町須走のふじあざみライン狩休バス停、同ライン五合目駐車▼石仏 小富士山頂、地図の赤丸印。青丸は狩休バス停、緑丸は道標▼地図は国土地理ホームページより

【案内】 富士山の須走口五合目から登り出してすぐ、右手の森へ入るのが小富士への道。平坦な道が続いて森が切れると突然展望が開け、砂地の上に石が積まれた小富士に出る。石積は二か所で、大きい方の上に石祠が祀られている。ただ小富士にどのような信仰があったのかは知らない。祀られている石祠の祭神もわからない。
 石祠の側面には「大正十五年七月廿一日建立 東京府荏原郡松澤村松原 神道扶桑丸山教院」とある。松澤村松原は今の世田谷区松原。扶桑丸山は富士信仰の枎桑教と丸山教である。いずれも明治になって立ち上げられた富士講の流れをくむ組織。これらについては大谷正幸氏の『角行系富士信仰』(注1)に詳細されているので、そこから引用して簡単に紹介する(大谷氏は扶桑の扶を「枎」が正しいとしているが、ここでは一般的な扶とする)。
 富士信仰の流れをくむ扶桑教が教派神道として認められたのは明治15年。組織したのは薩摩国隅之村(薩摩川内市)生まれの宍野半(1844~1884)。宍野は、明治政府教部省で民間信仰事情の調査員から富士信仰に飛び込んだ人である。一方丸山教は、武蔵国登戸村(川崎市)生まれで〝生神行者〟と呼ばれた伊藤六郎兵衛(1829~1894)を教祖とする組織。しかし富士信仰の流れをくみなら、カリスマ性をもって人集めをするという特異性から教派神道には認められなかった。この二つが合同したのが明治8年。組織がしっかりしていたが資金不足の扶桑教と、資金は豊富だが取締りの対象になっていた丸山教が、お互いの欠点を補うための合体であった。しかし反りが合わない両組織は明治18年に解消してしいる。
 扶桑教が松沢村松原に本部を移したのは大正8年。小富士の石祠の造立は大正15年。その石祠に解消した「扶桑丸山教院」銘があるのはどうしてなのか、わからない。振りかえると、雪が残る富士山はまだそれらしき姿をとどめていた。
(注1)大谷正幸著『角行系富士信仰』平成23年、岩田書院

【独り言】 車道が開かれて利用されなくなった須走口のかつての登山道が復活しているというので、狩休(古くは苅休)から歩いてみました。

 狩休にはバス停があり、登山道は車道の北側の森の中を緩やかに登って行きます。しばらく登ると「九十四丁目」銘の道標がありました。高さ約50センチのこの道標は「九十五」「九十六」「九十七」まで次々に出てきて、その後は見つかりません。新しい道標のようです。しばらく登ると「雲切神社跡」の標識。『小山町の歴史』(注2)には、この道にある須走浅間神社の最初の末社で、大日尊雲切不動尊を祀っていた神社(注2)とありますが、いまは何もない森の中です。すぐ社殿の残骸が残る御室神社跡に出ます。『小山町の歴史』には「参詣人改所があって女性はこれ以上登れなかった」とあります。背もたれに森永のレトロな看板がある長椅子があって、登山を始めた昭和40年代にタイムスリップした感じです。
 次に昭和10に立てた「小富士山参道」の石柱に出会います。小富士と富士山への道の分岐で、昼食場という小屋があった場所のようですが、その痕跡はありません。小富士への道も見当たりません。現在の小富士への分岐はもう少し登ったところで、須走口の五合目駐車場からくる道に出合います。

 五合目の車道脇にある「奉納古御嶽 嘉永元年(1848)」銘の手水鉢は、すっかり忘れられてしまったという感じです。すぐ上が古御嶽神社。登山道を挟んで左にちんまりした古御嶽神社社殿、右に富士講碑が立っています。頭の山東講の講紋に続いて「三十三度大願成就 東眞誠講社大先達田内榮次」。高さ170センチで明治43年の造立です。ここから本格的な富士登山が始まります。
(注2)小林兼光著「絵葉書に見る富士山東口須走登山道」『小山町の歴史 第8号』平成6年、小山町史編さん専門委員会

【追伸 2017-06-23】分中の扶桑丸山教で引用させていただきました『角行系富士信仰』の筆者・大谷正幸氏からコメントをいただきました。


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1 コメント

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Unknown (大谷正幸)
2017-06-22 23:45:01
ご無沙汰しております。
「扶」字については、たぶんくずして書いていたのが木偏で定着してしまったみたいな話だと思っています。ともかく。

「大正十五年七月廿一日建立 東京府荏原郡松澤村松原 神道扶桑丸山教院」については確かに不思議な銘文です。あの丸山教会だったら住所は川崎の登戸村になっているはずですし、そもそも大正年間では代替わりもして全く別の組織になっているはず。

もしかすると、その「神道扶桑丸山教院」は登戸の丸山教とは別物の扶桑教傘下の団体なのかもしれません。
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