研究員便り

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アテルイ・モレの物語(第4章)

2017年09月25日 07時47分58秒 | お知らせ
第4章 朝廷はなぜ東北を支配しようとしたのか 
さて、ではいったいなぜ当時の朝廷は蝦夷支配に躍起になったのでしょうか。理由はいろいろ考えられますが、先に結論から言いますと、朝廷からすると当時の東北というのは「恐ろしくも、また魅力的な土地だった」ということですね。
 まずは「恐ろしい」という点です。東北は、奈良や京都の都から見ると北東つまり丑寅(うしとら)の鬼門の方角にあって、中国の陰陽道でいう忌み嫌う、縁起の悪い方角にありました。今から考えたら何ともバカバカしい話ですが、当時の人達、特に貴族らはこういうことにとても敏感でした。ですから例えば京都の比叡山延暦寺も、北東つまり鬼門の方角にいる蝦夷から都を守るという役割がありましたし、それから東京の上野の寛永寺というお寺も江戸城の北東方向にあって、鬼門の守護寺として建てたとも言われています。鬼門の方角に当たる地域に住む蝦夷というのはソラ恐ろしい鬼のような人間だから、とにかく撃て!生かしとったらアカン!としたわけですね。
 次に「魅力的な土地」という点です。ここでは魅力的なことを3点あげます。1つ目はさっきも言いましたが、「日高見の土地は肥沃で広大である」「胆沢の土地は水陸万頃だ」と言ってましたね。都から遠く離れた辺境の地ではあるけども、肥沃で広大な土地が広がっている、支配する価値が十分にある、と見たわけです。当時の歴史文書では「蝦夷というのは、遅れた野蛮な土地」という見方なんですが、一方ではそれほど遅れた地域でもなかったのではないかというのがありますね。東北の古代史で、日本の考古学会に大きな衝撃を与えたのが、青森の三内丸山遺跡の発掘でした。この発掘はそれまでの縄文時代のイメージを大きく塗り替える大事件でしたね。この遺跡というのは縄文前期から中期、つまり紀元前3500年から同2000年(今から5500年~4000年前)頃に営まれていた巨大集落跡です。最盛期にはなんと最大で500人が暮らし、ヒョウタンやゴボウ・マメなどの栽培植物が出土し、この頃すでに計画的に栽培がおこなわれていた可能性が高いということが明らかになって、西日本に負けず劣らずこの寒い北国でもすでに高度な文化が発達していたことが証明されたのです。
 魅力的な2つ目は、優秀な馬の産地だという点です。岩手という土地は「チャグチャグ馬っこ」や「曲がり家」等もあり、馬にまつわる話が本当に多いです。『扶桑略記』という歴史書、これは比叡山のお坊さんが書いた、っていうかまとめた記録なんですけど、それの718年(養老2年)のところに、奈良時代の初めに「出羽と渡嶋の蝦夷の87人位が、朝廷に馬1000頭を献上した」という話が出てきます。1000頭は結構な数ですよ。勿論、農耕馬や軍馬に使ったんでしょうが、当時すでに馬の大量生産、大量放牧が行なわれ、それこそ商業的経営が行なわれていた可能性が極めて高いと言われているんですね。
 3つ目は、金の産出の話です。749年(天平21年)に、陸奥国の小田郡、今の宮城県の多賀城の北方、涌谷の黄金迫という所で日本最初の金の産出があり、早速朝廷に献上されました。それまで金というのは唐や百済から輸入するだけで国産はありませんでしたから、当時は大仏建立もあり朝廷はすこぶる喜び、ますます陸奥国の支配に躍起となっていくわけですね。当時地方官で後に陸奥国の按察使(あぜち)鎮守府将軍に任じられた歌人の大伴家持(やかもち)は「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」という歌を詠んでいます。それ以降、陸奥国とりわけ宮城県北部から岩手県南部にかけての一帯は各地で黄金の産出が続き、これがまた後の藤原氏による平泉黄金文化を支えることにもなったのです。岩手の民謡の『南部牛追い歌』にこんなんがありますよ。″田舎なれどもサーハーエー、南部の国はサー、西も東もサーハーエー、金(かね)の山のコーラサンサーエー″昔は西も東も金の山だったんですね。なんかこう、のんび~りした歌でね、まあ牛追いの歌ですからね。なかなか情緒ある民謡ですよ。私好きですね、こうゆうの。
 こうして朝廷は、寒さの厳しい「辺境地」とはいえ、「水陸万頃」の農耕地が広大に広がり、馬が大量に放牧され、そしてまた金が豊富に産出する陸奥国支配の攻略を強力に推し進めていきました。
 こうした理由の他にも、だいたい国家とか権力者というのは、周辺に勢力を伸ばす、支配拡大する習性を持っていますよね。それはもう世界の歴史を見ても明らかです。世界史なんてのは、戦争を通じて支配・拡大・衰退、そしてまた別の王朝や権力者が出てきて、また支配・拡大・衰退する、もうこれの繰り返しの歴史ですね。
(研究員:高橋 記)

