自分は今年2月から人工透析の治療を受けています。
その原因となった病名は「多発性のう胞腎」別名PKDといいます。
この病は遺伝性の病気で私の場合は父親から遺伝したものです。
その遺伝する確立は二分の一と言われていますが、残念ながら我々
兄弟は姉と自分の二人とも遺伝してしまいました。
そして今はその姉も透析中です。
私がこの病名を宣告されたのは21才のときです。
そのとき既に父は透析をいていました。
今から三十数年前ですので、その頃の透析は大変だったようです。
透析時間も今よりは長く、透析効率も現在とは比べられないほど悪かった
ようで、父の透析生活は大変過酷なようでした。
食後には必ず嘔吐のためにトイレに駆け込む。
透析の無い日は殆どゴロゴロ寝ている。
そして口癖は「早くお迎えが来てくれないかな・・・・」であった。
そんな父親を毎日見ていたので、自分は透析に対してはとても強い
恐怖心があった。
「いつの日にか必ず透析になる」そのことを宣告されていらい三十数年
片時もそのことを忘れたことはなかった。
ほんのかすかな体調の変化にも常に「いつかは透析」の恐怖におののいて
いた。
そして今年とうとう透析導入となった。
しかし間違いなく気持ち的には楽になった。
変な話、透析導入となってホットしている自分がいるのである。
その原因となった病名は「多発性のう胞腎」別名PKDといいます。
この病は遺伝性の病気で私の場合は父親から遺伝したものです。
その遺伝する確立は二分の一と言われていますが、残念ながら我々
兄弟は姉と自分の二人とも遺伝してしまいました。
そして今はその姉も透析中です。
私がこの病名を宣告されたのは21才のときです。
そのとき既に父は透析をいていました。
今から三十数年前ですので、その頃の透析は大変だったようです。
透析時間も今よりは長く、透析効率も現在とは比べられないほど悪かった
ようで、父の透析生活は大変過酷なようでした。
食後には必ず嘔吐のためにトイレに駆け込む。
透析の無い日は殆どゴロゴロ寝ている。
そして口癖は「早くお迎えが来てくれないかな・・・・」であった。
そんな父親を毎日見ていたので、自分は透析に対してはとても強い
恐怖心があった。
「いつの日にか必ず透析になる」そのことを宣告されていらい三十数年
片時もそのことを忘れたことはなかった。
ほんのかすかな体調の変化にも常に「いつかは透析」の恐怖におののいて
いた。
そして今年とうとう透析導入となった。
しかし間違いなく気持ち的には楽になった。
変な話、透析導入となってホットしている自分がいるのである。