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mika-dechen bud

ヨガインド修行〜子育てまで

10日間のヴィパッサナー瞑想で別人になって帰ってきた人

2010-06-14 01:51:00 | 瞑想
ある人が悟りをめざして心の勉強をしていました。
でもあるときから、その勉強は進む方向を見失い
ゆがんだ知識になり、闇に入って行ってしまった。

その闇の中で、
パートナーや、その子供、両親、職場の人々、友人達に
自分の苦しみをおすそ分けして、
自分自身と、周りの人々をも苦しめていました。

「子供はいらないのに。煩悩のもとになる。
苦しみが増える。その分働かなくてもいけない。
あー欲しくない。」とよく口にする人でした。

仏教を学んでいるのにもかかわらず
その人の歪んだ考えはさらにゆがみを増して行ました。

家族や身内・両親を愛することは出ないけれど、
利害関係のない人には親切にできるといいます。

そんなその人の行動から
徐々に周りの人々はその人から去って行き、
そして本人はそれを喜んでいました。

人間関係のわずらわしいことがどんどん無くなっていく。
あーよかった・・・。と

しかしその人は闇に走ることによって人生が苦しくなり
その苦しみから逃れるためにそこに行ってみようと思ったのか、
京都のヴィパッサナー瞑想センターに行ってきたそうです。

先日数ヶ月ぶりに会い、話をしてみると
すっかり人が変わり別人になっていました。

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その人はこう言いました。

ここで10日間瞑想して、自分の潜在意識の
奥の奥を見ることが出来た。

もう忘れていたと思っていた遠い昔の記憶や
ずっと恨んでいた人への執着や嫌悪を発見した。

もうありとあらゆる記憶の糸をたどって行った。

この物事は、この出来事が原因で、
その出来事はあの出来事が原因で、そのまた出来事は・・と。

人生が苦しくて逃れるために様々な本を読んできた。
悟りを目指そうと仏教の勉強を沢山読んで来た。

でも。途中でゆがんだ考えになっていったんだ。
ブッダが家族を捨てたように、
家族・身内と言うものは苦しみの元だと思ってきたが。

家族や愛、というものが
どれだけ大切なのかという事もよくわかった。

自分が今まで身内や親に
どれだけひどい言葉、行動をしていたのかも良くわかった。
もう充分すぎるほど反省に反省して帰ってきた。

そして、自分の心がどれだけにごっていて、
執着と嫌悪と利己心に覆われていたかも知ることが出来た。

このヴィパッサナー瞑想は規律が厳しいのと
10日間と言う期間が取れる人も少ないから
万人には難しい所もあるけれど
縁があって瞑想にいくことが出来るなら、その人はラッキーだ。

以前は禅をしていたが
それに足りなかったものがこの瞑想法にあった。
この瞑想法に出会えて本当に良かった。

と言っていました。
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こんなに人は変われるのか。
と思うくらい人が変わったように見えます。