アテルイ・モレの物語

2017年09月18日 09時36分24秒 | お知らせ
第3章 「日本書紀」にみるエミシの人間像
ではいったい当時のエミシはどんな人間で、どういった暮らしをしていたのかです。こういう話でよく登場するのが先ほどの『日本書紀』の景行天皇紀の文です。27年の条に「東夷の中に日高見国有り。その国の人は男女とも髪を結い分け、入れ墨を施し、勇敢で強い。これをすべて蝦夷という。」とあり、また40年の条には、東夷がしばしば反乱を起こすため、天皇が役人を集めて述べています。「いま東国に暴れる神が多く、また蝦夷がすべて背いて人民を苦しめている。誰を派遣してその反乱を鎮めさせようか」と問い、景行天皇は熊襲(くまそ)を平定したばかりの日本武尊(やまとたけるのみこと)を征夷の将軍に任じて蝦夷について次のように述べています。「東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず、村に長なく各境界を犯し争い、山には邪神、野には鬼がいて往来をふせぐため、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも蝦夷は特に手強い。男女親子の区別もなく、冬は穴に寝て、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るのは飛ぶ禽(とり)のようであり、草原を走るのは獣のようだという。恩はすぐに忘れるが怨みは必ず報いるという。矢を束ねた髪の中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔(みのり)の時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草に隠れ、追えば山に入る。こういうことだから往古この方、いまだに王下に従ったことがない」ってんですね。『日本書紀』はこんな調子でず~と書いてますからね、まあ読んでると結構面白いですよ。
また斉明天皇5年(659年)の条にも「蝦夷男女2名を遣唐使と共に唐の天子にお目にかける」という『伊吉博徳の文』(日誌)というのがあって、こんなやり取りが行われます。天子とは当時の中国初唐の高宗と呼ばれた皇帝のことです。天子「蝦夷の国はいずれの方角にあるか」、使者「国の東北の方角にあります」、天子「蝦夷は何種類あるか」、使者「三種あります。遠い所の者を都加留(つがる)(津軽)と名付け、次の者を麁(あら)蝦夷と名付け、一番近い者を熟(にぎ)蝦夷と名付けております。今ここにおりますのは熟蝦夷です。毎年朝廷に入貢します」、天子「その国には五穀があるか」、使者「ありません。肉を食って生活しています」、天子「国に家屋はあるか」、使者「ありません。深山の樹の下に住んでいます」、天子「朕は、蝦夷の異様な顔や体つきを見て大変奇怪に感じたぞ、云々」とあります。最後の部分は面白いですね。唐の皇帝も蝦夷に対しては興味津々でいたく関心を持ったことが分かりますよね。で実は、この話は唐の歴史書『通典』というこの本にも出てくるんですね。「大唐の顕慶4年」西暦659年ですが、「10月に倭国の使いを伴って蝦夷入朝す」とあるから、659年に蝦夷が唐に渡ったというのは、これは事実だと思います。
『日本書紀』やそれに続く『続日本紀』という書物は、当時の朝廷、国の正史ですから、「辺境・異境の地」にあった蝦夷についてはかなり偏見に満ちた、差別的な見方をしていますよね。確かに歩けば何日も何日もかかる遠い遠い異国の地ですから、情報も自ずと限られますよね。恐らくは言葉違いや風習・生活習慣がこっちの西国とはかなり違っていたものと思われますね。
しかし近年、こうした歴史書による文献一辺倒ではない独自の東北古代史の研究や、考古学的な研究の進展もかなり進みつつあり、次第に古代東北の様子、エミシの実相なども明らかにされつつあります。が、それはまた別の機会にゆずりましょう。

