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付録 古代蝦夷関連年表

2017年12月10日 23時25分38秒 | お知らせ
付録            古代蝦夷関連年表
                          ○蝦夷の攻撃  ●朝廷・官軍の攻撃
『日本書紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
景行天皇27年紀 「東夷の中に、日高見国あり。男女共に椎結い身文し、為人勇み悍し……」
景行天皇40年紀 「東夷は識性暴び強し。凌ぎ犯すを宗とす。村に長無く、邑に首勿し……」
斉明天皇5年紀  「蝦夷男女2名遣唐使と共に唐に渡る…云々」の『博徳日誌』が記載

『続日本紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
709(和銅2) 陸奥鎮東将軍に巨勢麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯石湯を任命し、近江・駿河
         甲斐・信濃・上野・越前・越中等から●兵を派遣し、陸奥と越後を討つ。
710(和銅3) 平城遷都
713(和銅6) 陸奥に丹取郡(宮城県北部の大崎平野)を建てる。
715(霊亀元) 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の民千戸を陸奥に移住させる。
         陸奥の蝦夷の請により香河村(不明)と閇村(宮古か)に郡家を建てる。
720(養老4) ○蝦夷が反乱し、按察使上毛野広人を殺す。
724(神亀元) ○海東(太平洋岸)の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。
         多賀城を置き、鎮守府とする。
725(神亀2) 陸奥の蝦夷の捕虜444人を伊予国(四国)に、578人を筑紫(九州)に、
         15人を和泉監(大阪)にそれぞれ配置する。
729(天平元) 陸奥鎮守府と三関(不破・鈴鹿・愛発)の兵士を三等分に評価する。
749(天平21) 陸奥小田郡(宮城県涌谷町)から黄金を献上する。日本最初の黄金産出。
        (大伴家持「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」)
757(天平宝字元)陸奥の桃生、出羽の雄勝に柵戸を配し、桃生城、雄勝城の造営が始まる。
         藤原恵美朝猟が陸奥守となる。               759年完成
762(天平宝字6)陸奥で疫病がはやり、物を恵み与えた。
         乞索児(乞食)100人を陸奥に配置し、土地を与えて定着させる。
763(天平宝字7)陸奥で飢餓があり、物を恵み与えた。
767(神護景雲元)伊治城(宮城県築館町)が約1ヶ月で完成。
769(神護景雲3)浮浪民1000人を桃生城の柵戸に割り当てる。
         浮浪民2500余人を伊治村に配置する。
770(宝亀元) 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇が、徒族を率いて賊地(支配外の蝦夷地)に逃げ、
         使者を送って呼び戻すも帰らず、「同族率いて必ず城柵をを侵す」という。
         そこで、蝦夷出身の近衛中将の道嶋嶋足を送り、虚実を調べ検問させる。
         坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍に任じる。
774(宝亀5) 海東(太平洋沿岸)の○蝦夷が桃生城(宮城県河北町)に侵攻する。
         坂東八国に陸奥侵攻の準備を命じる。
         按察使の大伴駿河麻呂ら●陸奥の遠山村(宮城県登米郡か)を討つ。
775(宝亀6) 陸奥の蝦夷の賊が夏から秋にかけて騒動を起こしたため、田畑が荒廃する。
         出羽国が、蝦夷との戦いのため3年間鎮兵996人を動員要請したので、
         ●相模・武蔵・上野・下野の四国の兵を派遣する。
776(宝亀7) 出羽志波村(岩手県紫波郡か)で、○●賊と官軍が戦う。官軍が不利。
         ●下総・下野・常陸などの騎兵を発動し、これを討つ。
         陸奥などの俘囚(帰順した蝦夷)395人を大宰府管内の諸国に配分する。
         陸奥の官軍3000人を発して、●胆沢(岩手県奥州市)の賊を討つ。
         陸奥の諸郡から、奥地の番兵を募集し定着させ、租税3年を免除する。
777(宝亀8) ●陸奥の官軍が山海の両道(太平洋岸と日本海岸)の蝦夷を討つ。蝦夷
         の投降者が相次ぐ。
         ○出羽志波村の賊が結集して蜂起。●官軍が応戦するも敗れて退却する。
         そこで、近江介佐伯久良麻呂を鎮守府副将軍に任じて●出羽を鎮圧する。
         蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
         出羽鎮圧から12日後、○出羽の蝦夷の賊(志波村か)が反逆する。
         官軍に利なく、兵器の損失がでる。
778(宝亀9) 陸奥・出羽の国司以下、征戦に功ある2267人に叙爵。あらためて
         蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
780(宝亀11)蝦夷の山賊来襲に備え、胆沢獲得のため覚鱉城(岩手県一関付近、同
         衣川付近、前沢付近等々、諸説あり)の構築を示唆する。
         長岡(宮城県大崎市古川長岡)で○●蝦夷の賊と官軍が衝突する。
         ○伊治公呰麻呂が反乱。按察使の紀広純、牡鹿の大領道嶋大楯を殺害。
         ○数日後、賊徒が多賀城を炎上。
         征東大使に藤原継縄(年内に藤原小黒麻呂に交代)を、征東副使に
         大伴益立と紀古佐美を任命する。
781(天応元) 陸奥守に紀古佐美を任命する。
         賊の首領に伊佐西古・諸絞・八十島・乙代の名が登場し、1人千人力という。
783(延暦2) 道嶋嶋足(大楯の叔父か)死去。
         坂東八国に、兵の徴発と訓練強化を勅す。
784(延暦3) 長岡京に遷都。
788(延暦7) 兵糧の運搬、東海道・東山道・坂東の歩兵と騎兵5万2800余名を、多賀城
         に終結させること、国司らに士気を高めるよう勅す。
         征東大使に紀古佐美を任命する。
         天皇、辞見の儀で紀古佐美に対し節刀を授け(全権委任する)「坂東の安危
         はこの一挙にあり、全力を尽くせ」と檄をとばす。
789(延暦8) ●官軍、衣川に1ヶ月滞留。朝廷は「何故進撃しないのか不審に思う」と激怒。
         ●5万の大軍から三隊(前軍・中軍・後軍の各2000)計6000で攻撃。
         中軍・後軍の河東軍計4000で巣伏を衝くが、蝦夷軍の挟撃にあい、前軍
         の2000も攻撃できず大敗。14村800戸を焼き、89人を斬首するも、
         官軍被害は戦死25、矢による負傷245、溺死1036、裸身生還1257
         で、蝦夷軍は総勢1500前後。
         征東将軍紀古佐美が食糧補給困難・征東軍解散等を奏上。朝廷は激怒する。
790(延暦9) 蝦夷侵攻のため坂東諸国に皮の甲や兵糧の糒を、大宰府に鉄冑を準備させる。
         蝦夷侵攻に功ある4140人に叙勲。
791(延暦10)征東大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂・百済王俊哲らを任命する。
 