コース中は
心に何か浮かんだら直ぐに鼻の穴を通る息に
意識を戻しなさいと教えています。

言葉で考えたり唱えたり何かのイメージや神などの姿を
思い浮かべることは許されていません。

しかしはじめのうちは、瞑想をしているとこのように
潜在意識下にあった色々な想いが出てくる事があるようです。

わたしも初めてヴィパッサナーに行った時はそうでした。
今までの人生のいろんな想いが走馬灯のように駆け巡りました。

私は、コースが始まってからは、
自分の心の中の濁りや醜さが見事にあらわになりました。

多くの人がそうである様に
私も今まで外にばかり意識が向いていたので

目を向けたことが無かった奥底の自分の心や、
反応のくせを発見する事ができてとても驚きました。

人生30年以上生きてきて、初めての体験でした。

そして日が経つごとに心のくせがどんどん変化してゆき、
一日一日と、心の反応も変化してゆく。
とてもとてもドラマ的な10日間でした。

その私の10日間の体験談は
いつか書いてみます。

このヴィパッサナー瞑想は
ブッダが再発見した瞑想法といわれています。

この瞑想法は当たり前に起こる現象=「ダンマ」
を自分の体・感覚というものを使って自分自身を知り
心の奥底の潜在意識を浄化してゆく瞑想法です。

10日間の間に潜在意識をこれでもかと言うほど掘り起こし、
今まで心に張っていたベールを次から次へとはぎとり
自分自身を知る瞑想法です。

朝4時に起き、休み時間も入れながらだけど
一日約9~10時間の瞑想。

誰とも話さない。目も合わさない(心が外に向いてしまう為)
自分の呼吸と体の感覚と観察する。

この効果は本当に行ってみないとわからない。

この瞑想法は、数ある瞑想法の中でも、
自分自身を見つめるかなり特徴のある瞑想法です。

ヴィパッサナーもいくつか種類がありますが
これは「10日間の瞑想」から入る方で
立ったり歩いたりせず、ただ座ったままで
瞑想する方の種類になります。

横のリンクに載せてあるので興味の有る方は
そちらを見てくださいね。

ヨガ仲間のトシカズ君も
先週10日間のコースに行って来たようです。
体験談が載っています!
アシュタンガヨガいしかわトシカズのブログ
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さて、そしてその人は帰ってきてからも
毎日欠かさず瞑想をしているそうです。

以前は口から出る言葉の90%以上は
仕事・身内・人生・状況へのネガティブな感情の発言でした。

ところが今は。
まず表情が穏やかになりました。

仕事にも意欲的で、
愛と思いやりをもって仕事をしているようです。

人を選ばずに親切で思いやりのある
言動や行動をするようになりました。

もしその穏やかさを継続していけるのなら
きっと色々な事が穏やかに進んでいくのでしょう。
無常を承知しながらも、このまま穏やかであってほしい。
と思う。

これには継続して毎日自分を観察していかないと
もとの木阿弥でしょう。

私たちは本当に簡単に苦しみの習慣に染まって行きます。
直ぐに以前の様に(私も含め殆んどの人々の日常のように)
嫌悪・悪意・恨み・悪意・執着・渇望が心に浮かんできて
苦しみの習慣に飲み込まれてしまうでしょう。

私も出来るだけ毎日瞑想をして、
自分を観察浄化することが大切だと感じています。

周りの人々はこのことについて色々アドバイスをくれますが
私はただ、この状況を見守っていようと思います。

この先どうなるのかはわかりませんが、
今の状況に一喜一憂せず、
出来るだけ穏やかな心、平静な心で過ごす
努力をしていきたいと思っています。

ある事を「許せない」と
自分をがんじがらめに苦しめていた心からは
少しづつ開放されつつあります。

この状況の事を話すと
やさしく受容してくれる友人・知人が多いです。

許すことが出来れば
きっと「苦しみ」からは解放されるでしょう。

でも。中には私がその「許す」事を試みようすると
「許すことを許してくれない」人が現れるのも現実です。

それはこれまで、私が自分に都合の良い話をして、
同情を頂き同調してもらうことを行ってきた結果でした。
周りを巻き込んでしまったのです。

私が種をまいたせいで、直接関係していないその人たちに
怒りや嫌悪を起こさせる原因を作ってしまったからです。
私が巻き込んだ身内友人知人全ての人に、
本当に申し訳ないと思っています。

すべては、ここまでの「プロセス(過程)」であり、
そして「今」が存在します。
「全ての決断に間違いはなかった。すべてよしなんだ」

もちろん反省することはあります。
改善しようと思うこともあります。

過ぎてしまった過去は変えられない。
これから来る未来を確定させることも出来ない。

今はただ、今のこの状況を、見守っているだけです。

穏やかな毎日が送りたい。今はただそれだけです。

そしてもし許されるなら
ただ、ただ。見守っていてもらえたらと思っています。

許す心

2010-05-04 00:10:00 | 瞑想
ここ最近。
「アシュタンガヨガいしかわ」トシカズ君のブログを読んでいたら
あ、そうだ。私も真面目に座ろう。って思う様に。

彼とはアシュタンガヨガの短期集中コースで出会った同期です。
色んな角度から物事を分析したブログを書いていて
いつも感心して読んでいます。

6月の末に京都へ10日間コースへ行く予定だそうです。
有意義な時間になりますように(^。^)

更に最近。友人がヴィパッサナー瞑想(ゴエンカ)
10日間コースに参加して来ました。

その友人と、としかず君のおかげで
最近私もまた真面目に出来るだけ毎日座って瞑想しています。
理想は朝にヨガと1時間。夕方に1時間。

2年前、病院でリハビリヨガを伝えていた時は
朝は3時半起床。4時からヨガ。5時半から6時半まで1時間瞑想。
できるだけそんな毎日を送っていました。夕方はたまに。

当時。毎日朝から夕方まで患者さんに関わる仕事をしている時は
ヨガと瞑想が日々に活かせると本当に実感していました。

でも。今現在。
子育てと仕事をしていると、ヨガと瞑想両方できる時はまれです。
ダンマが起きてくるし、どちらか、或いはできる所まで。
まともの時間目一杯に出来た日はラッキー(^。^)


