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石ころ

イエスの怒り(ヨハネの福音書2章)

 

その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(12)

 

イエスは肉の家族、霊の家族と共に一時の安らぎを味っておられたのであろう。肉の家族を軽んじておられたのではなく、マリヤを愛して十字架でその身を案じヨハネに託されたほどであり、厳しい言葉は十字架に向かう公生涯に備えてのことである。
今から始まる、神から発したものとは似ても似つかぬ宗教との戦いに備えて・・。

 

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(13~16)

 

イエスがご覧になったのは捧げもののルールを利用して、神を恐れる人々から不正に金銭を搾り取る商売であった。信仰者から不当に貪り取る貪欲と、それらを巻き上げる宗教者の貪欲を見たのである。

 

怒らないことが平和でも愛でもない。イエスの愛は滅びゆく罪人のためにいのちを捨てるものであった。
しかし、御子をたまわる愛の神の祈りの場は、みことばを捻じ曲げて御旨に反し、金銭を愛する宗教組織であった。
イエスは御父を思う怒りを爆発させ神殿をきよめられたのである。

 

弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。(17)

 

弟子はみことばを思い出して、このことが神のキリストに相応しいことを悟ったのである。その行いが人の目にどのように映ろうとも、神から発したことはみことばに結びつて教えとなり、主に在ることを証する。

 

すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(18~19)

 

ユダヤ人はイエスに神のしるしを求めたが、彼らは神のわざを見ても決して悟ることはない。彼らはキリストを信じない理由を探しているだけなのである。

 

人となられたイエスは十字架に死んで崩され、黄泉に下って三日目に復活されることを予言された。
イエスのことばは人の言葉と噛み合わないことが多いけれど、主は永遠という時に立って語られ、人は目先のことを見て悟ることしか出来ないからである。

 

それゆえ、みこころを生きるためにはみことばを貯え、その日の必要を、うちにおられる聖霊が解き明かしてくださるみことばを聴く必要がある。
主のご計画はそれぞれのたまものに相応しく備えられてあり、自分自身で聴かなければならないのである。

 

そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。(20~22)

 

この時、イエスが話されたことを誰も悟ることは出来なかった。イエスがよみがえられたときに弟子が思い出したのは、みことばを思い巡らせていたからである。
彼らはこの信仰を聖霊の助けの中で堅く守り、復活の望みによって殉教さえも厭わなかった。

 

救われたキリスト者のうちには三位一体の神が住んでいてくだる。その霊にある神殿は、体が死を経ても壊されることはない。この神殿に在る主との御交わりは、永遠に絶えることの無い強固な砦なである。

 

わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)

 

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(23~25)

 

奇跡を見て信じてもそれによって救われるのではない。キリスト信仰に留まるには、みことばを個人的に聴く交わりが必要である。

それゆえイエスは群衆の中で癒やされた人に「あなたの信仰」と声をかけて交わられた。群衆が全員受けたパンの奇跡は一時の空腹を満たすけれど、やがて皆死ぬのである。
たとえ救われる人が何億人いても、救いはキリストとのとても個人的な交わりに拠ることである。

 

人は「ホサナホサナ」とほめたたえても、思い通りでなければ次の瞬間に「十字架に付けろ」と叫ぶもの。
キリストは人によって神とされるお方ではなく、神が人となられたお方である。死ぬまで御父のみこころを行って、反抗する罪人を救うためにご自身を捧げるお方である。

 

罪人がイエスを神のキリストと悟るには、聖霊の助けに拠らなければならず、その聖霊を一人ひとりに計画してくださったのは神の愛である。三位一体の神の愛を汚す者に、御子イエスは激しく怒られるのである。


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