ばあやの文箱

お手紙のように仲間にメッセージ

くまもん よろしくね

2016-04-21 19:27:27 | Weblog



火山の噴火や台風は多いけれど九州は地震の被害は少なかったのです
上京して初めて地震を経験した時には怖いというよりは
「これが地震というものか」と珍しく思ったくらい

2005年に福岡で玄海沖地震というわりと大きな地震がありましたが
有史以来の地震とのことでした 少なくとも二千年近くはなかったのです

熊本では体に感じるゆれが千回を超えたとか
台風ならば避難していても家に早く帰ることもできるし
復興も早くできると思うのですが今回の状況には胸が痛みます

できることは募金くらいしかありませんが
せっかく震災で助かった命がその後に奪われるのは悲しいです

もし同じ状況で母を連れて避難となったならば・・・
まず連れてということすら出来ないでしょう
高齢者の方たちが特に心配ですね

きっとくまもんも全国回って熊本のためにがんばってくれるでしょう
不安な日々を送ってる小さな避難所の子供たちのところに行ってほしい

連休を利用してボランティアの方も集まってるとか
なんとか早くプライバシーのある建物での避難ができますように

理想の駅弁

2016-04-14 22:26:32 | Weblog



「汽車に乗って日本のあちこちの駅弁を食べたい」

これははっきり覚えているずいぶん昔の私の夢でした

幼い頃に毎年夏になると祖母に連れられて
九重の田舎に行っていました
その時いつも博多駅で買ってもらったお弁当の美味しさが原点

左 有名な京都の荻野屋の駅弁 本当においしそう
おいしいからと従妹が買ってきてくれたことがあります
私の理想のお弁当の形ですね

入れ物は経木 薄く杉などの木を削ったものだから
ご飯に木の香りが移って美味しい そして水分も吸ってくれます
もちろんご飯は俵型に黒ごまをパラリ 薄い木のふたについたご飯粒をまず食べましたね

中 この理想の駅弁を今もちゃんと継承してるのが
横浜の崎陽軒のシウマイ弁当

私には卵焼とかまぼこはおかずの必須アイテム
崎陽軒のおもしろいところは通常お漬物のところが酢漬けのしょうが
あとくちによく入ってる煮豆のかわりが干しあんずというところでしょうか

右 博多駅の寿軒のこれは安い方のお弁当
辛子明太が入ってます このお店のお弁当は上京のおりにお世話になりました
今は違った名前になったので思い出にのせました

荻野屋も寿軒も創業は明治 崎陽軒は昭和の初期から

五月に東北に行きます できたら車中で駅弁を食べたいな

やっとやっと!出会えました!!防人の唄 シュリークス 

2016-04-12 23:24:30 | Weblog
防人の唄 シュリークス ライヴ



1.昔ある若者が 夜の浜辺で
  波の音にあわせ 竪琴を弾いていた
  その夜の空は晴れ 遠くの沖へ
  静かに静かに 消えていった

2.むなしその調べ さざ波にのれ
  遥か故郷(ふるさと)よ 恋しい母よ
  懐かしその日々は 遠くの沖へ
  静かに静かに 消えていった

3.波の中に消える 防人のうた
  残る琴の調べ 涙を流し
  敗れし若者は 空の星へと
  静かに静かに 流れていった

お茶にします

2016-04-11 22:11:09 | Weblog



先日いつものように佃煮や季節の果物を持って青梅に行きました
前に持参した甘納豆のリクエストもあり
またお昼を一緒に食べて帰りました

この日は残念ながらデジカメを忘れてしまい
満開の桜やいつものきれいなお花がうつせませんでした

おみやげはいつも売店に置いてある近くの和菓子店のどら焼き
帰って二人でおいしく頂きます

たまたま好きなマルセイのバターサンドも手に入ってたので
和洋おいしいお菓子のお茶タイムになりました

桜のじゅうたん

2016-04-10 21:57:36 | Weblog



満開の桜より散っていく時の桜の風情が好きです
いつも通っている遊歩道につづく道
散ったはなびらでピンクのじゅうたんのようでした

仕事に行く前でしたが思わずデジカメで写していました
そこに自転車で通りかかった方が「きれいね」と声をかけてくれました

逆だったら私は声をかけたかしら こんな風に素直に声をかける人になれたらいいなと思いました
一緒に桜のじゅうたんの美しさを共有できたようで
何だか心がほんわりと暖かくなった朝の一瞬でした





春の若草の上に散った桜のはなびらも好きです
古代 桜は田の神のよりしろだったとか
その年の米の実りの吉兆を桜の咲き具合で占ったのでしょう

たくさん散り敷いたはなびらはお米にも見えました

3月 じいやの夕ご飯

2016-04-09 23:33:07 | Weblog



週に一度夕ご飯を担当してくれます

長崎焼きそば 卵スープ 焼鳥(市販)


