石ころ

ニコデモの選択 ②(ヨハネの福音書3章)

 

ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。(9~10)

 

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」イエスのお言葉を、生まれながらに理解出来る人は居ないと思うが、あえてニコデモにレベルの高い答え方をされたのは、彼が「先生」と呼ばれていたからである。

 

あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)

 

兄弟なら教え合う関係であり、ひとりの悟りを皆で分かち合うことが出来る。しかし弟子が先生に教えることは出来ない。誰からも教えられる必要のない先生は、イエスおひとりである。

 

イエスは一人の女の疑問に答えるために、わざわざ「サマリヤを通って行かなければならない」と言われた。主を知ることに飢え渇いている者には親切なお方である。
疑問を人に問うても軽蔑されている女に教える人は居なかったが、イエスは彼女に来て声をかけ、彼女のストーリィを聞きつつ交わりの中で奥義を語られた。これが今も変わることのないイエス先生である。

 

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(7:37~38)

 

生ける水を満たされた女は水瓶を放り出して、キリストを知らせるために走った。
今はみことばを解き明かす聖霊が近しくいてくださる。勉強ではなく、みことばを生きる力に満たして導くために。

 

まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。(11~12)

 

わたしたちと言われる父なる神、御子イエス、聖霊のわざによる証を受け入れることが出来ないのは、肉によって生きているからである。
肉は霊に逆らうものであり、主のわざを見ても聞いても悟ることは無くむしろ拒絶するのである。

 

肉は命のイニシアチブを手放したくないのだ。それは死を予感させるものであり、魂と体は死を極度に恐れているからである。
天上のことを知るには霊に拠らなければならないが、まず、生まれながらの知性も感情も聖霊に従順しなければならない。そうでなければ創造主なる神のことも、イエス・キリストのみことばも悟ることはなく、永遠のいのちを求めることもない。

 

だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(13~15)

 

キリストの十字架のあがないを受け入れると言うことは、キリストの愛に生きる奴隷として、限りある命をお委ねして用いて頂くことである。
それは遣り繰りして積み上げて来たものを手放すことであり、まさに肉と魂には死である。

 

しかし神に受け入れられる罪の処理は、まったく罪の無いキリストの十字架の血によって洗いきよめて頂く他なく、どんなにあがいても肉の努力の及ぶことではないことを認めなければならい。

 

そう、罪に噛まれた人類はいつも死を背負って生きており、サタンの跋扈する荒野で生きるために、キリストの十字架を表す青銅の蛇をモーセに与えられたのである。
それを見上げる時に、癒やされて命を得るためである。
今は恵みの日キリストをおくって御救いを完成し、信じる者に永遠のいのちの御約束を成就してくださっている。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(16)

 

神は、イエスをキリストと信じるだけで救われる、御子の命を人類にたまわった。それゆえ、支払われたキリストの命に相応しく、人々が救われることを願っておられるのは当然である。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(17~18)

 

人は誰でも、キリストを主と呼んで受け入れたときに永遠の滅びから救われる。キリストによって罪の代価は支払われ、キリストの復活のいのちのうちに入れられるからである。

 

キリストの聖さの中で神の愛を満たされて、反抗して来た罪を恥じて、神を愛し罪を憎むようになり、キリストに似た者へと変えられて行く。
それは、キリストの復活とともに新しくされたいのちが、肉に拠って生きる者から、霊に拠って生きる者へと生まれ変わったからである。

 

しかしキリストの贖いを拒絶した者は、その瞬間に永遠の滅びが決定する。なぜなら、命の終わりは神だけが知っておられ、それは今日か明日かも知れないからである。

 

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(19~20)

 

光りに近づいたとき見るのは自分の罪と汚れである。罪に悩んでいた者は十字架の元にひれ伏して、きよめられることを願い求める。
しかし、自分の罪に気付かない者は罪や汚れを露わにする光りを避ける。彼は罪深い誰彼のようではない自分に満足していて、良心に何の痛みも感じていないからである。

 

しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。(21)

 

ニコデモは真理に渇いて、闇から光りであるイエスを尋ねたとき、キリストを求めるその一歩によって、滅びることのない永遠のいのちに近づいたのである。キリストを迫害する神の敵から、神の子とされるための方向転換であった。

 

今イエス・キリストの御救いを受け入れることが、永遠の滅びと永遠のいのちの分かれ目となる。人は誰も明日を知らないからである。

主の御名を呼び求める者はみな救われる(ローマ10:13)


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