厚木福音自由教会

神奈川県厚木市にあるキリスト教会のホームページです。

4月10日 聖日礼拝

2016-04-10 10:30:31 | 4.聖日礼拝メッセージ

パウロがローマにある教会に伝えたかったこと
ローマ 1:8〜17


皆さん、「福音」と聞いて心を躍らせたのはいつの事ですか?最近の信仰生活は楽しいですか?福音とは神からの良き知らせの事です。8節に「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」とあるように、そこから生まれる喜びは噂となって全世界に広がっていくほどでした。私たちが救われた時、その喜びに満ち溢れるあまりに、私たちの身近にいる人たちから「最近いいことあったの?最近やけに幸せそうだね。」などと声をかけられましたか?自分の行いを見る他の人の目にも、「この人何かいつもと違うな」と思わせるような喜びが心の中にあったでしょうか?この救いの恵みは、今も昔も変わりません‼

人は自然のままに生きていると神様から離れる習性があります。ですから救われていても、そのままでいると救いの喜びや情熱が消えていきます。普段から御言葉を読む理由は、主から離れないようにするためです。主は時折、私たちを荒野のような苦しみにあわせ、人の弱さをあえて見つめさせ、罪深さに気付かせ、神の救いをどれだけ切実に求める必要があるのかを教えるのです。

皆さんは朝起きて最初に何を考えますか?最初に思う事が主の事なのかそれとも世の事なのか、これによって自分が今、主の方に向かっているのかあるいは罪の方に向かっているのかが分かります。

最初に救われた時の事を思い出し、主の恵みの道から離れないでください‼


4月3日 聖日礼拝

2016-04-03 10:30:26 | 4.聖日礼拝メッセージ

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には
マタイ18:18-20


ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)
このみことばからわかるように恵まれた信仰生活は神の家族の協力による賜物であり、一人ですることはできません。どんなに力がある人でも、人生には何らかの障害が必ず生じます。人は一人では生きていけません。

二人でも三人でもイエス様の名において集まる所にはイエス・キリストがともいてくださいます。日々、イエス・キリストとともにある生活は恵みであり祝福です。
地上にあるあらゆるものは、お互いに益になるように神の手によって造られました。たとえ違う生き方をしている人であろうとも、その人を広い心で受け入れることは必ず益になります。

信仰生活は愛の実践です。新年度もキリストとともにある生活を志しましょう。

3月6日 聖日礼拝

2016-03-06 10:30:31 | 4.聖日礼拝メッセージ
人は新生しなければ神の国に入れません
ヨハネ3:1-8

今回の箇所はパリサイ人のニコデモが、夜にイエス様を訪ねて来るシーンから始まります。このニコデモは、胎児の時から聖書に慣れ親しんだユダヤ人の指導者で、聖書によく精通し、社会的にも認められていた人です。ところが彼はイエス様を「わが主」ではなく「先生」と呼びました。ニコデモは信仰に関して闇に覆われ、知るべきこと・見るべきことがわからず、救い主として来られたイエス様を預言者として扱ったのです。

ニコデモに対しイエス様は次にように言います。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
「新生」についてイエス様は、 ヨハネ3:12 では、心が生み変えられなければ真理のみことばを理解することはできない、ヨハネ3:8では、人の新生の瞬間を目にすることはできないが、その人の考え方や生き方の変化に確かに現れる と語っています。

新生した人は次のような人です。
1 イエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れ、告白する人。神様を愛しているならば、たとえ信じられないみことばがあっても、神様との交わりが不足しているだけで、救いに関して新生しています。(Ⅰヨハネ5:1、Ⅰコリント11:32)
2 自分の罪を悔い改めた人。罪の意識は、神様に対する思いであることが重要です。良心の呵責とは違います。(ヨハネ3:5)
3 真理を行う人。完璧でなければならないというわけではありません。真理を行いたいと願い努力することが大切です。(Ⅰヨハネ3:21)

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5より)
「天の父が、求める人たちにどうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13より)

新生は人の行いによるのではなく、求める者に与えられる神の恵みです。聖霊に満たされ、日々新たにされることを祈り求めましょう。

2月14日 聖日礼拝

2016-02-14 10:30:37 | 4.聖日礼拝メッセージ

イエスが40日40夜の断食の後に受けられた悪魔の試練
マタイ4:1~11


問題が起きたら皆さんはどうしますか。現代人は問題が起こると考えてもわからないので、考えないという選択をする人が多いようです。これは問題の解決には決してならず、物事を考えないと肉の方向に引きずられ、負の連鎖となってしまいます。負の連鎖を断ち切るには、真理を行うしか方法はありません。
その真理とは、出来る限りの事を精一杯やるという事です。その上で限界に来た時イエス様にゆだねることです。
無理やり論理にこじつけて理解するのではなく、ゆだねるのが信仰的です。
その答えは私たちが考える、完璧で論理的な答えではないですが、心に平安があります。これは祈る多くの人が今まで歴史を通じて経験してきた内容です。これによって喜びをもって生き、人生に対する確かなる確信を持つのです。私たちの心を言葉で表現することはできないですが、確かな希望あります。

