仏教は「ブッダの説いた教え」または「ブッダになる教え」といいます。お釈迦さまはシャカ国生まれの実在した「ブッダ」ですが、ブッダとは「真理をさとった聖者」という一般名詞なので、私たちも教えに従って修行すれば、お釈迦さまのようなさとりを開く事ができる、という前提から、多くの仏教者がお釈迦さまのようなさとりの追体験を求めて、修行の道に一歩を踏み出してきた訳です。
「お釈迦さまは十二月八日、明けの明星が輝く瞬間に『我と大地と同時に成道せり』と宣言された、と仏教書にあるけれど、それってどんな感じなんだろう?」と仏教に憧れる人びとは想像をかきたてられ、
「きっと世界の全てが輝いて見えるんだろうな」とか
「死ぬことを含めて、あらゆる苦しみがなくなるんだろうな」とか
「それは空を飛ぶ鳥のように、自由な心境なんだろうな」
と「さとり」のイメージは人びとの憧れによって、どんどん膨らんでいきました。
ところがそうした憧れは、目の前の修行や、難しい学問といった「面倒くさい」ことの積み重ねに人びとの関心を向ける力にはなりません。むしろ「結局、大事なのは『さとり』でしょ? だったら修行とか学問の話しに抜きにして、自由な気持ちで、死ぬ事でも何でもポジティブに受け入れていったら、この世の全ての苦しみがなくせるじゃん」といった、安易な仏教理解が広まって行きました。
こうした仏教理解に異を唱えたのが、道元禅師です。
「仏の教えは普通の人には分からない。仮にお釈迦さまの心の中が分かる人がいたら、その人はすでに仏である(正法眼蔵「唯仏与仏」)」
「仏の心の中を見通す眼はなくても、仏は何をされたのか、その足跡を見る事はできるのだから、まずはその行いを見習いなさい(正法眼蔵「唯仏与仏」)」
「仏の立ち居振る舞いを、日々行じている『行仏』は、さとりの自覚がなくとも、仏道修行の道に自らを向上させようとまい進している(正法眼蔵「行仏威儀」)」
「最近の中国では『さとりが大事』だといって『さとりの開ける日』を待つだけの坊さんがいるけれど、さっさと良い先生について学べば良いものを、何もせずに道を間違えているんだから、仏が現れても救いもさとりも得られない(正法眼蔵「大悟」)」
道元禅師の主著「正法眼蔵」は「さとりの内実を説き明かした」本といわれますが、むしろ「さとった仏が何をしたのか、まずその行いを学び、自らも同じように行う事が修行であり、自らを仏弟子として証明する事なのだ」というメッセージに溢れているのです。そんな道元禅師がお釈迦さまを語っている一文を読むと、
「慈父釈迦牟尼仏は、十九歳から深山で修行し、三十歳で『大地と有情と同時に成道』なされた。それから八十歳で亡くなるまで、山で修行し、お寺で修行したのである。(元は王国の王子だったが)王宮に戻る事も、国のお金や土地を手にする事もせず(ボロ布を縫った)お袈裟を身につけて一生替えなかったし、食器の鉢も一生の間に新しいものに替えなかった。(人びとを導くために)一時一日とて弟子たちと離れて過ごさなかったし、人びとからの供養を拒まず、他流の思想家からの謗りに耐えられた。その一生は人びとを教え導く修行の生活そのものである。お袈裟を身につけ托鉢で食べ物を得る仏の威儀はすべて、修行生活の形なのである」(正法眼蔵「行持・上」)
とあるように、さとった後もさとる前と変わらない修行生活をされたお釈迦さまの姿こそ、道元禅師が憧れた仏の姿だったのです。
また正法眼蔵「供養諸仏」には、眼の見えないお弟子(恐らく従兄弟のアヌルッダ)がお袈裟を縫えずに困っていると、お釈迦さまが縫い物を手伝ってあげるエピソードが登場します。そうした平凡な営みをいとおしむような、お釈迦さまの行いをお手本にして、道元禅師と門下のお坊さんたちは、修行の日々を重ねたのでした。
※追記 現代の仏教学は、東南アジアに伝わる上座部仏教で伝承される「お釈迦さまは二十九歳で出家して、三十五歳で成道した=さとりを開いた」説を採用していますが、道元禅師は大乗経典の「十九歳で出家して、六年苦行した後に、菩薩たちと六年坐禅して、三十歳で成道した」という伝承を学んでいます。
