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ACあつこのひとりごと

ACで摂食障害のあつこです。
精神科看護助手をしながら、毎日一生懸命生きてます。

困難を平和への道として受け入れること

2005年10月30日 | はーとなびげーしょん
神さま、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れるおちつきを
変えられるものは変えていく勇気を
そして2つのものを見分ける賢さを
今日一日に生き
それぞれの瞬間を楽しみ
困難を平和への道として受け入れ
この欠点の多い世の中を、あなたがなさったように
自分の思うようにではなくてそのままに受け取り
自分を明け渡してあなたの意志に従えば
あなたが全てを正してくださると信じ
この世ではほどほどに幸福であり
次の世ではあなたと共に至上の幸福を味わうであろうと信じることを。

困難を平和への道として受け入れ?
その言葉に私は何かを感じた。確かに今は生きにくさを感じていて、何をしてもうまくいかなくて…しんどいなぁと感じている。でも、今までから、そして今現在も感じている生きにくさを、逆にプラスのものに変えることができるのではないと感じている。私は看護師として生きることをあきらめた。責任をもつことは私にとっては重圧であり、資格を持って働くということはそれだけ私には耐え難い責任をさらに持つことになる。看護助手として働き始め、看護師ほどの責任を負うこともなく、私が自分がほどほどに持てる責任を負うだけですんでいて、それでいて、やりたかった仕事に限りなく近い仕事に就けたのだから…よかったと感じている。看護師になることで承認を求めようとして…そうしているうちに自分が何であるかわからなくなっていた。何であるのかわからなくなった自分はやっぱりしんどかった。その頃に比べるとずいぶん楽になったなぁと感じる。今は痩せることで認められるという誤った認識が私の中に生じていて、誤った認識だなぁと感じつつも、止められずにいる。しんどいんだよ。いい加減に承認を追い求めようとするのをやめたいなぁと思う。…思うのだが、認められることで安心できる自分がいるのだから仕方がない。ありのままの自分でいいんだよといわれても、ありのままの自分は否認してしまう。承認を追い求めてしまう自分がいるんだよということを受け入れることならできるかもしれないけれど…。
幸いにも私は「機能不全」といわれる家庭の中で育ちました。
幸い?何が幸いなの?私は子どもの頃から犠牲になってきたんだよ。…今、生きている分には全然幸いなんかじゃあない。でもね、私が今、「カウンセラーになりたい」という夢を持っているから…今は幸いではないかもしれないけれど、いつかカウンセラーとして動き出すとき、私が苦しんできた経験は必ず生かされるはず。そう考えれば「機能不全」といわれる家族の中で育ったこと、いじめにあって来たこと、挫折を味わってきたことなどは…必ずプラスの力になる。今までの、そして今現在の困難を私はプラスの力に変えることができる。
機能不全の家庭で育ったことというのは変えられない過去。だけど、それをマイナスのものにするか、プラスのものにするか…それはこれから変えていけること。
困難は決してマイナスにしかならないものではないんだよね。
そうだよ…私は困難に感じているものをプラスのものに変えていきたい。

自分の恵みを数えよう

2005年10月20日 | はーとなびげーしょん
Count your blessing.
自分の恵みを数えよう
悪いことばかり考えていたら
悪いことが続くもの
自分の恵みを数えよう
恵みを数えて喜びをかみしめよう
きっと恵みは続いていくよ


幸せだなぁ…良かったなぁ…と思うことを考えているといいことがどんどん続いていくような気がする。
サイアク…運が向いてないなぁ…と嫌なことばかり考えていると嫌なことがどんどん続いていくような気がする。
今までの私は自分を否定するばかりで嫌なことばかり考えていた。嫌なことばかり考えていて、どんどん嫌なことが度重なりますます自分が嫌になって、ますます自分を否定してしまっていた。
私は自分を肯定することができない。いつの間にか自分を認めてあげることができなくなっていた。どうして私は…といつも後ろ向きになっていた。悪循環の連鎖が出来上がっていた。
この悪循環の連鎖から私は離脱しなければならないと思う。