次回 9月25日(月)掲載予定 <第4章 朝廷はなぜ東北を支配しようとしたのか> 
ご期待ください。

アテルイ・モレ物語(第2章)

2017年09月11日 10時20分43秒 | お知らせ
第2章 蝦夷の土地は肥沃で広大、胆沢は水陸万(ばん)頃(けい)の地
 歴史の話をする前に、まずこの東北・蝦夷の土地についての話です。
アテルイやモレをはじめ、蝦夷の人々が生きた東北のこの土地は、古来より海の幸、山の幸、そして川の幸や里の幸がとても豊かな、まさに豊饒の地が広がっていました。
東北の大地の真ん中を1500m級の奥羽山脈が、ちょうど背骨のように南北に連なっています。その東側には北上高地という1000mかそれ以下の低い山々が広がります。この奥羽山脈と北上高地の間には北上川がとうとうと流れ、岩手県から宮城県に流れ注ぎます。ここに北の方からほぼ川に沿って盛岡・花巻・北上・江刺・水沢・一関といった街があって、広い盆地を形成しています。この盆地の広さは、奈良盆地から京阪奈丘陵を抜けて京都盆地に行くより、はるかに広いんです。結構な広さですよ。周りを山に囲まれていて1つの内陸文化圏をつくっているんですね。河川というのが文明や文化の発展に多きな役割を果たしたというのがよく言われますよね。よく歴史でも「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスという人の有名な言葉がありますが、まあこの辺は「北上川の賜物」っていうことができると思います。ですから後でも話をしますが、エゾと言っても決して遅れた土地ではなく、独自の文化が栄えていたと十分に考えられますよね。
蝦夷の土地について述べた記述で最も古い書物はたぶん『日本書紀』の景行天皇27年の条の文章でしょう。武内宿禰(すくね)が東国視察に行って帰った報告に、「東夷の中に日高見国有り。(日高見=北上 ※諸説あり)…(中略)…また土地は肥沃で広大である。よって撃ちて取るべし」とあります。また『続日本紀』の延暦8年(789年)の条にも、「胆沢は水陸万(ばん)頃(けい)、蝦夷存す」と出てきます。水陸万頃とは水が豊富で土地がとても豊かだという意味ですね。「はるばる辺境の地まで行ったんだけど、水陸万頃の地がまだまだ広がってるぞ。そこには蝦夷が住んでいて、これは攻略するにもなかなか手ごわいぞ」と言ってるんですね。この北上川の左岸のすぐ近くに束稲山という600メートルほどの山があります。私の生まれ故郷の背後にある山なんですが、晴れた日には周囲の山々や北上盆地が奥の方までず~と見渡せる実に眺めの素晴らしい所です。「日高見が肥沃で広大」「胆沢は水陸万頃」というのは、恐らくここから眺めた風景を言ったんではないかと思います。後でも言いますが、蝦夷軍にとってもあるいは衣川に1か月も滞留した朝廷軍にとっても、最前線にあるこの小高い山は、お互いに敵陣情報をつかむ際の軍事上の格好のポイントになっただろうと思います。高橋克彦さんの『火炎』という小説でもここは重要な軍事拠点として描かれていますね。
全体的に、周辺を緑豊かな山々に囲まれた、特に北国の盆地というのは、四季を通じて常に水が豊富であり農耕適地な豊かな土地をなす場合が多いですね。確かに北上川流域の岩手県南部一帯は水に関わる地名がとても多いですよ。主な地名だけ見ても黒沢尻(現北上)、江釣子、湯田、胆沢、水沢、江刺、前沢、衣川と、川や「さんずいへん」地名のオンパレードで、続く平泉にも水が付き、さらには磐井、川崎、摺沢、藤沢、花泉と続きます。如何にこの地域が水の豊富な緑豊かな土地であったかがうかがえますね。そしてまた当然今日なお東北有数の穀倉地帯であり、農牧業のたいへん盛んな地域なのです。
それから、この地域には胆沢扇状地というのがありまして、全国的に見てもかなり大規模な広い扇状地が見られます。この扇状地には散村と言われる村落形態が卓越していて、こう屋敷がポツンポツンと等間隔に散らばっていることで有名なんですね。こうした村落形態がいったいどうして発生したのか、その村落景観に最初に注目したのが、実は小川琢治という人です。あのノーベル賞の湯川秀樹博士のお父さんなんですね。当時の京都帝国大学の地質学の先生でしたが地理も教えていました。だいたい日本の大学で一番最初に地理という講義が行なわれたのは、実はこの京大なんですね。明治40年頃のことだったと思います。