今まで人生、色々あった。
生きているとみんな色々ある。

心に残る様々な想い。

ダンマがお腹に宿ってからのこの2年間、
私にも大きな出来事が何度かおこりました。
嬉しいこと、ショックなこと、悲しいこと、そして許せないこと。

私達は生きていると皆何らかの
「コレは許せないよなーっ」て事が
一つや二つ(もっと?)あるかと思います。

その「許せない」という思いが心に緊張をもたらし
こわばらせ、がんじがらめにさせます。
自分で自分の心を苦しめている事に気が付かない。

あるいは気が付いているけど、それは頭の中だけの
誰かの借り物の知識なので自分ではどうにも出来ない。

「ヨガをすると心がコントロール出来て
怒り、渇望をコントロールできて穏やかになります。」

。。。なんて、本当の意味ではまだ私には言えない。

「・・・穏やかになる」・・・といわれています。とは言える(笑)

もちろんヨガをする前よりは変わったと思うけど。
とりあえず身体はかなり変わった。
10年前の体重より10キロも違うし健康で軽くなった。

では心は?以前よりは確かに穏やかになった・・。
ヨガをはじめてから表面的には少し穏やかになったとおもう。
でも心の奥底ではどうか。潜在意識。無意識の領域では
以前とあまり変わらないのでは?

ヨガだけで心の奥が変わるのかどうか。
ヨガを伝えているけど実はそれはまだ
私も道の途中なのでわからない。

わかっているのは自分の経験から、ヴィパッサナー瞑想を
継続して行っていると少しづつかもしれないけど
心の奥から浄化して行けると言うこと。

でも。継続が大事
一度10日間コースに参加したからと言って
そのときはある程度心が浄化されるかも知れないけど、
浄化をキープできるなんて事はない。。。。

そう。この1年半ほど、育児や色んなことに追われ
ちゃんと継続できてなくて。サンカーラが沢山貯まった。

ところでヴィパッサナー瞑想(ゴエンカ)のコースに参加すると
最終日に慈悲の瞑想をしますが、
なぜ最終日にするかがよくわかります。

私達の心の奥底、無意識の領域にある
日々、いつの間にかふっふっと色々浮かぶ想い。
イライラとか、もっと~がほしいとか、~がキライ!とか。他。

そんな渇望・嫌悪・怒り・憎しみ・恨み・悪意・情欲
心の濁り・心の汚濁にすっぽりと覆われた心のままでは

慈悲の瞑想がなかなか難しい。

10日間。心をある程度浄化して、だいぶ濁りが薄くなった後
慈悲の瞑想が出来てくるのかなと感じます。

あるいは毎日継続して座って心を浄化し
毎日の瞑想の最後に慈悲の瞑想を行う。
これは私の経験での感想ですが。


マタニティヨガや多くのヨガで
イメージ瞑想や、出てくる想いをただ観想する様な瞑想は
日々の生活に大いに有効だと思います。

気持ちが穏やかになるし、終わった後スッキリとし心地よい。
あるいはもっと他に素晴らしい効果が沢山あるので
その効果を求める人にはとてもよいと思っています。

ただ、今の私にはイメージ瞑想や観想の瞑想のほかに
心の奥底、深層心理。潜在意識《無意識》の中から掘起こして
心の「表面ではない部分」を浄化して行く瞑想が必要です。

「私は許しを乞います」「私は許します」
10日間コースの最終日にこの言葉が流れます。

私はインドと京都とあわせて3回このコースに参加しましたが、
毎回この時に今までの人生の様々な想いが込み上げてきて。
涙があふれてどうにも止まらなくなります。

またダンマが大きくなったらコースに参加したいな。
それまでは出来るだけ毎日座りたいと思います。

御木幽石さんの福らんま



昨年。ダンマの出産祝いのお返しで一部の方にお渡ししたもの。
自分がそうなれたらいいな。という想いからこれを選びました。
ダンマと言う名前の意味もそうだし。

「そして もっともっと大切なのは 許す心」・・

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今を生きてるダンマ君

2010-01-06 09:12:00 | 瞑想
赤ちゃんと過ごしていると、
赤ちゃんって本当「今」だよな~と思わされる

今、ここにきてよ~
今、母乳飲みたい~
今、オムツ気持ち悪い~かえてくれ~
今、一緒に遊んでくれ~

はいはーい。待ってね~(汗)
といっても待ってくれる訳ない・・・。

でも少し経つとさっき泣いてたのが、
今は忘れてきゃははと笑ってるし。

「過去」は。学習って事で記憶には刻まれていくから
思い出すことってある?のかもしれないけど。

「未来」の心配なんてしない・・・んだろうなやっぱり。

11ヶ月になった息子のダンマ君は
「今を生きているんだな~っ」

そういえば年末に遊びに来ていた友人のチッチ
今日から京都ヴィパッサナーセンターで
10日間の瞑想のコースに行ってます。

朝の4時半から夜の9時まで。
食事と少しの休憩と講話以外は約9時間座りっぱなし!
修行、がんばってね~~!!


