紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

キャッチャー・イン・ザ・ライフ

2007-02-16 23:21:50 | 読書
 今月号の「ダ・ヴィンチ」では昨年第1部が怒濤のように終了した山岸涼子先生の連載バレエ漫画「舞姫(テレプシコーラ)」の特集をしていた。第1部の終盤での怒濤のようなストーリー展開に、すっかり心を迄Mされてしまった方々が、日本の津々浦々にいらっしゃるはずである。

 かくいう私もそんなトリコ状態のひとりであるが、今回の特集の山岸涼子先生にインタビューされている部分を読みながら、「この漫画の《悲劇が大転換されるダイナミックかつ感動的な部分》っていうシュチエーション、もっと前に読んだ覚えがある!?」と気づいた。

 いしいしんじさんの「プラネタリウムのふたご」を読んだとき、脳みそが捩じれる程、圧涛Iな感動になぎ唐ウれたことがある。物語のちょうど中盤。そして、これがラストの伏線にもなっている。ほとんど宗教的な体験に近いといっていい。よくもこんなことが物語として言語化できるものだと呆然とした。

 2作品共、最愛のものを喪ってしまう悲劇の最中、押し寄せてくる悲しみの力が転換され、まるでサナギが羽化するように人を成長させ、開花させる奇跡の場を、読者として目撃するのだ。こんな読書体験はめったにできない。

 「プラネタリウムのふたご」は名作だけど、リリカルでスローな文章は、現代人に忍耐力を要求するテンモゥもしれない。たしか400P以上はあったので、読み切るのにかなりの時間がかかった。もともと私はゆっくりしか読めないけれど、それでもページをめくるのに、いつもよりずっと結構な時間を要した。

 そしてこんな奇跡の場面を、山岸涼子先生がバレエ漫画で描かれたのだ。これをリアルタイムで、読めるとは、なんという僥倖! 

 不幸のどん底から、地を割って蔓を伸ばし才能を開花させるマジックは、最愛のものを喪う=自分自身も一度死に再び甦る、という過酷な体験を通して得たものかもしれない。疑似とはいえ「死」の体験を通り抜けてこそ、明確に自分の生きる意味をつかみ取れるのかもしれない。なんだか仏道修行や回峰行のようでもある。

 不幸は避けて通るものではなく、しっかり見据えてキャッチしければならないものかもしれない。人生に向き合う姿勢如何で、道は繋がって行くと思うこのごろである。

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