
ラジオをかけて仕事をしてる。
知的労働ではないので、割かたちゃんと歌詞を聞いている。
ある日の特集に流れた歌
@@沢田知加子「会いたい」
@@虎舞竜「ロード」
人の死を詩にする。それはあることだろう。
しかしそれに楽曲がつき歌になり商品になり、そこここで流れる。
聴覚に流されずちょっと澱む。コメカミにわずかに筋が入る。
若かりし日のリアルタイムで聞いた、ユーミンの「ひこうき雲」の時は感じなかった、ひっかかり、不快感。
なんなのだろう。小説のように紙に印刷された死は良くて、曲が付けられラジオ、有線から流れる歌がいけないというのも、底意地の悪い「いいがかり」だろうか。
人それぞれの節操というものには差があり、そんな目くじら立てなくても
と言われるのもわかる。わかるが・・・・
「ロード」
冬も終わりに近づき 借りたての部屋の中
突然闇に落とした 悪夢のような電話
病室のベッドの上 まるで子供のように
微笑みを浮かべたまま 眠れる森の少女
ちょうど一年前に この道を通った夜
あの時と同じように 雪がちらついている
「会いたい 」
「遠くへ行くなよ」と
半分笑って半分真顔で 抱き寄せた
低い雲を広げた冬の夜
あなた夢のように 死んでしまったの
今年も海へ行くって
いっぱい映画も観るって
約束したじゃない
あなた 約束したじゃない 会いたい…※
「ひこうき雲」
空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ
上の二つは死にゆく人の一番近しい人の気持ちが歌われ、「ひこうき雲」はあきらかに遠くに眺めた「死」を歌っている。
近しい人(愛していた人)の死を歌にし商品化してしまうところに、
「浅ましさ 卑しさ」を感じるのは間違いだろうか
上2曲を聞いて涙する人を「心優しい人」とは言いたくない
「想像力が豊か」は言ってもいい
感傷的になることは悪いことではない、「他人の痛みがわかる人」はいい人だ、けれど感傷を利用した商品は下品であり悪徳でもある。
詩も小説も赤裸々な本心を表すことは非難されることじゃないかもしれない、たまたま私は嫌いだ、商品となりうるものには「努力と研鑚の結果としての洗練さ 機能?性」を感じなくては商品にしてないけない。
食べるものはこの真逆にある。
自然の力に反した作法の食料は食べ物にしてはいけない。
削り落とされたものを抱合しているから、聞く者、読む私たちの知性や想像力を刺激し、伝たわるのだと思う。
「愛する人の死」は駅やフリマで自費出版の詩集として売るべきものだ。
商業ベースに乗せるのは、商いのモラルに反している。
あくどい霊感商法とほぼ同様の扱いをするべきだ。
これを歌ってる人の品性を問うているのではない。
三船ミカさんは若くてもきちんとした人間でいらっしゃると感じる。
こういう歌を受け入れてしまう(上っ面のやさしさの蔓延)的風潮がイヤなのだ。
ちょっとオバさん機嫌悪いかも・・・いつものことか
知的労働ではないので、割かたちゃんと歌詞を聞いている。
ある日の特集に流れた歌
@@沢田知加子「会いたい」
@@虎舞竜「ロード」
人の死を詩にする。それはあることだろう。
しかしそれに楽曲がつき歌になり商品になり、そこここで流れる。
聴覚に流されずちょっと澱む。コメカミにわずかに筋が入る。
若かりし日のリアルタイムで聞いた、ユーミンの「ひこうき雲」の時は感じなかった、ひっかかり、不快感。
なんなのだろう。小説のように紙に印刷された死は良くて、曲が付けられラジオ、有線から流れる歌がいけないというのも、底意地の悪い「いいがかり」だろうか。
人それぞれの節操というものには差があり、そんな目くじら立てなくても
と言われるのもわかる。わかるが・・・・
「ロード」
冬も終わりに近づき 借りたての部屋の中
突然闇に落とした 悪夢のような電話
病室のベッドの上 まるで子供のように
微笑みを浮かべたまま 眠れる森の少女
ちょうど一年前に この道を通った夜
あの時と同じように 雪がちらついている
「会いたい 」
「遠くへ行くなよ」と
半分笑って半分真顔で 抱き寄せた
低い雲を広げた冬の夜
あなた夢のように 死んでしまったの
今年も海へ行くって
いっぱい映画も観るって
約束したじゃない
あなた 約束したじゃない 会いたい…※
「ひこうき雲」
空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ
上の二つは死にゆく人の一番近しい人の気持ちが歌われ、「ひこうき雲」はあきらかに遠くに眺めた「死」を歌っている。
近しい人(愛していた人)の死を歌にし商品化してしまうところに、
「浅ましさ 卑しさ」を感じるのは間違いだろうか
上2曲を聞いて涙する人を「心優しい人」とは言いたくない
「想像力が豊か」は言ってもいい
感傷的になることは悪いことではない、「他人の痛みがわかる人」はいい人だ、けれど感傷を利用した商品は下品であり悪徳でもある。
詩も小説も赤裸々な本心を表すことは非難されることじゃないかもしれない、たまたま私は嫌いだ、商品となりうるものには「努力と研鑚の結果としての洗練さ 機能?性」を感じなくては商品にしてないけない。
食べるものはこの真逆にある。
自然の力に反した作法の食料は食べ物にしてはいけない。
削り落とされたものを抱合しているから、聞く者、読む私たちの知性や想像力を刺激し、伝たわるのだと思う。
「愛する人の死」は駅やフリマで自費出版の詩集として売るべきものだ。
商業ベースに乗せるのは、商いのモラルに反している。
あくどい霊感商法とほぼ同様の扱いをするべきだ。
これを歌ってる人の品性を問うているのではない。
三船ミカさんは若くてもきちんとした人間でいらっしゃると感じる。
こういう歌を受け入れてしまう(上っ面のやさしさの蔓延)的風潮がイヤなのだ。
ちょっとオバさん機嫌悪いかも・・・いつものことか
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