この瞑想コースでは3日半アーナパーナの呼吸法をして
4日目からヴィパッサナー瞑想に入るのですが。

アーナパーナでは、普段私達が忘れている
「今。ここ」を意識する練習を3日半
朝から夜までずーーーっと行います。(長っ!!)

「今・ここ」を忘れてふらふらと心がさまよう私達は
「今・ここ」を意識するのが簡単には出来ない!超難しい。

私達の心はいつも「今」に無く
「過去」の出来事をぐるぐる回想し
「未来」のまだ起こってもいない出来事を想像して
さまよっているんだそうです。

私は3年前にインドに行った時この瞑想法に出会いました。

世間には多くの素晴らしい瞑想法があります。
例えば、気持ちのいいイメージ瞑想や、
心に浮かんで来た想いを観察する瞑想、
他にも色々素晴らしい瞑想法があります。

ヴィパッサナー瞑想は、何かをイメージしたりせず
神の名やマントラを唱えたりもしない
ロウソクの灯りやお香、音楽なども必要ない
独特な特徴をもつ瞑想法です。

静かに目を閉じて座ってまさに「今ここ」で
自分の体に何が起こっているかを観察し続けて、
自分の心の奥の根深いところまで掘り下げ
根こそぎ浄化して行く瞑想法
です。

私の最後の参加は妊娠7ヶ月の時。胎動を感じながら
京都へ行って10日間のコースに行って来ました。


出産後はなかなか毎日座れなかったけど、
最近少し座る余裕が出てきました。
静かに身体を観察しながら座るとやはり
煩悩が多い私でも、心が少しだけど穏やかになります。

このセンター(ゴエンカ氏)は世界各地にあって
日本では京都にセンターがあります。
10日間は長い!けど。縁があればぜひ。
日本ヴィパッサナー協会

「ママと10日離れても大丈夫。行っておいでよ!」
ダンマ君が言ってくれる日が来たら、また行きたいなあ!
今はこの笑顔に毎日やられています(笑)



ニセコで一日瞑想会

2008-04-08 15:50:00 | 瞑想
週末にニセコに行ってきました。美瑛から車で6時間ほど。

「ヴィパッサナー瞑想」の一日瞑想会でした。
10日間コースを一回以上受けた古い生徒さんが対象でしたが
北海道各地から15名程集まりました。

主催のYちゃんとM夫婦達が作ってくれた瞑想会会場


そして!
今回出会った自宅でパンを作っているMちゃん夫婦やミクシーでこの瞑想会を主催してくれたYちゃん、またここに来ていた人たちと私の友人知り合いが、沢山、たくさんつながっていて本当にびっくりkirakira2

昨年インドのダラムサラで毎朝一緒に座りに行ってたマッサージ師の友人Mや
昔からのキャンパーの友人でアウトドアガイドのIとも
ニセコに移住してラフティングガイドになった大学時代の友人Hとも
同じくアシュタンガヨガを伝えている昨年出産したSちゃんとも
一緒にアシュタンガヨガをしている美瑛の丘のパン屋さんのTさんとも

あー、知ってるー。えー知り合いなんだー!
見たいな会話がでてくるでてくる。

また、指導者として来てくれたYNさんは
美瑛のヨガサークル「レラ」の私の大好きなJM先生や
ヨガサークル員のNさんとつながっていたり。

出て来る出て来る~kirakira2

網の目の様に知り合いの知り合いネットワークが一気に集結した感じ!
人の出会いって不思議で素晴らしいですkirakira2
引きつけ合うのかな。


さて。
実は私は金曜日に誰かからもらった
強力ウイルスの風邪にやられてまして
今日まで病院をお休みしています・・・

「ヨガをしていれば風邪ひきません!」

って皆に言っているのに風邪をひくって事は・・・。
まだまだ私は修行が足りないんだなあ~(笑)

