第4章 朝廷はなぜ東北を支配しようとしたのか
さて、ではいったいなぜ当時の朝廷は蝦夷支配に躍起になったのでしょうか。理由はいろいろ考えられますが、先に結論から言いますと、朝廷からすると当時の東北というのは「恐ろしくも、また魅力的な土地だった」ということですね。
まずは「恐ろしい」という点です。東北は、奈良や京都の都から見ると北東つまり丑寅(うしとら)の鬼門の方角にあって、中国の陰陽道でいう忌み嫌う、縁起の悪い方角にありました。今から考えたら何ともバカバカしい話ですが、当時の人達、特に貴族らはこういうことにとても敏感でした。ですから例えば京都の比叡山延暦寺も、北東つまり鬼門の方角にいる蝦夷から都を守るという役割がありましたし、それから東京の上野の寛永寺というお寺も江戸城の北東方向にあって、鬼門の守護寺として建てたとも言われています。鬼門の方角に当たる地域に住む蝦夷というのはソラ恐ろしい鬼のような人間だから、とにかく撃て!生かしとったらアカン!としたわけですね。
次に「魅力的な土地」という点です。ここでは魅力的なことを3点あげます。1つ目はさっきも言いましたが、「日高見の土地は肥沃で広大である」「胆沢の土地は水陸万頃だ」と言ってましたね。都から遠く離れた辺境の地ではあるけども、肥沃で広大な土地が広がっている、支配する価値が十分にある、と見たわけです。当時の歴史文書では「蝦夷というのは、遅れた野蛮な土地」という見方なんですが、一方ではそれほど遅れた地域でもなかったのではないかというのがありますね。東北の古代史で、日本の考古学会に大きな衝撃を与えたのが、青森の三内丸山遺跡の発掘でした。この発掘はそれまでの縄文時代のイメージを大きく塗り替える大事件でしたね。この遺跡というのは縄文前期から中期、つまり紀元前3500年から同2000年(今から5500年~4000年前)頃に営まれていた巨大集落跡です。最盛期にはなんと最大で500人が暮らし、ヒョウタンやゴボウ・マメなどの栽培植物が出土し、この頃すでに計画的に栽培がおこなわれていた可能性が高いということが明らかになって、西日本に負けず劣らずこの寒い北国でもすでに高度な文化が発達していたことが証明されたのです。
魅力的な2つ目は、優秀な馬の産地だという点です。岩手という土地は「チャグチャグ馬っこ」や「曲がり家」等もあり、馬にまつわる話が本当に多いです。『扶桑略記』という歴史書、これは比叡山のお坊さんが書いた、っていうかまとめた記録なんですけど、それの718年(養老2年)のところに、奈良時代の初めに「出羽と渡嶋の蝦夷の87人位が、朝廷に馬1000頭を献上した」という話が出てきます。1000頭は結構な数ですよ。勿論、農耕馬や軍馬に使ったんでしょうが、当時すでに馬の大量生産、大量放牧が行なわれ、それこそ商業的経営が行なわれていた可能性が極めて高いと言われているんですね。
3つ目は、金の産出の話です。749年(天平21年)に、陸奥国の小田郡、今の宮城県の多賀城の北方、涌谷の黄金迫という所で日本最初の金の産出があり、早速朝廷に献上されました。それまで金というのは唐や百済から輸入するだけで国産はありませんでしたから、当時は大仏建立もあり朝廷はすこぶる喜び、ますます陸奥国の支配に躍起となっていくわけですね。当時地方官で後に陸奥国の按察使(あぜち)鎮守府将軍に任じられた歌人の大伴家持(やかもち)は「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」という歌を詠んでいます。それ以降、陸奥国とりわけ宮城県北部から岩手県南部にかけての一帯は各地で黄金の産出が続き、これがまた後の藤原氏による平泉黄金文化を支えることにもなったのです。岩手の民謡の『南部牛追い歌』にこんなんがありますよ。″田舎なれどもサーハーエー、南部の国はサー、西も東もサーハーエー、金(かね)の山のコーラサンサーエー″昔は西も東も金の山だったんですね。なんかこう、のんび~りした歌でね、まあ牛追いの歌ですからね。なかなか情緒ある民謡ですよ。私好きですね、こうゆうの。
こうして朝廷は、寒さの厳しい「辺境地」とはいえ、「水陸万頃」の農耕地が広大に広がり、馬が大量に放牧され、そしてまた金が豊富に産出する陸奥国支配の攻略を強力に推し進めていきました。
こうした理由の他にも、だいたい国家とか権力者というのは、周辺に勢力を伸ばす、支配拡大する習性を持っていますよね。それはもう世界の歴史を見ても明らかです。世界史なんてのは、戦争を通じて支配・拡大・衰退、そしてまた別の王朝や権力者が出てきて、また支配・拡大・衰退する、もうこれの繰り返しの歴史ですね。