『日本後記』『日本紀略』より ―――――――――――――――――――――――――――――
794(延暦13)征夷大将軍大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂・百済王俊哲等10万で蝦夷攻略。
         ●副将軍坂上田村麻呂が蝦夷を征す。弟麻呂、斬首457、捕虜150、
         捕馬85、焼落75村。
         平安遷都。
797(延暦16)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命(39歳)
         伊治城を強化。相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・越後・出羽などから
         農民9000人を移住。農業・養蚕の技術者を送り込み、産業開発を奨励。
801(延暦20)●坂上田村麻呂、4万で蝦夷に侵攻する。(戦闘経過は不明)
802(延暦21)坂上田村麻呂を遣わして胆沢城を造営し、鎮守府を多賀城から遷す。駿河・
         甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国の浪人
         4000人を陸奥国胆沢城に送る勅が出される。
         大墓公阿弖流為、盤具公母禮ら、500人を率いて降る。
         大墓公阿弖利為、盤具公母禮らを、河内国杜山にて斬る。
803(延暦22)坂上田村麻呂が志波城を造営。
804(延暦23)征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷侵攻が計画されるが、翌年の徳政論争で中止。
805(延暦24)藤原緒嗣と菅原真道が天下の徳政を論じ、緒嗣の主張通り「軍事(=征夷)
         と造作(=造都)」は中止となる。
806(延暦25)桓武天皇死去(70歳)
811(弘仁2) 坂上田村麻呂、平安京外粟田(現:東山区)にて死去(54歳)
         陸奥国に和我(和賀)・薭縫(稗貫)・斯波(志波)の3郡を置く。

次回掲載予定 英語版(鋭意翻訳中)その後、中国語版(知人の友人に依頼中)
を縮小して掲載の予定。 …ただし掲載日未定
(研究員 高橋正吾)


