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播磨の小京都と鶏籠山麓の龍野城

2024-07-04 09:59:41 | 日記

日本の中世時代に活躍をした赤松円心の由来、子孫が受継いだ赤松氏の龍野古城は、15世紀に標高211m 鶏籠山の山頂に赤松村秀によって築城されたのが始まりとされます。西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。開城のあとは、秀吉が入った姫路城の支城となり、後に蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と秀吉の最も信頼する重臣たちが城主になります。

龍野城 桜咲く前の隅櫓

龍野城の歴史は、赤松村秀が最初の城主となり、この地域を治めていました。赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、4代の78年続きました。敵方・赤松氏に捕えられた幼少時の軍師 黒田官兵衛、父の黒田聖隆がこの龍野城に乗り込み、取り返したとの物語も伝わります。後に赤松広秀が豊臣秀吉に降伏し、城を明け渡します。その後に豊臣政権下で龍野城主となった石川光元が1596年に山上の龍野城を破却し、鶏籠山の麓に城を移します。

龍野城埋門

明治初期に廃城となった龍野城は、古い石垣ばかりが残るだけでしたが、整備されて昭和54年に本丸御殿や多聞櫓が復元され、武家屋敷や白壁の土蔵が残ります。龍野城とその城下町の観光プランは、町並み散策と山頂に一部石垣が残る鶏籠山城と本丸御殿、二城をセットで訪れると良いと思います。

城跡には復原された櫓門形式の埋門と武家屋敷や白壁の土蔵、「播磨の小京都」とも言われる城下町は、”男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け”のロケ跡地があって童謡「赤とんぼ」の作者・三木露風の生家や、淡口醤油の資料館など観光が楽しめます。重要伝統的建造物群保存地区のレトロな雰囲気が残る町並み散策をゆったりと過ごしましょう。

高麗門

西播八郡の守護代を務めた龍野赤松氏の拠点として、村秀により築城されて以降、政秀、広貞、広英と4代続きましたが、秀吉の播磨侵攻の際に開城します。その後は、蜂須賀正勝、福島正則ら、秀吉一門の武将が城主となります。
江戸時代になり、寛文12年(1672年)に脇坂安政が信州飯田から龍野に入部します。その際には山頂から山麓に機能が移っており、現在の位置に龍野城が整備され、明治まで使用されました。

本丸御殿

龍野城は、1672年に脇坂安政が築城。天守閣は有りませんが三方に石垣を巡らした龍野城が完成したようです。桜の時期には城内の桜の花が咲いて景観を高めて素晴らしく、復元されたは本丸御殿の中に入るのは無料、御殿見物と城壁、埋門などにふれて歴史散策をのんびりと楽しめます。

古城の標識

龍野城、もとは今の龍野城の裏にある鶏籠山の山頂に築かれていました。明応八年(1499年)に、赤松村秀が鶏籠山頂に城を築き、朝霧城と呼ばれて赤松氏四代がここを根城にします。典型的な中世の戦国・山城の龍野古城でしたが、戦乱が治まるにつれ城を山上に築くメリットが無くなり、天下平定が進む安土桃山時代頃から、城は平地に築かれるようになります。

二の丸

登城道のあちらこちらに石垣跡や削平地、帯曲輪跡らしき所が見られます。約30分ほど登り切った所に二の丸の標識が立ちます。城の中心となる本丸の外側にある城郭の二の丸は、広さが、東西に約14m、南北27mほどあるようです。城跡全体を見ると横堀や土塁、竪堀などの山城遺構が残り、戦国時代の山城の雰囲気を色濃く今も感じ取れます。

古城への石段

本丸の北東側には古城石段と名付けられた本丸へ続く石段が残り、その石段上のあがりますと本丸の石垣が今も残っています。

古城の本丸

二の丸から更に奥へ5分ほど入ると本丸跡に着きます。本丸の広さは、東西に約20m、南北に約14m程あるようです。二の丸も本丸はさほど広くなく狭いです。木々が繁っていて開けた展望とはいきませんが、木々の間から見える眺望は良いと思います。本丸裏の八幡宮跡の石畳や石段は良好な形で残っているようです。赤松氏の城としては、規模は大きくありませんが思っていた以上に遺構が残っており良かったと感じました。

アクセス

姫路からJR西日本・姫新線に乗り継ぎ、本竜野駅を下車します。改札口を出ると観光案内所がありますので資料をゲットして揖保川方向に歩き、揖保川渡る龍野橋からヒガシマル醬油工場が見えます。

城下町は昔ながら西播磨の中心的な場所だった龍野、町並み沿って揖保川が流れて風情が残ります。龍野橋を渡ると重要伝統的建造物群保存地区の町並みを抜けて龍野小学校に行くと家老門から山麓にある龍野城本丸隅櫓が見えます。鶏籠山の山頂・古城には夏場は避けましょう、山頂から下山は道迷いの可能性が有りますので目印・赤テープなど要チェックです。