どうすればこの悪循環から抜けられる?
どうやって?
正直になること・心を開いていること・やる気、によって。

私は自分の気持ちに正直にならなければならないと思う。正直になるためには心が開いていないといけないと思う。やる気がなければ何も変えられない。
否定ばかりしている自分から、まず変わっていきたい。
うまくいかないことをまわりから変えてうまくいくようにしようなんて思ったって、変えられないものは変えられない。変えられないものは受け入れるしかないのだから。
まず変えられるもの、それは自分。自分から変えていこう。
自分の考え方から変えていこう。
いいことを考えるようにしよう。
いいことがあったら素直に喜ぼう。
悪いことがあっても否定的にならないで、今度はきっといいことがあると信じよう

愛することと世話すること

2005年10月20日 | はーとなびげーしょん
私は自分を大切にするよりも周りの人の気配りをするほうがラクだと感じています。だから自分の世話ができないうちから「この人にとってどうしてあげるのが一番いいんだろう?」ということばかり考えてしまって自分の体調管理さえできなくなってしまう。自分の身体が「しんどいよぉっ(>_<)」って悲鳴をあげてることにも気づかずに…それでも全力疾走。「しんどいの?」と聞かれてホントに自分でもしんどいって感じてても「ううん、大丈夫だよ~!」とウソをついてしまう。「そうなの…ちょっと疲れてるのかなぁ」なんてホントのことを言っちゃえば気持ちだけでもラクになるのをわかってるのに…ウソをついて元気に振る舞おうとする私がいる。私には「私は私」であることの認識が欠けています。自分のことでもまるで他人のことのように感じている。自分がやりたいからやるのではなく、周りから期待されているからやるのであって、やらなくちゃいけないからやるのであって…自分からやりたいと思ってやっていることなどないのではないか、と感じています。私は私が何をしたいのかさえわからないでいる。私がしなくちゃいけないと思っているから私はやらされている。私が周囲から期待を受けていると感じているから私はやらされている。前者にある私と後者にある私は同じ私であるはずなのに、私の中ではまるっきり別人のような感じがする。常に「させられている」感じがするのです。そんな私だから、常に私に何かをさせようとしている私を愛せるわけがない。自分がキライだから自分の心の悲鳴に耳を傾けるはずがない。そして体調を崩したり、失敗をやらかして…自己嫌悪。ますます自分がキライになる。そういう悪循環。自分を愛して自分の世話ができないうちから他人の世話をしようなんて無理な話じゃないのか…と思う。でも私は「私と同じ苦しみを感じる人が一人でも少なくなりますように…」と小学生の頃からずっと思っていた。いじめにも耐えてきた。私が狙われていればほかの人の安全は守られると私を犠牲にしてでもほかの人を守ろうとしてきた。援助職につこうとしたのは今でもその思いがあるからだと思う。いじめにあっていても…本当はつらくて苦しいはずなのに私は耐えることしか知らなかった。つらいんだよ…苦しいんだよ…って悲鳴をあげることもできなかった。私さえ我慢すればみんなが仲良くできるのだと信じていた。逃げ出すこともできなかった。逃げ出して自分を守るということもできなかった。逃げ出すことはいじめっこに負けることだと私は思っていた。本当は違う。逃げ出せなかったのは私が私に「逃げ出したらおまえの負けになるんだぞ!」と脅しをかけていたからだ。私自身もまた私を苛めていたいじめっこだったのだ。私はいじめられっこだった。そして同時に私を苛めるいじめっこでもあったのだ。逃げ出したかった。逃げるなと脅迫している私から逃げ出したかった。それが私の本音だと思う。誰よりも私を苛めていたのはまぎれもないこの私だと思う。
私は今も自分を苛め続けている。もう苛めるのはやめよう…やめられるように努力しよう。自分を愛せるようにしよう。自分を愛して、まずは自分の世話をしてあげよう。

