石ころ

ヨシュアが受けた主の祝福(ヨシュア記24章)

 

見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。(23:14)

 

これらのことを率いた民と共に目で見て、主を経験したヨシュアの人生は非常に幸せであった。「心を尽くし精神を尽くして主を知る」人生だったからである。それも主のたまものであるから・・。

 

みこころを成し遂げて穏やかに召される日は、主の祝福の時である。「主が御約束を一つもたがわず実現してくださった」ことを経験し、主をほめたたえる言葉を遺して召されることほどの幸いなことはない。

 

ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。
わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。(2~3)

 

アブラハムもモーセもその親も、生まれながらに主を知っている者は居なかった。生まれる前から神を知っているのは御許から来られたイエス・キリストおひとりである。


人は罪の中に生まれて、創造主なる神を神の熱心によって、自分が創造主に愛され、日々の備えの中で生かされていることを悟るのだ。

 

神の愛を経験して深い交わりを求めることを喜ばれるが、疑いの中で背を向ける者もあるのは、神は人をロボットにはされなかったからである。

それ故に、救い主としてイエスに十字架を負わせなければならないとしても・・。愛は強制されるものではなく、自由の中で育つものだからである。

 

ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。
それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがその真ん中で行ったとおりである。その後、あなたがたを連れ出した。(4~5)

 

神の熱心は、荒野にも彼らを導く命の備えをし、神のわざを現わしてご自身を経験させられた。彼らが罪に死ぬ時も子孫を祝福してイスラエルを生かし、ご自身の愛を知らせようとされた。彼らはそれを体験し目で見たのである。

 

「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。(13~14)

 

主が求めておられることは、すべてのことを通して、彼らを生かすいのちの主を知ることである。
それによって彼らを守り、祝福していよいよ良き交わりのうちに御許で生きるようにされた。愛する民が主の恵みを忘れて、他の神々に行き滅ぶことが無いためである。

 

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。(15~16)

 

此処でヨシュアは彼らが神を裏切る自由を持っていることを語り、いのちの選択を間違えないように明確な模範を示した。
「私と私の家の者は主に仕える」永遠の祝福に至る道を示したのである。

 

すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。(19)

 

ヨシュアは今後イスラエルに起る不従順を知らされていた。これまでも彼らは誓ってはその約束は脆く崩れて、ただ主の忍耐のうちに見捨てられずに命を繋いで来たからである。

 

民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」
それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。
ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。(24~26)

 

ヨシュアは不確かな民の返事に信頼したのではない。イスラエルを愛する神の熱心に信頼したのである。


キリスト者の誓いも約束も、主を愛する愛もこの肉の中に閉じ込められている信仰に在っては常に不完全であり、ヨブを攻撃したサタンには突っ込み所満載な者である。


しかし、今サタンが手出しすることは出来ない。それはキリストの信仰に拠ることであり、罪が完済された贖いの血のゆえである。

キリスト者はキリストのうちに留まっており、その時、訴えるものが侵入する隙は無いのである。

 

これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。(29)

イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。(31)

 

不穏な言葉でヨシュア記は終わっている。世代が変わると良きにつけ悪しきにつけ、新しく主に仕えることを覚えて行かなければならないのである。

 

神がイスラエルを祝福の民として選ばれたことは、永遠に変わることがないけれど、ただ祝福の家に生まれただけで信仰が完成するのではない。

主はひとり一人に出会ってくださり、その人生に関わって導きを与え、みことばを語り続け、御わざを現わして人生に寄り添って、主を経験し知り続ける深みに導かれるのである。御許に召される日まで・・。


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