(研究員:高橋 記)
さて、ではいったいなぜ当時の朝廷は蝦夷支配に躍起になったのでしょうか。理由はいろいろ考えられますが、先に結論から言いますと、朝廷からすると当時の東北というのは「恐ろしくも、また魅力的な土地だった」ということですね。
まずは「恐ろしい」という点です。東北は、奈良や京都の都から見ると北東つまり丑寅(うしとら)の鬼門の方角にあって、中国の陰陽道でいう忌み嫌う、縁起の悪い方角にありました。今から考えたら何ともバカバカしい話ですが、当時の人達、特に貴族らはこういうことにとても敏感でした。ですから例えば京都の比叡山延暦寺も、北東つまり鬼門の方角にいる蝦夷から都を守るという役割がありましたし、それから東京の上野の寛永寺というお寺も江戸城の北東方向にあって、鬼門の守護寺として建てたとも言われています。鬼門の方角に当たる地域に住む蝦夷というのはソラ恐ろしい鬼のような人間だから、とにかく撃て!生かしとったらアカン!としたわけですね。
次に「魅力的な土地」という点です。ここでは魅力的なことを3点あげます。1つ目はさっきも言いましたが、「日高見の土地は肥沃で広大である」「胆沢の土地は水陸万頃だ」と言ってましたね。都から遠く離れた辺境の地ではあるけども、肥沃で広大な土地が広がっている、支配する価値が十分にある、と見たわけです。当時の歴史文書では「蝦夷というのは、遅れた野蛮な土地」という見方なんですが、一方ではそれほど遅れた地域でもなかったのではないかというのがありますね。東北の古代史で、日本の考古学会に大きな衝撃を与えたのが、青森の三内丸山遺跡の発掘でした。この発掘はそれまでの縄文時代のイメージを大きく塗り替える大事件でしたね。この遺跡というのは縄文前期から中期、つまり紀元前3500年から同2000年(今から5500年~4000年前)頃に営まれていた巨大集落跡です。最盛期にはなんと最大で500人が暮らし、ヒョウタンやゴボウ・マメなどの栽培植物が出土し、この頃すでに計画的に栽培がおこなわれていた可能性が高いということが明らかになって、西日本に負けず劣らずこの寒い北国でもすでに高度な文化が発達していたことが証明されたのです。
魅力的な2つ目は、優秀な馬の産地だという点です。岩手という土地は「チャグチャグ馬っこ」や「曲がり家」等もあり、馬にまつわる話が本当に多いです。『扶桑略記』という歴史書、これは比叡山のお坊さんが書いた、っていうかまとめた記録なんですけど、それの718年(養老2年)のところに、奈良時代の初めに「出羽と渡嶋の蝦夷の87人位が、朝廷に馬1000頭を献上した」という話が出てきます。1000頭は結構な数ですよ。勿論、農耕馬や軍馬に使ったんでしょうが、当時すでに馬の大量生産、大量放牧が行なわれ、それこそ商業的経営が行なわれていた可能性が極めて高いと言われているんですね。
3つ目は、金の産出の話です。749年(天平21年)に、陸奥国の小田郡、今の宮城県の多賀城の北方、涌谷の黄金迫という所で日本最初の金の産出があり、早速朝廷に献上されました。それまで金というのは唐や百済から輸入するだけで国産はありませんでしたから、当時は大仏建立もあり朝廷はすこぶる喜び、ますます陸奥国の支配に躍起となっていくわけですね。当時地方官で後に陸奥国の按察使(あぜち)鎮守府将軍に任じられた歌人の大伴家持(やかもち)は「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」という歌を詠んでいます。それ以降、陸奥国とりわけ宮城県北部から岩手県南部にかけての一帯は各地で黄金の産出が続き、これがまた後の藤原氏による平泉黄金文化を支えることにもなったのです。岩手の民謡の『南部牛追い歌』にこんなんがありますよ。″田舎なれどもサーハーエー、南部の国はサー、西も東もサーハーエー、金(かね)の山のコーラサンサーエー″昔は西も東も金の山だったんですね。なんかこう、のんび~りした歌でね、まあ牛追いの歌ですからね。なかなか情緒ある民謡ですよ。私好きですね、こうゆうの。
こうして朝廷は、寒さの厳しい「辺境地」とはいえ、「水陸万頃」の農耕地が広大に広がり、馬が大量に放牧され、そしてまた金が豊富に産出する陸奥国支配の攻略を強力に推し進めていきました。
こうした理由の他にも、だいたい国家とか権力者というのは、周辺に勢力を伸ばす、支配拡大する習性を持っていますよね。それはもう世界の歴史を見ても明らかです。世界史なんてのは、戦争を通じて支配・拡大・衰退、そしてまた別の王朝や権力者が出てきて、また支配・拡大・衰退する、もうこれの繰り返しの歴史ですね。
(研究員:高橋 記)