初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1~3)
イエスは神とともに永遠の始まりであり天地宇宙を、神のみこころに拠って創造された方である。それもことばに拠って造られ、イエスのことばには無から有を創造する力があった。
初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:1~3)
ヨハネ書の書き出しは人の思考を破壊する。人はせいぜい処女マリヤから生まれたイエスを受け入れるだけで精一杯なのだ。
しかし人は神に造られたものであり、被造物の脳みそに作者なる神が治まるわけがない。
その神秘は聖霊なる神が、人の脳みその限界にはよらず神と繋がった霊のうちに居て、御子をたまわるほどの愛を持って造られたことを、悟らせてくださる。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(4~5)
イエス・キリストに在るいのちは、罪によって入り込んだ死を通過して、永遠の霊のからだによみがえらせるいのちである。キリストは、アダムの由来の罪によって滅ぶばかりの命を救う、唯一の望みの光りである。
キリストを拒んで罪を持ったまま死を迎えた者は、どれほどの善行を積んでいても神に逆らったさばきを受ける。善をなそうと悪をなそうと、キリストにすがるために備えられた時を無駄にするなら、皆永遠の滅びに至るのでありそれは神の悲しみである。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1:17)
イエス・キリストは栄光の神であられるのに、罪人と同じ死ぬべき姿となって地に下り、人類の罪の代価を支払うために、十字架で身代わりの死刑とされて、黄泉までくだり、三日目に死を打ち破って復活された。
そのキリストの十字架の御わざを信じる者には、死を滅ぼす復活のいのちに与らせてくださる。罪の結果である死の闇はキリストに打ち勝たなかったのである。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(1コリント1:21)
神が人の思いを操ることは簡単であろう。しかし其処に愛は存在しない。愛は相互の自由意思によって育まれるものだからである。
神は愛であり、神を愛する者と共に永遠のお交わりを喜ばれるのだ。これこそ神がアダムに期待しておられたことである。
それゆえ神はひとり一人を選び、キリストの十字架によって罪を洗いきよめ、キリストの言葉と行いに拠って示されたいのちの言葉を、聖霊なる神がその人の生涯を共にして、神を愛する愛を育み導かれるのである。
ひとり一人を滅びの死から救い出すために、天地を創造された三位一体の神は共に働いていてくださる。それは人を創造された神の御真実によることである。
それは、神には愛する御子の命を世にたまわるほどに、キリストには十字架で命をたまわるほどに、聖霊にはハラハラと片時も離れずに居てくださるほどに、高価で尊いいのちなのである。