△前沢付近の北上盆地、奥から手前に広大な胆沢扇状地が広がる。北上川(写真下)は左方向に流れる。
次回 <第3章「日本書紀」にみるエミシの人間像>    …お楽しみに!

 
(研究員:高橋記)


アテルイ・モレの物語(第1章)

2017年09月06日 13時35分30秒 | お知らせ
第1章 はじめに
 みなさんこんにちは。只今ご紹介いただきました高橋と申します。東北の方からわざわざ関西まで来て高校で歴史や地理なんかを教えてますので、遠い遠いご先祖様の歴史は、蝦夷の末裔としてはしっかり後世に伝えないといかんだろうと、それ位の自覚と誇りをもって取り組まないといけないだろうと思っております。ただ大学の先生みたいに専門に調べたりしていませんので、後で細かいこと質問されても恐らく答えられないと思いますので、その辺はひとつよろしくお願いいたします。
 実は私は、大学のときに地理を専攻していまして、歴史は大事ですし好きなんですけどどうも苦手なんですね。ですから未だにわからんこといっぱいあります。大学時代からこの近くの大阪の大東水害や奈良の大和川流域の水害調査や流路変遷の歴史を調べたりして、現地での報告会や記者会見というのはしたことがあるんですけど、歴史の講演というのは今回(枚方市牧野公民館での講演)が全く初めての経験です。
 今日のタイトルにある「アテルイ・モレ」の名前は、10年か20年前には知っていましたが、恥ずかしながら自分で直接調べて勉強したのは、実は4年ほど前からです。村の歴史をいろいろ調べていて、『町史』などを見ていましたら阿弖流為・母礼の名前が出てくるんですね。で、後で出てくる延暦8年の巣伏の戦いの話が、村の街道筋をず~と通るんですね、家の前を駆け抜けていくわけですよ。「やっ、これはスゴイ!」て、このとき初めて、私の頭の中で阿弖流為・母礼と村の歴史が符合したんです。
 でももうすでにその前から水沢・胆沢地方出身者でつくる関西同郷会の人達が阿弖流為・母礼の顕彰碑を何とか建てようと動いていました。ですから京都の清水寺にあるこの顕彰碑は、熱心に運動されていた関西胆江同郷会の高橋敏男会長(故人)や安倍満穂関西岩手県人会長(故人)をはじめ、穀田恵二衆議院議員や関西に在住する岩手の関係者など、多くの方々の哀願と努力によって建てられたものです。1994年11月6日の建立です。京都では時あたかも平安遷都1200年という記念すべき年でした。
 この大きな石碑の横に「顕彰碑」という小さな説明版がありまして、その説明版には次のように記されています。
 八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為   (アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母禮(モレ)と共に京都に連行された。
 田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇・人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。
 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。
(研究員:高橋記)
 
阿弖流為・母禮之碑