「米軍の対北朝鮮軍事作戦と拉致被害者救出作戦 講師:恵谷治氏」
レポート その2
『恵谷治氏の講演 1』
どうもはじめまして。
ここにも多少経歴があるんですが少しだけ、自分の事をお話したいと思います。
私は大学を出てからすぐにアフリカに行きまして、何度も通いながら、メインはアフリカの紛争地帯のゲリラ側に潜入すると言う行為を繰り返して来ました。
1980年の・・・・・・(聞き取れず)ですから、30代40代半ばまでは現場に入るという。
その入れる過程において様々な問題、それをクリアしていくと言うのが自分の仕事だろう、自分の経験にしたいとやって参りました。
外国に入るに当たって横たわる難問、問題を解決するにはその状況、その場その場ですね。
状況を知るという行為が必要でありまして、そういう中で情報収集をやる。
一方でそれを阻止しようとする側がいるわけで、そことの丁々発止、これをかいくぐりながら・・・(聞き取れず)に入りゲリラたちと一緒に過ごして、無事に日本に帰ってくると。
当然ながらその間、軟禁をされたりですね。
行方不明になったり、それは状況から見て、まぁそういう事を繰り返してきました。
ですからそういった経験から考えて北朝鮮と言う事を考えるとですね。
あの国の体制と言うのがいかに厳しいと言いますか、潜入する事が困難かと言う事がよく分かります。
正直言いまして朝鮮語がもう少し出来ればですね、旧満州側から物売りにでも化けて入りたいと何度も思ったんですが、さすがに足腰も少し衰えてきて、プラス北の実態を知るとそれまで入ったような所で、軟禁された後開放されると言うような状況ではない。
そういう国ではない、と言う事を考えていわば諦めました。
私は1987年に北朝鮮に入りました。
当時初めて観光旅行が認められて、それ以前はですね。
社会党の友好親善団とか、そういう形でしか行けませんでしたが、金さえ払えば誰でも行けるという観光旅行。
それが当時8日か9日だったと思いますが、それで45万円でした。
(北朝鮮の)金稼ぎですが、入れてくれるならと行きたいと行きました。
その事で少しお話しますと私は2回行きました。
1回目の87年10月に行きまして、その直後11月に例の大韓機事件が起きました。
工作員の持ち物を見れば、もうこれは誰が見ても北朝鮮です。
そういうのは私は直感できましたから、当時様々な意見がありましたがこれは間違いがないとずっと思っていましたが、それは別としてですね。
87年に行った時には私はもちろんカメラを、今は重いので余り持ちませんが、ニコン2台抱えて写真を撮る。
案内員にですね。
「自分は写真を撮りたいので、撮っては拙い所は予め言って欲しい」
で、いろいろ撮って、さすがに元山の港の時は撮っては駄目だと一度だけありましたが、そういう事を言われる前に既に撮ってましたから問題はなかったんですが。
とにかく彼等から見るとですね。
最初の観光客にどう接していいか?どう規制していいか?分からないんですね。
それまではですね、もう自主規制で、例えば鉄条網が海岸線ずっと張ってあるんですが、それなんかバチバチ私が撮る。
それを向こうでそれを撮っては駄目だと言えない。
つまり上からの指示がなければ何も動けない。
これが北朝鮮です。
そうした中で、私は観光バスの中から必ず住民に手を振る、例外なく。
で、例外なく無視されました。
ところが91年、2度目に同じ作業をしました。
そうすると例外なく手を振ってきました。
つまりそれは旅をしている団体、全部どこにもですね。
つまり党の指示、上部の指示が一度決定すれば末端まで行き届くと。
その実態を本当に見た思いでした。
もうひとつついでに言えばですね。
2度目に行った時は私は1度目に行って、平壌の地下鉄の路線図とかを作るのが私の個人的な目的でした。
それは上手く行きまして雑誌に発表して、2度目に行った時はその雑誌をわざわざ意図的に持って行って、その地図上にはですね。
大韓機の実行犯の金賢姫の家があるというのを私は事前に書き込んだ物を私は用意したんですが。
それを案内員に見せてですね。
「日本の雑誌のここに、この地名に金賢姫の家があるそうなので行ってみたい」と車をチャーターして話しかけてどういう反応があるか?と見ましたが、さすがにですね。
車で、「さぁ行きましょう」と言って、案内員とは日本語で「金賢姫の家にアパートに行きたい」と言って車は動き始めたんですが、金賢姫の家に行くという話題をした途端にですね。
運転手がばっと聞き耳をそばだてる。
そばだてると言うのは、俺がこの中で一番偉いんだと、分かりながらですね。
「はい、行ってください」と、道が全然違うんです。
私は地図を描いたくらいで道は頭に入ってるんです。
「運転手さんそれは違う、もっと右に回って」と。
ところがとにかくその目的地に行かないんです。
でまぁこれは当然拒絶されているだろうから、それでも私は意図的に「私はちゃんと頭に入ってるんだ」と、「この信号を右に行って左に行って」と指示してとにかく現場まで行きました。