ですから道元禅師の坐禅修行のイメージは、決して苦行ではなく、道を求める菩薩たちが共に修行した六年に重なるイメージでもあるのです。
「お釈迦さまは十二月八日、明けの明星が輝く瞬間に『我と大地と同時に成道せり』と宣言された、と仏教書にあるけれど、それってどんな感じなんだろう?」と仏教に憧れる人びとは想像をかきたてられ、
「きっと世界の全てが輝いて見えるんだろうな」とか
「死ぬことを含めて、あらゆる苦しみがなくなるんだろうな」とか
「それは空を飛ぶ鳥のように、自由な心境なんだろうな」
と「さとり」のイメージは人びとの憧れによって、どんどん膨らんでいきました。
ところがそうした憧れは、目の前の修行や、難しい学問といった「面倒くさい」ことの積み重ねに人びとの関心を向ける力にはなりません。むしろ「結局、大事なのは『さとり』でしょ? だったら修行とか学問の話しに抜きにして、自由な気持ちで、死ぬ事でも何でもポジティブに受け入れていったら、この世の全ての苦しみがなくせるじゃん」といった、安易な仏教理解が広まって行きました。
こうした仏教理解に異を唱えたのが、道元禅師です。
「仏の教えは普通の人には分からない。仮にお釈迦さまの心の中が分かる人がいたら、その人はすでに仏である(正法眼蔵「唯仏与仏」)」
「仏の心の中を見通す眼はなくても、仏は何をされたのか、その足跡を見る事はできるのだから、まずはその行いを見習いなさい(正法眼蔵「唯仏与仏」)」
「仏の立ち居振る舞いを、日々行じている『行仏』は、さとりの自覚がなくとも、仏道修行の道に自らを向上させようとまい進している(正法眼蔵「行仏威儀」)」
「最近の中国では『さとりが大事』だといって『さとりの開ける日』を待つだけの坊さんがいるけれど、さっさと良い先生について学べば良いものを、何もせずに道を間違えているんだから、仏が現れても救いもさとりも得られない(正法眼蔵「大悟」)」
道元禅師の主著「正法眼蔵」は「さとりの内実を説き明かした」本といわれますが、むしろ「さとった仏が何をしたのか、まずその行いを学び、自らも同じように行う事が修行であり、自らを仏弟子として証明する事なのだ」というメッセージに溢れているのです。そんな道元禅師がお釈迦さまを語っている一文を読むと、
「慈父釈迦牟尼仏は、十九歳から深山で修行し、三十歳で『大地と有情と同時に成道』なされた。それから八十歳で亡くなるまで、山で修行し、お寺で修行したのである。(元は王国の王子だったが)王宮に戻る事も、国のお金や土地を手にする事もせず(ボロ布を縫った)お袈裟を身につけて一生替えなかったし、食器の鉢も一生の間に新しいものに替えなかった。(人びとを導くために)一時一日とて弟子たちと離れて過ごさなかったし、人びとからの供養を拒まず、他流の思想家からの謗りに耐えられた。その一生は人びとを教え導く修行の生活そのものである。お袈裟を身につけ托鉢で食べ物を得る仏の威儀はすべて、修行生活の形なのである」(正法眼蔵「行持・上」)
とあるように、さとった後もさとる前と変わらない修行生活をされたお釈迦さまの姿こそ、道元禅師が憧れた仏の姿だったのです。
また正法眼蔵「供養諸仏」には、眼の見えないお弟子(恐らく従兄弟のアヌルッダ)がお袈裟を縫えずに困っていると、お釈迦さまが縫い物を手伝ってあげるエピソードが登場します。そうした平凡な営みをいとおしむような、お釈迦さまの行いをお手本にして、道元禅師と門下のお坊さんたちは、修行の日々を重ねたのでした。
※追記 現代の仏教学は、東南アジアに伝わる上座部仏教で伝承される「お釈迦さまは二十九歳で出家して、三十五歳で成道した=さとりを開いた」説を採用していますが、道元禅師は大乗経典の「十九歳で出家して、六年苦行した後に、菩薩たちと六年坐禅して、三十歳で成道した」という伝承を学んでいます。
ですから道元禅師の坐禅修行のイメージは、決して苦行ではなく、道を求める菩薩たちが共に修行した六年に重なるイメージでもあるのです。