それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。(1~2)
キリストを知らないままにイエスを招くことが出来るのは、初めに神が選んいてくださったからである。キリストの初めての御わざの場となるとは、どれほどに祝福された婚礼であろう。
私たちの救いもイエスを知らないままに御名を呼んで、一つひとつのみことばのご真実を経験して来た。神が初めに選んでいてくださったからである。このことは本当に一方的な神の恵みである。
しかし主が招いていてくださるのに、キリストに頼らずに済む方策を持っていることで、選ばれている祝福を無にしてしまう。
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(3~4)
婚礼の宴会でぶどう酒が切れるということは花婿の大恥であろう。マリヤは緊急に解決しなければならない問題を前にして、誰も解決できないことをイエスに頼ったのである。
それはイエスを宿した時から、マリヤが思い巡らせていたキリスト信仰の芽生えである。
問題の解決を祈る時は余計な言葉を付け足さずに、真っ直ぐに伝えれば良い。イエスはすでにすべてを知っておられるので、自分の立場など説明は無用である。
それゆえ祈りはマリヤのように一言で終わるのだ。言葉数や巧みさによって主が動かれることはない。
ただそのとき次善の策を持っていないことは聖さである。あれこれと次なる方法を備えて置きながら祈ることは、主を天秤に掛けることである。
マリヤは「我が子イエス」としてではなく、「主イエス」の御前に問題を置いたのである。イエスも神の子の働きはマリヤの子とは関係なく、信仰に拠るのであると区別されたのだ。
この明確な区別によって、マリヤはイエスの十字架の下に、正気を保って立つことが出来たのである。
母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」(5)
信仰によって、主イエスの御わざを確信したマリヤは大切な備えを給仕の者に命じた。それはみことばへの完全な従順である。
そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。(6~7)
マリヤの言葉に主の権威があったゆえに、給仕は一言の疑問も差し挟まずにイエスに命じられるままに、大きな瓶に水を満たし続ける労働を完全に果した。
みことばに従順するには聖霊の臨在が必要である。人の肉からの賢いものが頭をかすめると完成することはない。水は瓶いっぱいに満ちていなければぶどう酒にはならないのである。
イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。(8)
給仕はぶどう酒の香りあふれる水を、震える手で持って行ったことであろう。彼らが一切口を挟むことがなかったのは、今、目の前で起った出来事による恐れで、心が一杯になっていたからである。
大きな御わざを経験したときは言葉を失う。そして、時が来たらぽつりぽつりと主に促されるままに証するのである。
自分の身に起こったあり得ない出来事に脳みそが追い付かず、言葉を失って黙るのである。
宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。(9)
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(11)
聖霊の豊かな働きの中に在って、弟子たちは初めてキリストの御のわざを経験した。しかし弟子たちは初めに奇跡を見て従ったのではなかった。
人は多くの奇跡を見ても、自分で経験してもそれによって救われる者ではない。宗教家たちは彼らの言葉でキリストからメッセージを聞き、目の前で神のわざを繰り返し見ても信じなかったのだ。
人の五感の記憶は曖昧なものだから、理屈で過ぎ去らせ、サタンに持ち去られ、不都合なことは聞き流して目を背けていることが出来る。
しかし弟子たちは、イエスに招かれるとすぐに応答し、世に生きるよすがを投げ捨ててイエスを選び取ったのである。
救いは初めに神が選び、主の招きに応答するときに成就するのだ。