ただそのときの状況を私が描いた・プロットした地点は実は誤った情報でありまして、実際にはそこではなかったんですが。
で結果的には「何をしたいんだ?」って言うから「いやここで写真を撮ればいいんだ」と写真を撮って帰りました。
それでここまででどういう反応があるか冷や冷やして、私はいろいろそういう世界ばかり歩いてますから、いつ踏み込まれてもいいように、今はデジタルですが当時フィルムで、私はフィルムはですね。
撮ったフィルムは通常は巻き込む。
撮ってない物は(フィルムの端が外に)出るわけですね。
私はいつも逆にしているんです。
終わったのはべろを巻き込まないで出してですね。
新しいのはギリギリ1ミリか2ミリ、見えるか見えないかから引っ張り出す。
で新しいのを使う。
ですから撮った物を、これは撮ってないからこっちだと、実際そういうやり取りをやった事もありますが、そういうふうにして平壌を出るときに何をやられるかなと思ったら、思いがけずノーチェックでした。
で、91年以降は何度ビザを申請してもビザが取れなかった。
それもですね、観光旅行として東京のJTBで駄目であれば大阪の近畿ツーリストとか仙台とか、とにかくいろんな所で申請して、最終的には行く所まで行って電話がかかってきて「駄目です」と。
「理由を教えてください」と言っても、「それは教えられない」というような反応です。
まぁ逆にこれは入れて貰えないと言う事であれば、それはそれなりにスタンスが決まってですね。
書きやすい、発表しやすいという事で今日までやって来ました。
さて本題ですが、今日の戦略情報研究所の荒木さんから話があって、私も特定失踪者調査会の今年から役員をさせて頂いておる中で、この話をしてもらえないか?と言われたときに、ちょっと準備の期間がないんでと一旦はお断りしたんですが、と申しますのも私丁度引越しをしましてですね。
資料その他がまだ整理がついてなくて、プラス無二の親友が死んだりしてばたばたして準備する時間が無くて、今日ここにいるんですが。
そういった言い訳をするんではありませんが、本来は過去における人質救出作戦の事例をお話してその事例と、北朝鮮の拉致被害者救出作戦の比較と言う物をしてみたかったんですが、それが出来ませんでした。
ただここにあります米軍の軍事作戦についてお話して、それとも密接な関係があります。
それとその後に我が自衛隊による救出作戦と言う物を考えてみたいと思います。
・・・レポートその3に続く・・・
レポート その2
『恵谷治氏の講演 1』
どうもはじめまして。
ここにも多少経歴があるんですが少しだけ、自分の事をお話したいと思います。
私は大学を出てからすぐにアフリカに行きまして、何度も通いながら、メインはアフリカの紛争地帯のゲリラ側に潜入すると言う行為を繰り返して来ました。
1980年の・・・・・・(聞き取れず)ですから、30代40代半ばまでは現場に入るという。
その入れる過程において様々な問題、それをクリアしていくと言うのが自分の仕事だろう、自分の経験にしたいとやって参りました。
外国に入るに当たって横たわる難問、問題を解決するにはその状況、その場その場ですね。
状況を知るという行為が必要でありまして、そういう中で情報収集をやる。
一方でそれを阻止しようとする側がいるわけで、そことの丁々発止、これをかいくぐりながら・・・(聞き取れず)に入りゲリラたちと一緒に過ごして、無事に日本に帰ってくると。
当然ながらその間、軟禁をされたりですね。
行方不明になったり、それは状況から見て、まぁそういう事を繰り返してきました。
ですからそういった経験から考えて北朝鮮と言う事を考えるとですね。
あの国の体制と言うのがいかに厳しいと言いますか、潜入する事が困難かと言う事がよく分かります。
正直言いまして朝鮮語がもう少し出来ればですね、旧満州側から物売りにでも化けて入りたいと何度も思ったんですが、さすがに足腰も少し衰えてきて、プラス北の実態を知るとそれまで入ったような所で、軟禁された後開放されると言うような状況ではない。
そういう国ではない、と言う事を考えていわば諦めました。
私は1987年に北朝鮮に入りました。
当時初めて観光旅行が認められて、それ以前はですね。
社会党の友好親善団とか、そういう形でしか行けませんでしたが、金さえ払えば誰でも行けるという観光旅行。
それが当時8日か9日だったと思いますが、それで45万円でした。
(北朝鮮の)金稼ぎですが、入れてくれるならと行きたいと行きました。
その事で少しお話しますと私は2回行きました。
1回目の87年10月に行きまして、その直後11月に例の大韓機事件が起きました。
工作員の持ち物を見れば、もうこれは誰が見ても北朝鮮です。
そういうのは私は直感できましたから、当時様々な意見がありましたがこれは間違いがないとずっと思っていましたが、それは別としてですね。