明日こそは元気に病院に出社出来る様に
今日まで家でゆっくり安静にしていま~す。hekomi

生きる技 ヴィパッサナー(S.N.ゴエンカ)

2008-03-02 12:57:00 | 瞑想
昨年出会った私の宝物。
ヴィパッサナー瞑想法。

最近私の周りでもヴィパッサナーに行く人がぽつぽつ増えて来て、
皆その恩恵を受けています。
なのでここで改めてヴィパッサナー瞑想について少し書いてみま~す。

ほとんどの人が抱えているように
あの上司がいやだ。あの人にこんな事言われた。どうしてこうしてくれないの。
とか。友達や知人。夫や子供。社会に対して
ほとんどの人がイライラしたり心が疲れたり。

どうしてこんなにストレスが多くて人生が苦しいのか・・・
この問題はきっと全人類の問題でしょう。

ヨガをしていても、怒ったりイライラしているインストラクターも結構いる。
あははー、もちろん私も含めまーす(^^)v

こういう昔、昔からの『苦しみとは??』『どーして苦しむの??』
と言う私の疑問がこの瞑想法と出会って、

自分の体の中を探って行く事によって、
何が苦しみで、どうして苦しみが起こるのかの仕組みがよくわかりました。

何かの占いによるものでもなく。

誰かの神通力を借りるでもなく。

何かの宗教組織に入ったり、組織や指導者にお金を払うでもなく。

何かの呪文(マントラ)を唱えるでもなく。

何か神様や光などをを心にイメージするでもなく。

ただ自分の体の中になにが起こっているのかを
イメージではなく『現実』を探っていくことによって。


心の苦しみの原因は良くわかった。
けれども。私の心にはこの苦しみの元である反意や濁り・汚濁はまだまだ沢山あり、
何か思い通りにならないとすぐに浮かんできます。


出来るだけ毎日瞑想をしてそんな心のにごりや縛り目を平静な心で
観察し、なくしていきたいと思う毎日です。

でも、この瞑想法に出会ってからは格段と生きるのが楽になりました!

毎日ストレスと戦っている知人友人に。

ポジティブな私。光に包まれた私。などヨガ的なイメージ瞑想もいいとは思います。
がしかし。それでは心の奥底。潜在意識まで届くのは難しい。

心の表面のお掃除ではなく、潜在意識(無意識の領域の心)まで入って行き
現実を見つめて心の奥底のお掃除を進めたい方に。

この瞑想法に縁があればきっといつか行く日が来ます。

私はこれからもできるだけ毎日瞑想して
心の修行とヨガをして暮らして行きたいで~す。

ヴィパッサナー瞑想法に興味のある方は下の講話を読んでみてね。納得です。
でも長いので時間のある方はどうぞ(^_-)-☆

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生きる技 - ヴィパッサナー瞑想法
S・N・ゴエンカ


誰もが安らぎと和を求めています。それらが私たちの生活に欠けているからです。私たちは時として心を乱され、苛立ち、調和を失い、苦悩します。そして、乱された心はみずからの内に留まらず、他人をも巻き込もうとします。惨めな人の乱れた心は周りの空気をも惨めにします。周りにいる人たちのすべての心を乱し、苛立たせます。これが正しい生き方であろうはずがありません。人はみずからの内に、そして、他の人との間に和をもって生きるべきでしょう。結局、人間は社会的動物、社会に生き、他の人と交わって生きていかねばならないのですから。

では、和を持って生きるにはどうすればよいのでしょうか。どうすれば私たちの内に調和を見い出し、周囲とも調和を保つことができるでしょうか。どうすれば他の人もまた、和と安らぎをもって生きられるよう助けることができるでしょうか。

そのためには、何故心が乱されるのかを知らねばなりません。心の乱れ、苦悩の根本原因とは何でしょうか。自分自身を見つめてごらんなさい。心の乱れの背後には、反意が生まれているはずです。反意、つまり心の汚れは、安らぎや調和と共存することはできないのです。

それでは、私たちはどんなふうに反意を生んでいるのでしょうか。他の人が自分の気に入らない態度をとったり、何かいやなことが起こったりした時、私たちは不満を感じます。ものごとが自分の意志に背いて起こる時、私たちは苛立ちを感じます。心に縛り目を結びます。一生の間、望むことは得られず、望まないことが起こりつづけます。その度に、私たちは心に一つ、また一つと縛り目を作り続けるのです。心も体も苛立ち硬張り、反意に満たされます。人生は惨めなものとなります。