 


家康も愕然、堅牢過ぎる篠山城跡

2023-08-15 10:22:04 | 日記

篠山城の縄張りは築城名手の藤堂高虎で豊臣氏を包囲する城の一つ。築城後には

大坂冬の陣や大坂夏の陣でも城主・松平康重が篠山城から大坂城攻撃に出陣し大活躍する。

家康狙い通りの役割を果たしますが、山陰道を睨む要衝の篠山城は堅牢過ぎると天守閣は

恐れて建てられず平山城となるも、今では日本遺産認定の日本百名城のひとつです。

 

二の丸御殿庭園と井戸

徳川家康の命により西国諸大名が動員されて築かれた篠山城大書院は、天守のない

篠山城の中核をなす建物でした。 築城工期は1年たらずの突貫工事でしたが、

笹山(篠山)は全体が岩盤で出来ており難工事だったようです。

 

篠山城大手口の鉄門

表門から二重桝形・中門を抜けると鉄門(kuroganemon)に、呼び名通り門扉に鉄板が

張られた、二の丸へ至る最後の門跡で関門にふさわしい厳重な造りです。現在は

模擬冠木門、往時は絵図によれば櫓門が設けられていたようです。普請総奉行の

池田輝政が中心に、縄張りには築城の名手の藤堂高虎が手掛け、石垣造営には

穴太衆が携わったようです。

 

二の丸屏風折の石垣と犬走の景観

見事な石垣と内堀、犬走りに囲まれた城跡、大書院が見えます。内堀と外堀および馬出、

二ノ丸内は石垣が残っています。外堀の周囲に3つ造られた馬出は東と南の2つが堀と

ともに現存しています。4月上旬は”さくらまつり"が催されて観光客で賑わい、

篠山城跡一帯が桜で彩どられます。

 

南門・埋門跡

段差を利用した埋門跡(uzumimon ato)、二の丸南側の門です。この付近の石垣には

城内で最も多くの符号・刻印が見られます。篠山城跡二の丸から南側にある埋門を

くぐり下ると、三の丸へ通り抜けます。二の丸南側の埋門から下り、三の丸を通って

五万石の城下町として栄えた河原町妻入商家群方面へ向かいます。

 

城下町・河原妻入商家群

河原町を歩くと間口の狭い奥行きの深い造りをした妻入りの商家が建ち並び、歴史深さが感じられます。

約600mにわたり、藩政時代の面影を残す家並みが続き、土産物屋もあって買い物をしながら、写真も

撮りながらの散策を楽しめると思います。

白い壁と面白い鬼瓦が特徴の瓦屋根の商家が五百メートル以上にわたって街道に立ち並んでいます。

大小の商家が街道の両側に立ち並び、商家の前の所々にはデカンショ節の唄が描かれた灯篭があるのも、

町の良いアクセントになっていると思いました。

 

アクセス...城跡近くの大正ロマン館

JR篠山口駅から神姫バスを利用、所要15分程で城北口停留所で降車します。バス停留所から

徒歩5分ほどでレトロな建物の大正ロマン館があって、お土産や軽食があります。大正ロマン館

からも見えますが、篠山城跡の大手口には二~三分で歩けます。

お洒落な観光案内所

大正ロマン館の道路を隔てて対面にあるのが、レトロ風でお洒落な建物の篠山観光案内所です。

先ずは情報入手、案内所に入って現地調査、時間に合わせて観光ルートを検討されたら良いと思います。

篠山城跡の城内マップや城下町マップも無料でもらえます。

 


極楽橋から京大阪道を下り龍王峡遊歩道へ!

2022-09-02 16:25:03 | 日記

西高野街道は「与津の辻」で中高野と交わり河内長野へ、また東高野街道が河内長野「辻本の辻」で合流します。一つになった高野街道は紀見峠を越え和歌山へ、高野山真言宗 総本山金剛峯寺に向かいます。真言密教の開祖空海信仰に始まった霊場高野山へ向かう参詣は、平安末から鎌倉初期に公家が始めて開かれた参詣道です。後に高野聖の納骨や江戸時代には、一般庶民にも広まった巡礼の街道です。不動口女人堂へ一里石を求め当時の痕跡残る京大阪道と、千国橋から街道を離れてトロッコ道へ向かい九度山へ、丹生川沿い龍王峡遊歩道を歩きました。

 

高野山女人堂に向かう不動坂

女人禁制時代の高野山に女性は入れないため、女人堂は巡礼女性が一晩中堂にこもり真言唱える場所でした。女人解禁後、最初に高野山永住した女性の萱野さんも苦労をされたとか、寺側とのバトル伝説もあるようです。高野山女人堂結ぶ七つ有った参詣道も、現在は女人道高野七口が唯一残る女人堂、導かれる登り口は石畳道の続く不動坂です。

