白鷺が私の頭上を飛んで遊水地に帰る季節になりました。
秋なのですね。
人の思いの受け止め方って、100%が自分の感情なんでしょうね。
喜怒哀楽の全てが、自分の経験したことから想像してみる。
自分が喜んだことを相手にもしてみたら、こう喜ぶのではないかと。
喜ぶだろうという自分が経験した過去があるから、相手も喜ぶという前提でしてみる。
これをしたら、悲しいだろうなんて思わずに。
自分が怒った過去がある原因は、他人も怒るだろうという経験があるから、しない。
相手が嫌な思いをしないように・・とは、誰しもの中にあること。
相手に対して怒りがあっても、それをしないのは、理性があるから。
哀しいことは、浅深有りで、これも自分が同じ悲しみを味わった経験があると寄り添える。
相手の悲しみを理解できる。
それでも、それは自分の哀しみの感情を思い起こしているだけにすぎない。
楽しいこと。
一緒に笑ってはじけて経験したことも、どれだけ温度差があるのだろう。
ずーっと同じ気持だよと感じても、さらなる楽しいことを経験すれば、楽しい事柄の上乗せが人を変えていく。
夕べ妹がふいにやってきた。
血のつながりのあるものは、感情だけでなく、繋がっている何かがあるのかもしれない。
それも、同じ環境を経験してき間柄だから、温度差のない近い感情が汲み取れるのだろうか。
私がここで、受けた義父母らとの生活で経験した喜怒哀楽がある。
私ではなく、誰か違う人がここに嫁として存在したら、その喜怒哀楽も全く違うものになっている。
私だから、私が持っている心の中のものが、喜怒哀楽という形になって残っている。
その経験から、人の喜怒哀楽を想像していってしまう。
自分の腹黒さから、相手もそうなのかという、恨みを想像してしまう。
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