この苦しみを解消するにはどうすれはよいのでしょう。

一つには、人生でいやなことが何も起こらないようにするという方法があります。すべてが自分の思う通りにいくようにするのです。自分でそのような超能力を身につけます。それが無理なら誰かそのような力を持つ人を見つけて、願えばいつでも助けてもらえるようにします。これは無理な話です。どこの世界を探しても、望みが常に叶い、すべてが思いのままになり、いやなことが何一つ起こらない人などいません。ものごとは私たちの意志や希望に反して起こり続けるのです。ではこのような世界の中で、反発しないで暮らすにはどうすればよいでしょうか。心を苛立たせたり、硬張らせたりしないようにするにはどうすればよいでしょうか。安らぎと和を保ち続けるにはどうすればよいでしょうか。

他の国々と同様にインドでも、賢者や聖人たちがこの問題に取り組んできました。人間の苦悩ということにです。そして、一つ答えを見つけました。何かいやなことが起こり、怒りや恐れや反発が生れるやいなや、速やかに、何か他のことに心をそらすのです。例えば、立ち上がってコップに水を入れて飲みます。気がそれて、怒りはそれ以上大きくならないでしょう。あるいは、信仰する神や聖者の名を唱えます。または数を数えます。一、二、三、四・・・。注意がそらされて、反発や怒りからある程度離れることができるでしょう。

こうした方法は、なかなか役に立ちます。心がイライラしなくなるような気がしてきます。けれども、実は、それは心のほんのうわべでのことに過ぎません。本当は、注意をそらすことによって、反発心を潜在意識の底へと押しやったにすぎないのです。表面的には調和のとれた安らかさを保ちつづけるでしょう。しかし、心の奥底では押し込められた反発心が休火山の如く、くすぶり続けます。遅かれ早かれ大爆発を起こすでしょう。

他にも、心理のより深い部分まで探求を進めた人々がいました。彼らは自分自身の精神と身体の真実を体験することによって、ただ気をそらすことは問題から逃げることにすぎないと悟りました。逃避は解決にはならない、問題に直面しなければならない、と悟ったのです。

心に反発が起こる時、それをじっと見つめてごらんなさい。面と向かってみるのです。あなたがそれを見つめ始めるやいなや、心の濁りは力を失い、消えていきます。ゆっくりですが、やがてすべての反発心が消え去ります。私たちは、再び、濁りの淵に沈むことはないでしょう。これは、抑圧と放縦の両極端を避けたよい方法です。 さて、話すのは簡単ですが、実際にそれができるでしょうか。普通の人間に自分自身の濁りと向き合うことなど可能でしょうか。

腹を立てるとき、私たちはその感情に圧倒されてしまって、いつ腹を立てたのかわからないくらいです。そして、感情に押し流されるままに行動し、あるいは言葉にして、他の人や自分を傷つけてしまいます。そうしておいて、怒りが過ぎ去ってから嘆き悲しみ、神や仏に許しを乞うのです。「ああ、私の過ちを許してください。」

ところが、次にまた同じような状況になると、元のもくあみ、同じことの繰り返しです。後悔先に立たずなのですが、問題なのは心に濁りが生じた時に、それに気がついていないということです。それは生じるとたちまち私たちを圧倒してしまうため、それを冷静に凝つめる余裕など私たちにはないのです。

それでは、秘書を雇いましょうか。いつでも怒りが現れてきたら、こう言ってくれる秘書を。「ご主人、お怒りが・・。」その時私たちはどうするでしょう。まず、このでしゃばりの口を引っ叩いて、こう怒鳴るのが関の山でしょう。「この馬鹿者!私に説教をするために雇われてるとでも思っているのか。」私たちは怒りに圧倒されてしまって、助言など聞く耳を持たないのです。

賢明にも秘書を引っ叩かないで、こう言えたとします。「ありがとう。では、座ってこの怒りを観察することにしよう。」できるでしょうか。目を閉じるやいなや、私たちを怒らせた人、あるいはできごとが心に浮かんできます。これでは怒りを観察することにはなりません。感情を高ぶらせる外的要因を見ているにすぎません。かえって怒りが強くなります。このように、抽象的な反感、感情を、その原因となった外側の対象から切り離して観察するのは大変困難なことなのです。けれども、完全なる悟りに至って究極の真理をつきとめた人が、心の反発から抜け出すための良い方法を見つけてくれました。彼は、心に反発、濁りが生じるや必ず、肉体面に二つの変化が現れることを発見したのです。その一つは呼吸です。反感が心に生じると、呼吸のリズムは狂い、強くなるのです。これは誰もが気づく、わかりやすい真実です。そしてもう一つ、もっと微妙なレベルの真実として、体中の生化学的反応があげられます。それは、肉体の感覚としてとらえることができます。心の汚濁は、身体のどこかに何らかの感覚を生むのです。

