何だかよく分からないけど、いただきました。
NAMARA立ち上げから数年、芸人は食べていけませんでした。
もっぱらバイト。そのバイトを続けるのも難しくなってきました。
NAMARAに仕事が入るとバイトを休む。
その繰り返しがバイト先からは使いづらくなる結果に。
よって、NAMARAでバイト先を作ったのがこれ。
もっぱらバイト。そのバイトを続けるのも難しくなってきました。
NAMARAに仕事が入るとバイトを休む。
その繰り返しがバイト先からは使いづらくなる結果に。
よって、NAMARAでバイト先を作ったのがこれ。
朝、夫婦喧嘩したあとは、出勤途中で交通事故に遭うか率が上がります。
逆に朝リラックスした状態になれば事故防止につながる。
そんなわけで朝から笑って事故防止ということで建設現場で「お笑い朝礼」をやることに。
現在もいろんなところに出向いています。
逆に朝リラックスした状態になれば事故防止につながる。
そんなわけで朝から笑って事故防止ということで建設現場で「お笑い朝礼」をやることに。
現在もいろんなところに出向いています。
ここ最近、NAMARAの立ち上げを振り返っていますが、
NAMARAは16年前からいろんなことをやっているね。
改めて思うけど、いまこうして続けていられることは奇跡だ。
それもこれも、懲りずにNAMARAを呼んでくれたみなさんのお陰です。
NAMARAは16年前からいろんなことをやっているね。
改めて思うけど、いまこうして続けていられることは奇跡だ。
それもこれも、懲りずにNAMARAを呼んでくれたみなさんのお陰です。
1998年。
もうこの頃から成人式のイベントや福祉関連のイベントをやり出していた。
今ではコンビで動いていますが、この頃は集団で動いていました。
手間ひま掛けてました。
このチラシをアップにしてもらえれば分かりますが、
1997年からエイズデーに参加していたのか・・・。
もうこの頃から成人式のイベントや福祉関連のイベントをやり出していた。
今ではコンビで動いていますが、この頃は集団で動いていました。
手間ひま掛けてました。
このチラシをアップにしてもらえれば分かりますが、
1997年からエイズデーに参加していたのか・・・。
上の写真は、1999年聖籠中学校「いきいき体験学習~NAMARAと一緒に笑いを作ろう」
ちなみに写真中央はヤンさん。
下の写真は、1999年与板高校学園祭。舞台の上にはヤングキャベツ。
お笑い授業が出来る前の頃。
ちなみに写真中央はヤンさん。
下の写真は、1999年与板高校学園祭。舞台の上にはヤングキャベツ。
お笑い授業が出来る前の頃。
お笑いライブをやっていく一方で、
なかなか「お笑い」で扱えないような社会問題に関わっていくようになっていく。
集団で暴行した結果、ひとりの命が亡くなった。
加害者の家庭にも了解を得て、被害者の父親と一緒に、集団暴行事件について語り合う。
なかなか「お笑い」で扱えないような社会問題に関わっていくようになっていく。
集団で暴行した結果、ひとりの命が亡くなった。
加害者の家庭にも了解を得て、被害者の父親と一緒に、集団暴行事件について語り合う。
現在のNAMARAは、あらゆる社会問題を分かり易く伝える通訳みたいな仕事も多い。
それはごみ問題を漫才で分かり易く伝えて欲しいと依頼を受けたこの頃から始まった。
宮沢りえの写真集は燃えるゴミ。
天地真理の写真集は燃えないゴミ。
この当時、芸人たちはこんなことを言っていた。
それはごみ問題を漫才で分かり易く伝えて欲しいと依頼を受けたこの頃から始まった。
宮沢りえの写真集は燃えるゴミ。
天地真理の写真集は燃えないゴミ。
この当時、芸人たちはこんなことを言っていた。
僕自身が大変お世話になった遊◎機械全自動シアターを新潟に呼べる機会をいただいた。
認知はされていたNAMARAですが、社会的な信用はそう簡単には手に入らない。
しかし、この頃から少しずつ世間から信用されつつあったように思う。
認知はされていたNAMARAですが、社会的な信用はそう簡単には手に入らない。
しかし、この頃から少しずつ世間から信用されつつあったように思う。
ライブには中学生、高校生のお客さんが多かった。
学園祭や小、中学校にも呼ばれるようになって来た。
そこで始めたのが「お笑い授業」
ネタを一方的に披露して終わりではなく、
生徒にもPTAにも参加してもらう「お笑い授業」話題になって行く。
学園祭や小、中学校にも呼ばれるようになって来た。
そこで始めたのが「お笑い授業」
ネタを一方的に披露して終わりではなく、
生徒にもPTAにも参加してもらう「お笑い授業」話題になって行く。
大川興業の大川豊さんをゲスト審査員にお迎えして、
全国に同時多発的に生まれたお笑いインディーズ集団を集めて戦った結果、
当時、名古屋のお笑い集団に所属していた青木さやかさんが優勝。
ヤンさん率いる「80%」は準優勝に終わった。
全国に同時多発的に生まれたお笑いインディーズ集団を集めて戦った結果、
当時、名古屋のお笑い集団に所属していた青木さやかさんが優勝。
ヤンさん率いる「80%」は準優勝に終わった。