行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

なんとなく。

2010年02月18日 14時47分08秒 | 日記

うーむ・・・
書き出してはみたけれど、何をどこから書いて良いか。
心の中が色んな色で渦巻いているようで、少し色を取り出して軽くしてあげたい・・とそう思って書きます。
なので、同意を求めるものではありませんのでスルーで。。
そして、気分を害された場合は、すみません・・。

まず。
スノボ。見ていました。
出発時点から、日本の選手も。
人の息子だから悠長なことを言っていられるのかもしれません。
私は、あの国母選手の服装云々については・・・
例えば、卒業式にも色の付いた髪は黒いスプレーをかけなくては出席できない高校生と同じなのか。。
お葬式に、喪服が無かったので黒のリクルートスーツを着て参列したサラリーマン1年生と同じなのか。
などなど・・どれが当てはまるのかと引っ張り出してみたけど自分にこれだっというものが出てこない。
私には、スノボの知識やスノボとしての常識や、スタイルがどういうものなのか分からないけれど、金メダルを取った選手も腰パンのスタイルだったよね。。
スノボをアピールするのがあの服装だったのか・・・?
オリンピックとしてのユニホームとは違うのは分かるけど。。
礼服・喪服をグズグスに崩して着たら、それは常識はずれとなるかもしれない。

まあ・・橋本団長が自分が責任を一任するといって大会への参加を許された。
反省の言葉を促された記者会見でも本人の舌打ちが聞こえるようなもの。
その後は、反省したのだろうか・・自分の炎を隠したのだろうか・・・

私は、自分の息子に、あの騒動渦中にこう言ってみた。
「腰パン、カッコイイじゃいないのね~」と、容認する意味のことを。
すると、皆異口同音に、ダサい、頭悪い、などと、批判的。
へ~。。そう思うんだ。。と、私は息子たちを見直してみた。

でもさ。。
私は、国母選手は、スノボを愛していて惚れこんでいて、賭けて来た時間があってあのスタイルを前面に出したんじゃないだろうか・・って思う。
それを。
在学している大学側が応援を辞退する。
それに腹が立ちました。
学校の品位が落ちると思ったのでしょうか。
わが生徒と思いたくないとの判断だったのでしょうか。。
世論が悪評を出した時こそ、守って応援を送るのが母校の姿と言えるんじゃないか・・と思った。
コーチや監督は居るのは当たり前だけど、大学が手を放してしまった選手。
1人で勝負したような気持ちに、私はなった。
8位、入賞、オメデトウ。

 

もう1色の糸。
まだ若い知人。その知人の友人が最近脳梗塞で死去した。
28歳という若さで、アルコールに依存をし、家庭から見捨てられ、お酒に逃げた年月。いくら若いとはいっても健康は維持できなかった。
知人にこまめな連絡をとるようになって2年。
知人も彼女の苦悩の中に入り、励まし支えてきたが、彼女の体はとうとう元気にはならなかった。
知人は、彼女に会いに行くたびに何かを吸い取られるようになると言っていた。
次に生まれる時は、健康な体で会えるように祈り、見送ろうと言葉をかけた。
亡くなった者は、人生の幕を引いて終わる。
生きている者は、これからもまだ生きていかなくてはいけない。
知人が寂しさに囚われることなく、沈み込む気持ちが1日でも短いことを願う・・・。

 

もう1色の糸。
私の高校のときの友人に久しぶりに会いに行った。
母がリハビリ入院の時に彼女は旦那さまと一緒にその病院にいた。
予期せぬ出来事が彼女を襲ったのは4年前。
地域の会合からの帰りに脳梗塞で倒れる。当たった箇所が悪かった・・。
きちんとした病名を聞いたけど、覚えられなかった。
過去の記憶はある。が今から、これからどうこうしようという脳の働きがなくなったという。
その後、気にはなっていたけれど、お見舞いに行くのにいろんな遠慮がこちらにあってなかなか行けずにいた。
久しぶりの彼女は、全く変わらず元気に私を迎えてくれたけど、2時間のお喋りの中にたくさんの戦う姿があった。
排尿した記憶が無いから、5分おきにトイレに行きたがる。勿論、自分では何もできないから、その都度彼女が介助する。
私と同じくらいの身長(150cm)の彼女が、長身で大柄な旦那さまの介助は大変だと思う。
入浴だけはデイサービスでお願いしているというが、その週3回は自分で送り迎えをしている。
その理由は、送迎の車に乗せて1人で行かせるのがどうしても出来ないと。
1晩だけのショートステイもしていないと言う。
あの場所に自分の夫が1人ポツンと居ることが許せないのだと。
愛しているんだなぁ・・・
私はどうだろうか。
母についても・・・・・

 

そしてもう1色は。
その母を思ったから。
楽しみにしていた絵手紙を母と楽しみに施設に行った。
箸やスプーンを持つだけの力では、ペンを自由に動かすことは出来なかった。
下書きがあるのだから色塗りだけして楽しめると思ったが、先生がそうはさせなかった。。
先生と呼ばれる高年齢の女性も施設の利用者。
あの中で自分の特技をもって楽しみ・楽しませ、自分の生甲斐としていた。
若い頃の母は、手先が器用で私たち姉妹は手作りの衣服を着せてもらっていた。
あれもこれも出来ていた母が、その力を無くして、1枚の絵にも手が止まる。

楽しい時間も過ぎて、私の帰る時間に体を震わせて泣く。
寂しいんだょね・・・・
私は、母に時間を区切って今は何をしている、この時間はあれをしている・・と説明をした。それは母が食事をしている時間はこれを、ベットに入るときはこれをと母の時間に合わせて説明をした。
そして、私を思い出していてねとお願いをした。
母は、「わかっているんだよぉぉ、だけど泣けちゃうんだよぉぉ。」と。。

絵手紙に送ろうと思った住所を書いて出そうねと言っていたけど、それは洗面台に飾ってきた。
たった今2人で描いた絵手紙を見て、数日、寂しくないように。。。

 

少しだけ、書いてほぐれてきたかもです。。<(*_ _*)>


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