普通の人間には、抽象的な恐怖や怒り、情欲といった心の不純性を観察することはできません。しかし、修行を積めば、呼吸や感覚を観察することは難しいことではありません。精神の汚濁と直接結びついているこの呼吸と感覚の観察は、誰もが実践できる心の浄化法なのです。

呼吸と感覚は、次の二点で助けになります。まず私たちのお付きの秘書となってくれま す。心に汚濁がわきあがるやいなや、呼吸は正常さを失います。そして、こう叫び始めます。「ちょっと!これはまずいですよ。」呼吸を引っ叩くわけにはいきません。忠告を受け入れるしかないわけです。同じように、感覚が告げます。「一大事ですよ!」こうした忠告をうけて、呼吸と感覚を私たちは観察し始めます。汚濁が流れ去って行くのに、そんなに時間はかからないでしょう。

この精神的、肉体的現象は硬貨の両面のようなものです。片方の面は、心に生まれる考えや感情であり、もう一方の面は、体に生まれる呼吸であり、感覚です。思考や感情のすべて、精神の濁りのすべては、意識の表面にあろうと潜在下にあろうと、生まれる瞬間に呼吸と感覚に現れます。 ですから、呼吸と感覚を観察することが、間接的に心の濁りを観察することになるのです。問題から逃避するかわりに、あるがままに現実を直視することになるのです。その時、私たちは、心の汚れが力を失っていくことに気づきます。もう以前のように圧倒されません。休みない努力を続けるならば、やがて、すべての汚濁を追放し、私たちは安らぎと幸福を永遠に享受し続けることができるでしょう。

このように、この自己観察法は、内と外という二つの面から現実をみせてくれます。人は目を見開いていながら、自分の内にある真理を見逃しています。私たちは、自分の不幸の原因を常に外に求め、他者に責任を押しつけ、外側の現実を変えることに専念します。内側の真実を知らず、苦しみの根が自分自身の内に、自分の盲目的な反発に起因していることに気がつかないのです。

しかし、修行をすることによって硬貨のもう一つの面を見るように、自分の内側で起こっていることに気づき始めます、呼吸であれ、感覚であれ、心のバランスを失うことなく、ただ観察することを知る時、人は反発することをやめ、惨めさを増やすことをやめます。その結果、幾層にも堆積された心の汚れは、表面に現れては消え去ります。

この修行を重ねるにつれ、人は反発からより早く立ち直ることができるようになるでしょう。やがて心は、汚濁から解放され、純化されます。純粋な心、それは、いつも愛、執着のない愛に満ちています。他の人の過ちと苦悩への慈悲に満ちています。他の人の喜びを自分の喜びとし、いかなる状況にあっても完璧な平静さを保ちます。

このような精神段階に至ると、人の生活パターンは変化し始めます。他の人の安らぎと幸福を妨げる言動などできなくなります。自分同様に、他の人々も安らかになれるように助けずにはいられなくなります。当然ながら、そのような人の周囲には安らぎと和がみちあふれ、他の人をも影響せずにはおきません。

自分の内面において経験すること全てにおいて、バランスを保つことを学ぶことによって、外側で遭遇する状況の全てにおいてもまた執着しないようになります。しかし、この無執着は逃避主義でもなければ、世界の問題に対する無関心とも異なるものです。ヴィパッサナーの修行をする者は他の人々の苦しみに対してとても敏感になります。そしてその人々の苦しみを取り除くために出来る限りのことをしようとします。それがどんな方法であっても、動揺した気持ちではなく、愛や慈愛、そして平静心に満ち溢れた心で行ないます。この人は聖なる無関心を学んだからです。他の人々を助けることに完全に関与し、関わりながら、同時に心のバランスを保つ方法を、です。このようにして、他の人々の幸福や平和の為に働きながら自身も幸福や平和であり続けられるのです。

これが、仏陀の教えた「生きる技」です。仏陀は、何の宗教も主義も説きませんでした。おまじないや儀式、無意味な儀礼を、説いたことはありませんでした。仏陀は、内なる現実をありのままに観察することによって、その本性をありのままに見ることを教えたのです。人は無知ゆえに、自分や他の人を傷つけるような反発を繰り返します。けれども、智慧が生まれる時、現実をありのままに観察する智慧を持つ時、この反発という習慣から抜け出すことができます。盲目的に反発することをやめ、本当の意味での行動を始めます。バランスのとれた静かな心、真理を見通し理解する心から発する行動。それは、自分にも他の人にもいつも創造的でプラスとなるものです。