にんにくの芽と豚肉の中華風炒め物 にんじんとごぼうのキンピラ きゅうり一夜漬け


麻婆豆腐 ちくわとキャベツとツナの炒め物 きゅうり一夜漬け とうふと卵のスープ

3月ばあやの夕ご飯

2016-04-09 23:29:04 | Weblog



チキン南蛮 卵スープ オードブル

コロッケ 青菜炒め 

崎陽軒シューマイ コロッケ ポテトサラダ きんぴら





ナスとピーマン 豚肉の中華風炒め わかめ酢の物

揚げシューマイ 揚げ出し豆腐 あじ煮つけ

おでん 千切り大根煮つけ





キムチなべ 

中華風鶏と野菜炒め ワンタンスープ

とんぺい焼き 鶏と車麩の治部煮

3月ひとり散歩 旧新橋停車場鉄道歴史展示室

2016-04-09 22:59:22 | Weblog



ずっと行きたかった「駅弁むかし物語」を見に新橋に行って来ました
鉄道が好きですから駅弁も前々から大好き
新橋にあるすてきな鉄道歴史展示室は一度行きたかったところです

「汽車に乗って日本中の駅弁を食べたい」というのは小さい頃の夢
毎年夏になると祖母と一緒に大分県九重の田舎に行ってました
博多駅で買ってもらった駅弁の美味しさが夢の原点かも

じいやは年に何回か友人と旅行を楽しんでます
おみやげにプラスして邪魔にならないなら駅弁を頼みます
浜松に行った時の幕の内弁当です





1870(明治3)年3月25日 新橋~横浜間の鉄道建設の最初の杭が打たれたところで
鉄道創設起点として明治11年にこのゼロマイル標識が建てられました これを復元したものです

駅弁の展示は古い入れ物や掛け紙など興味あるものばかりでした
陶器でできたお茶の瓶もなつかしかったです
入場料は無料 開発がめざましい汐留の一等地にある展示室です





ひとり散歩&北千住がコースとなっているのですが
この日は息子に教えてもらい東京駅から常磐線に乗りました
北千住はJRはじめ5つの路線が乗り入れているのです

たまたま上野ライナーという四人掛けの車両に乗れました
「駅弁むかし物語」を見たあとだけに嬉しい旅行気分
今はあまり乗ることのない席で旅気分でした

掃除をして夕ご飯はオープンして人気という焼肉屋さんへ
元気なお兄さんのおすすめで一番人気のホルモンに挑戦しました

マルチョウ ガツ ミノ などなど初めての部位ばかり
おすすめだけあって新鮮 やわらか とろけました
お兄さんがついて焼いてくれるのでぴったりの焼き加減

博多では昔から食べられていたホルモンですが(韓国が近いから)
ちょっと食わず嫌い 美味しくてまた食べたいですね

本格的なマッコリやテグタンスープ もちろん焼肉も美味しい
「お肉食べると元気が出るね」と乾杯でした





帰りもまたJR 東京駅に着いたら何と!!特急サンライズ出雲が止まっていました

私は新幹線には興味なく やっぱり今は少なくなった寝台特急が大好き
博多~東京間どれだけブルートレインで往復したでしょう
あさかぜ さくら みずほ ああなつかしい!

このサンライズ出雲に乗って旅立ちたいと思いました
じいやは松江に行ったことがないと言ってたから
いつか夢をかなえたいな

なんだか鉄道の神様が良いものを見せてくれたような
すてきな一日に感謝です

残念です

2016-04-06 20:55:18 | Weblog



とても好きだった池波正太郎氏が急逝され 本当に残念で残念で歴史小説を読むのを長く止めてしまいました

ある時ヴィヴィ奥様が「宇江佐真理さんという女性作家はおもしろいから」と教えてくださった
そこから10数年ぶりくらいに江戸時代の世界に又はまってしまいました
でも彼女も池波正太郎氏と同じく六十代で亡くなってしまった またショックでした

その時に「仲の良かった杉本章子さんもも同じ病気で時を同じくして亡くなった」という記事を見ました
図書館で本を借りて読み これら作品も宇江佐さん同様に限りあると思うと切なくなりました

あとで知りましたが私が借りていた本はホスピスで書かれていた一冊
そして杉本章子さんが私が行った高校の後輩とわかりました 





神戸に本校を持つ福岡海星女子学院というのが私の母校です
私が入学したのは創設して三年目の新しい高校 1学年1クラス 少人数のカトリックの女子高でした

中高一緒に創設され 私たち高校クラスは27名 中学クラスは6人で入学式でした
校章にはステラマリスの文字 船乗りに道をしめす海の星はマリア様でもありました





福岡市の郊外 高台に建てられた白い校舎にはマリア様の像が立っていました
大きな池のほとりにあり 緑多くすばらしい環境でシスター方と3年間をすごしました
私の人生はここに行ったことで大きく変わったかもしれません

私が高3の時に杉本さんは高1だったのですね
マリア様を仰ぎ見つつ過ごした3年間 どこかですれちがっていたのでしょう
毎朝の朝の祈りも聖歌も一緒だったのかと

八女市出身とあったから寄宿生だったかもしれない
それだったら高3の1年は私も寄宿舎でしたから同じ時間はもっと一緒だったかも

久しぶりに懐かしい母校の写真をさがしました
胸のリボンにグレイのスーツは変わっていませんでした