87年に行った時には私はもちろんカメラを、今は重いので余り持ちませんが、ニコン2台抱えて写真を撮る。
案内員にですね。
「自分は写真を撮りたいので、撮っては拙い所は予め言って欲しい」
で、いろいろ撮って、さすがに元山の港の時は撮っては駄目だと一度だけありましたが、そういう事を言われる前に既に撮ってましたから問題はなかったんですが。
とにかく彼等から見るとですね。
最初の観光客にどう接していいか?どう規制していいか?分からないんですね。
それまではですね、もう自主規制で、例えば鉄条網が海岸線ずっと張ってあるんですが、それなんかバチバチ私が撮る。
それを向こうでそれを撮っては駄目だと言えない。
つまり上からの指示がなければ何も動けない。
これが北朝鮮です。
そうした中で、私は観光バスの中から必ず住民に手を振る、例外なく。
で、例外なく無視されました。
ところが91年、2度目に同じ作業をしました。
そうすると例外なく手を振ってきました。
つまりそれは旅をしている団体、全部どこにもですね。
つまり党の指示、上部の指示が一度決定すれば末端まで行き届くと。
その実態を本当に見た思いでした。
もうひとつついでに言えばですね。
2度目に行った時は私は1度目に行って、平壌の地下鉄の路線図とかを作るのが私の個人的な目的でした。
それは上手く行きまして雑誌に発表して、2度目に行った時はその雑誌をわざわざ意図的に持って行って、その地図上にはですね。
大韓機の実行犯の金賢姫の家があるというのを私は事前に書き込んだ物を私は用意したんですが。
それを案内員に見せてですね。
「日本の雑誌のここに、この地名に金賢姫の家があるそうなので行ってみたい」と車をチャーターして話しかけてどういう反応があるか?と見ましたが、さすがにですね。
車で、「さぁ行きましょう」と言って、案内員とは日本語で「金賢姫の家にアパートに行きたい」と言って車は動き始めたんですが、金賢姫の家に行くという話題をした途端にですね。
運転手がばっと聞き耳をそばだてる。
そばだてると言うのは、俺がこの中で一番偉いんだと、分かりながらですね。
「はい、行ってください」と、道が全然違うんです。
私は地図を描いたくらいで道は頭に入ってるんです。
「運転手さんそれは違う、もっと右に回って」と。
ところがとにかくその目的地に行かないんです。
でまぁこれは当然拒絶されているだろうから、それでも私は意図的に「私はちゃんと頭に入ってるんだ」と、「この信号を右に行って左に行って」と指示してとにかく現場まで行きました。
ただそのときの状況を私が描いた・プロットした地点は実は誤った情報でありまして、実際にはそこではなかったんですが。
で結果的には「何をしたいんだ?」って言うから「いやここで写真を撮ればいいんだ」と写真を撮って帰りました。
それでここまででどういう反応があるか冷や冷やして、私はいろいろそういう世界ばかり歩いてますから、いつ踏み込まれてもいいように、今はデジタルですが当時フィルムで、私はフィルムはですね。
撮ったフィルムは通常は巻き込む。
撮ってない物は(フィルムの端が外に)出るわけですね。
私はいつも逆にしているんです。
終わったのはべろを巻き込まないで出してですね。
新しいのはギリギリ1ミリか2ミリ、見えるか見えないかから引っ張り出す。
で新しいのを使う。
ですから撮った物を、これは撮ってないからこっちだと、実際そういうやり取りをやった事もありますが、そういうふうにして平壌を出るときに何をやられるかなと思ったら、思いがけずノーチェックでした。
で、91年以降は何度ビザを申請してもビザが取れなかった。
それもですね、観光旅行として東京のJTBで駄目であれば大阪の近畿ツーリストとか仙台とか、とにかくいろんな所で申請して、最終的には行く所まで行って電話がかかってきて「駄目です」と。
「理由を教えてください」と言っても、「それは教えられない」というような反応です。
まぁ逆にこれは入れて貰えないと言う事であれば、それはそれなりにスタンスが決まってですね。
書きやすい、発表しやすいという事で今日までやって来ました。
さて本題ですが、今日の戦略情報研究所の荒木さんから話があって、私も特定失踪者調査会の今年から役員をさせて頂いておる中で、この話をしてもらえないか?と言われたときに、ちょっと準備の期間がないんでと一旦はお断りしたんですが、と申しますのも私丁度引越しをしましてですね。
資料その他がまだ整理がついてなくて、プラス無二の親友が死んだりしてばたばたして準備する時間が無くて、今日ここにいるんですが。
そういった言い訳をするんではありませんが、本来は過去における人質救出作戦の事例をお話してその事例と、北朝鮮の拉致被害者救出作戦の比較と言う物をしてみたかったんですが、それが出来ませんでした。
ただここにあります米軍の軍事作戦についてお話して、それとも密接な関係があります。
それとその後に我が自衛隊による救出作戦と言う物を考えてみたいと思います。
・・・レポートその3に続く・・・