「汝自身を知れ」と、いにしえの賢者たちが説いたように、私たちは、自分自身を知らねばなりません。しかし、頭の中で理論などを知的レベルで知っても、あるいは、聴いたり読んだりしたことを感情的に、または信仰ゆえに受け入れても救われません。自分についての真実を、経験をとおして知らねばなりません。精神と肉体のありのままを直接経験すること。これだけが、私たちを心の汚濁から、苦悩から救い得るのです。

自分自身の現実、ありのままを直接経験すること。自己観察の実践法。これがヴィパッサナー瞑想法です。仏陀の時代のインドでは、「パッサナ」とは、目を開けてふつうにものごとを見ることを意味しました。「ヴィパッサナー」とは、ただの表向きだけでなく、ものごとをありのままに観察するという意味です。うわべの真理を貫き、精神と肉体構造の究極の真理に至るのです。この真理を体験する時、人は盲目的に反発して、心に汚れを生むことをやめます。そうすると自然に、過去に作られた汚れも浄化されていきます。やがて、すべての苦しみから解き放たれ、真の幸福を味わいます。

瞑想のコースにおいて、この修行は三つの段階にわけられます。

第一段階は、道徳律を守ること。他の人の安らぎと和を脅 かすようなすべての言動を慎みます。心の汚濁を生み増やすような言動をとりながら、心を浄めることなどできません。ですから、道徳律は、修行に無くてはならない第一歩なのです。具体的には、殺めること、盗み、誤った性行為、虚言、飲酒、麻薬類の摂取から遠ざかります。こうして、静かな心で次の修行に踏み出します。

第二段階は、この荒々しい心を手なずけること。そのために心を、唯一の対象物にとどめる訓練をします。その対象物とは、呼吸です。できるだけ長い間意識を呼吸にとどめます。ただし、これは呼吸法ではありません。息を操作してはなりません。自然な息が入って来るままに、出て行くままに、ただ観察します。この訓練をすると、心は更に静かになり、激しい反発に打ち負かされることがなくなります。同時に、心は貫くように鋭く鍛えられ、つぎの洞察の修行を可能にします。

第一段階の生活の範を守ること、そして、第二段階の心を統御することは、それ自体必要かつ有益なものです。しかし、つぎの段階へ踏み出さなければ、自分を抑圧することにつながってしまうでしょう。 第三段階、それは、自身を見抜く洞察力による心の清浄化 。これこそがヴィパッサナーです。心と身体の常に移り変わる様は、肉体の感覚となって現れてきます。それを体系的に、客観的に観察するのです。感覚の観察をとおして、自分自身の真の有り様を悟ること。自己観察による自己浄化。これが、仏陀の教えの極致です。


ヴィパッサナーは、誰にでもできる修行法です。病に宗派はありません。したがって、治癒にも宗派はありません。誰もが苦しみを抱えています。怒りに仏教徒の怒りやヒンズー教徒の怒り、キリスト教徒の怒りがあるでしょうか。怒りは怒りでしかありません。怒りによってストレスが生じる時に、宗派別のストレスであったりするでしょうか。

ヴィパッサナーは、その治癒法です。生活の範を守り、人々の安らぎと和を求めることに反対する人がいるでしょうか。心の統御力を養うことに、誰が反対するでしょうか。自分自身のありのままの姿を見抜くことによって、心を反発から解放することに、何の反対が起こるでしょう。これは、誰もがたどれる道なのです。

内なる真実を観察することによって、ものごとをあるがままに観ること。これは、自分自身を経験をとおして知ることです。これを実践することによって、人は、苦しみを生む心の濁りから、しだいに解放されていきます。精神と身体の粗雑でうわべだけの真実から、やがて最も繊細で微妙な真理へと至ります。そして、さらに精神と身体、時と空間、相対的次元を超えた真理をも体験します。つまり、それはすべての濁り、不純性、苦悩からの完全なる解放の真理です。その究極の真理を何と呼ぼうとかまいません。それは、すべての人々にとっての最終のゴールなのです。

すべての人々が、この究極の真理を体験できますように。汚濁と反発に苦しむ世界中の人々が、苦悩から解放され、自由になれますように。すべての人々が、真の平安、真の調和、真の幸福を享受できますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。