京大阪道を登り切ると不動口女人堂に、霊場高野山です。南海高野線ケーブル横目に登る不動坂道中に断崖絶壁で昔の刑場だった「萬丈が嶽標柱」があり、仏の世界にも刑罰場があるのだと痛感しますね

不動川にかかる朱色の極楽橋

標高538m極楽橋駅を降りて川沿いを少し歩くと朱色の極楽橋に、由来は擬宝珠が付く朱塗りの橋を葬列で渡ったことから、死者の極楽往生を願って付けられたようです。それ以前は不動橋でした。霊場高野山の聖域と俗世を区切る結界とされ、極楽橋がはじまりの聖地。不動口女人堂に向かわず極楽橋から京大阪道を、九度山向かって神谷集落へ下ります。

川沿いに神谷集落への標識

霊場高野山に一番近い神谷集落は、大正・昭和にかけて高野山巡礼として利用された街道「長坂街道」と京大阪街道の合流地域です。小さな集落ですが、当時は宿場町として巡礼者が利用する旅館や店屋、長屋、髪結屋があって参詣客で賑わい繁盛したと云われます。

神谷集落は昭和初期まで霊場高野山詣に来る巡礼者が立ち寄れる最後の宿場町でした。巡礼客で栄え賑わった神谷集落は、一時約200人もの人が生活していたようです。現在は電車・ケーブルと車で高野山に向かう人がほとんどとなり、街道を利用して高野山まで歩く人も少なく、過疎化して秘境集落となっています。

 

神谷集落の町立 旧白藤小学校

木造建物の高野町立 旧白藤小学校は、以前に宿場町で賑わった神谷集落も過疎化のため休校となっております。多い時には生徒が100人ほど通っていたようですが、今は町のシンボルとして維持管理される旧白藤小学校は「カフェしらふじ」で営業、ドリップコーヒーの楽しめる古民家風カフェとして高野街道を歩く人の憩いの場所になっています。例年11月頃に開催予定の「ジャパンコーヒーフェスティバルin紀伊神谷駅」は、コーヒーと高野山麓の魅力をPRされてるようです。また、「ジャパンコーヒーフェスティバルin高野山とふもと」は南海高野線橋本駅から高野山駅までの間にある8駅を電車を乗り降りしコーヒーを味わって、山裾に広がる風景が楽しめるイベントも催されているようです。

 

神谷集落に立つ案内標識

神谷辻に新高野街道「長坂街道」と高野山・九度山への案内標識が高野街道沿いに立ってます。険しい山間部の街道に歩き疲れて場合は最寄り駅、標高473m「紀伊神谷駅」から帰るエスケープコースも有りますが、駅は利用客が少なく売店はありません。昭和3年に南海高野線の終着駅「神谷駅」で開業され現在に至りますが、秘境「紀伊神谷駅」として人気があるようです。

 

高野街道 里程標の一里石

一里石里程標は由緒あるお地蔵さま「縁結び地蔵」のお堂前に、むすびの地蔵堂は京大坂道清水村から6つの辻に作られた最後の木造地蔵祀られているようです。弘法大師が造られたと伝えられる石像と室町時代に彫られたお地蔵さんが祀られるお社が神谷にはあるようです。神谷集落にとっての守り神であるお地蔵さまは、集落の10月の特別なお祭りの時に一日のみ扉が開かれてご開帳されるようです。

 

高野の仇討ち場所 作水峠の黒岩

髙野山街道の仇討ちは、MUの遺児がN一味に復讐した死闘でした。仇討は明治4年2月30日、前日に九度山町河根の中屋旅館でMU兄弟一行は仇討の相談し先回りする。作水峠の黒石で仇のN一味を待ち伏せて仇を討ちました。仇討ちの原因は文久2年師走の夜に、播州赤穂藩の執政MO主税と参政MUが自称勤王派の足軽のNらの一味13人に暗殺されたことでした。仇討ちを果たしたMU兄弟は死罪で刑務所行きでしたが、後に務めを果たして無事出所されたようです。

 

龍王峡遊歩道から朱色の丹生川橋梁

長い下り坂の作水坂をおりて丹生川にかかる標高129m千国橋まで下ってくると一安心。町石道の表参道と比べ裏参道とも呼ばれる学文路から高野山へ登る高野街道を離れて、学文路には向かわず千国橋から真田幸村で有名な九度山へ向かいました。千国橋から標高94m南海高野線「九度山駅」までは急坂もなく、朱色に染まる高野線・丹生川橋梁と景観を眺めながら丹生川に沿って龍王峡遊歩道の散策を楽しみました。このコースは距離があり下り坂が続くので膝に負担がかかり侮れないと感じました、膝や腰を痛めている人はご注意です。