愛と支配について

2005年10月20日 | はーとなびげーしょん
私は「愛」と言う名の「支配」が存在していると思う。
「あなたのためを思って言っているのよ」と子供に強要する母親がいる。母親は子供のことを思っていっているつもりだろう。愛しているからこそ言っているつもりなんだろう。でも、もう一度この言葉の意味を考えてみたいと思う。母親は子供にこうあってほしいと思うからこそ言っているのではないだろうか。「あなたのため」ではない。「愛している」からでもない。母親は母親の欲求を満たす子供になってほしいからこそ「あなたのため」と言って子供に要求しているのではないだろうかと思う。相手のために良かれと思っていっているのならば「あなたのためを思って言っている」ではない。「こうしたほうがあなたにとっていいのではないかなと思う」であるほうが私は本当の愛情のように感じる。「あなたのために言っている」はすでに押し付けであると思う。愛情に見せかけた支配ではないかと…
私たち人間は一人では生きていくことができない。いつも誰かに依存し、依存されながら生きている。その中で愛という名の支配をまったく受けることなく、また支配することなく生きていくことは不可能ではないかと思う。しかし、大人になるにるれて、私たちは私が思うように自らの意思で生きていくことができるようになる。幼い子供たちは親がいなければ生きてはいけない。生きていく力がない。どんなに親に縛られていて苦しい思いをしていても、頼れるのは親しかいない。親に見捨てられてしまったら自分は生きてはいけないのだ。子供たちは親に見捨てられないように、生きていかなければならない。
私はいい子でいなければ親には愛してもらえないと言う気持ちを持つようになっていた。もちろん自分がそう思っていたわけではない。心のどこかでそう思い込んでいた。親に愛してもらうにはいい子でいることが当たり前だった。言うことをよく聞く子…一生懸命頑張る子…親に迷惑をかけないおとなしい子…大人たちはそういう子はいい子だと誉めていた。いい子になれば愛されると子供たちは信じ、親に愛される子になっていただけなのに。
本当はあんなこともこんなこともいろいろしたかった。怒られたっていいじゃないの。けれども、見捨てられてしまうのが怖かった。見捨てられてしまえば生きていけないことを知っていたからだ。
大人たちは愛という名の支配によって子供たちを縛り付けていた。子供たちは大人の欲求こそが自分の欲求であると感じるとようになった。そこに自分の意思はない。そうしているうちに自分が何を感じているのかさえわからなくなってしまった。
今、私は自分が何を感じているのかがわからない。
楽しいと思っているのだろうか、苦しいと思っているのだろうか…
本当のことを言ったほうが楽なときでも、相手の期待に応えようと嘘をついてしまっている自分がいる。
本当はしんどくてどうしようもないとき…やっぱり身体はしんどいと信号を出していたに違いない。「どうしたの?しんどい?」と聞かれてしまう。本当はとんでもなく疲れが襲っていてだるくて仕方がないのに「ううん、大丈夫だよ!」と返事してしまう自分がいる。
それが相手の望んでいる答えだと私は無意識のうちに反応して返してしまっていたのだ。
「言いたいことがあるなら言えばいいんだよ」と言われて、本当は言いたいことがあった。だけど私は「言いたいこと」はあるけれど「自分が何を言いたいのか」がわからなかった。素直に「何か言いたいと思っている自分はいるんだけど、自分が何を感じているのかがわからない」のだと言えばよかった。だけど、言いたいことがわからなかったために、それで相手に迷惑をかけてしまうのではないかという不安がよぎり、私は何も言えなくなってしまった。
苦しい。しんどい。
愛という名の支配を受けてきた私たちは相手の顔色を伺いながらいつもびくびくしながら生きている…そんな気がする。