なぜイエス様が、40日40夜の断食をしたのか。それは人間が肉体的に極限に追い込まれると、その本質が現れるからです。
40日40夜断食した後に人は何を覚えますか。食べ物でしょう。そしてサタンは人間の心理を1番よく知っているので、その心理を利用してつまずかせるのです。
マタイ4章1~2節で「この石をパンに変えて食べなさい」あなたが神の子ならできるはずだと誘惑してきます。それに対しイエス様はみことばをもってサタンに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と答えるのです。イエス様は楽な状況でこの答えを返しているのではありません。ただみことばに沿って答えているのです。これがイエス様の本質でありイエス様はみことばそのものです。

次にサタンは、イエス様を聖なる都に連れてきます。サタンはみことばを利用して6節で「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。神は御使たちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」と書いてあると言うのです。そこでイエス様は7節で「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると、ここでもイエス様は極限の状態であったにも関わらず出てくるのは真理のみことばです。

最後にサタンは8~9節で「この世のすべての国々と栄華を見せて、もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と嘘を言うのですが、これがサタンの一番言いたかった事です。サタンは巧妙な嘘をついてきます。作られたものはすべて神のものであり、サタンはそれを嘘をついて奪ったのです。確かに今、世の栄誉や栄華はサタンのうちにあるように見えるかもしれませんが、それは本来彼のものではないので、与えるというのは嘘です。
イエス様はその嘘を見抜かれました。
このような嘘は現代社会に広がっています。このような嘘に引っかかっていませんか?神でなく、本来の所有者でないものを拝んでそれを得ようとしていないですか?それは絶対に自分の手には入りません。世の富の本当の持ち主は神様であり、神様に仕えることを第一にしなければ本当の意味で自分のものにすることはできません。
そしてイエス様は10節で、「天地を作られた神だけを拝み神にだけ仕えよと聖書に書いてある」と、最後もやはりみことばで返していますが、今私たちの信仰人生はどうですか?イエス様はひとつの模範として、本当の問題の解決は主のうちに、みことばのうちにあるという模範を示しているのです。
わたしたちは永遠の命を本当に求めているでしょうか?地上にあって一時的な楽しみに心を奪われていないでしょうか。それは本当に私たちにとって幸せですか?偽の所有者から与えられたからと言って本当にその所有者になれますか?
人生の究極的な目的は永遠の御国です。それを掴むには本来定められたお方に従う事です。永遠の命の望みが私たちのうちに正しくあるなら、それに向かって歩んでいるでしょうか?
足元をもう一度見つめ直してみましょう。もし永遠のいのちからずれているなら、必ずあとになって主の御前にまた改めなければならず、そこから作り直すのは簡単ではありません。ですから、特に青年たちはこれを曖昧にせず、また無駄な時間を使わず、若いうちからしっかりと主の定められた道に入り、日々みことばに沿って歩み、みことばによって固く立ってください!


2月7日 聖日礼拝

2016-02-07 10:30:32 | 4.聖日礼拝メッセージ
みことばを守る者に祝福があります
申命記29:2-9



私たちの信仰生活における究極的な目的とはいったい何でしょうか。それは祝福された人生、すなわち幸せな人生、恵まれた人生、喜びに満ち溢れた人生です。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:27-28)

ここには神が私たち人間の第一の始祖であるアダムとエバを創造した時のことについて記されています。このみことばにから、祝福は人間の創造の目的であり、私たちの人生の目的であるということがわかります。
“生めよ”とは霊的充実による成長であり、“ふえよ”とは子孫を残すことです。また“地を従えよ”“支配せよ”とは、神の代理として神の知恵によってよく管理せよという意味です。これらのみことばは“祝福”のことばとして語られています。
創世記9:1-2を見ると、アダムとエバに語られたこの祝福のみことばは、私たちの第二の始祖であるノアとその息子たちにも語られています。

あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。(申命記29:9)

あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。(ヨハネ13:17)

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です(ヤコブ4:17)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

これらのみことばからわかるように、神のみこころである真理のみことばに従って生きる時に、私たちは神様から祝福をいただくことができるのであり、ただ主のみこころを知っているだけでは不十分です。神様も、私たちが日々みことばを実践し、祝福されることを望んでおられます。