番外編(又は第14章) まつろわぬ民の抵抗史

2017年12月03日 22時11分08秒 | お知らせ
番外編(又は14章) まつろわぬ民の抵抗史
 東北の中でもとりわけ岩手という土地は、日本の歴史のなかで時代の変わり目、激動の時期になん度か注目すべき舞台として登場することがありました。この奈良から平安時代初期の蝦夷の征討の話だけではありません。その他にも、前九年の役と後三年の役、さらには奥州藤原氏の滅亡、豊臣秀吉による奥州仕置、幕末前夜の蘭学者高野長英の活躍、そして明治維新の際の戊辰戦争での敗北等々もまさにそうでした。
 まずは、前九年の役と後三年の役。安倍頼時という人は北上川流域に広がる奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・志和・岩手)の俘囚の長でしたが、その南に広がる陸奥国司の領分に入って戦いとなりました。そこで政府は源頼義を派遣して出羽国の清原武則に援軍を求め、頼時の子である安倍貞任を厨川の柵に追い詰めて安倍氏を滅ぼしました(これが前九年の役(1051~62年))。これで奥六郡は清原氏の領地となったのですが、今度は清原氏の相続内輪もめに、当時陸奥守であった源義家(頼義の子)が介入して清原氏は滅亡してしまいました(これが後三年の役(1083~87))。この戦いを通して、いよいよ源氏は東国武士団の棟梁となって大きな勢力を持つようになったのです。
 この後三年の役で生き残ったのが、安倍・清原両家に縁のある藤原清衡で、後に本拠を平泉におき基衡・秀衡と3代にわたって藤原文化の栄華を誇ることになります。ところが4代目の泰衡の時に、あの源頼朝の率いる鎌倉勢の進撃を受けて藤原氏と平泉文化は滅亡してしまいました。ちなみに私は高校時代以来、平泉に近い地元出身ながらこの清衡・基衡・秀衡・泰衡の順番がどうしても覚えられずにいたのですが、勤めていた高校の社会科の先輩から「それはな、清・基・秀・泰やからキ・モ・ヒ・ヤって覚えんねん。どや?“肝っ玉が冷”ってしたろ!」って教えられました。はい、余談でした。
 それから約400年後の1590年(天正18)、豊臣秀吉は全国統一の総仕上げとして奥羽地方の支配に乗り出し、みずからの命に従わなかった諸大名の領地を没収していきました(奥州仕置)。これに対して葛西・大崎・和賀・稗貫らの旧臣や農民らが、旧領回復を目指して蜂起するも、ついに翌年九戸政実も南部信直と組んだ豊臣・徳川等の連合軍に降伏してしまいました。
 高野長英という人は水沢出身の江戸末期の蘭学者です。長崎の鳴滝塾でシ-ボルトに西洋医学を学んだ医者ですね。当時の鎖国体制をとる幕府を批判したために御用となったのですが、牢を抜け出して各地を転々と逃げ回るんですね。最後は捕まりますが、これをモデルにした小説に吉村昭さんの『長英逃亡』という小説があります。一度読んでみる価値ありますね。水沢に高野長英記念館という施設もありますから、是非訪れることをお勧めします。この高野長英の親戚に後の後藤新平や椎名悦三郎という政治家が出ます。後藤新平さんの孫に当たるのが哲学者の鶴見俊輔さんですね。ハーバード大学を出た反骨精神たくましいい先生でした。長らく京都の岩倉という私が学生時代に下宿していたすぐ近くに住んでおられたので、数年前に一度お目にかかろうと思い、彼の著作物をいっぱい読んだのですが、結局お会いできずに2015年7月にお亡くなりになりました。朝日選書に『高野長英』という本がありますよ。高野長運さんの『高野長英伝』も読みごたえがあります。
 奥州仕置からさらに280年、1868年(明治元)に戊辰戦争がおこると、盛岡・一関を含めた東北諸藩は奥羽越列藩同盟に組して、薩長中心の新政府軍に抵抗しましたが、いずれも敗北を喫します。これも余談になりますが、当時一関藩の義民数名が、真っ先に裏切った秋田藩に対して殴り込みのためにはるばる栗駒峠を超えて秋田の刈和野方面に侵攻するのですが、史料を読みながらその遠征ルートを2万5千の地形図で痕跡を辿ったことがあります。その数名の中にいた熊谷某という人が、な・な・なんと、私が勤めていた学校の元校長のご先祖様だったのです。その熊谷家の武家屋敷跡が、現在は一関郵便局に近い愛心幼稚園の敷地になっていることも突き止め、久々に身近な歴史の醍醐味を味わうことができました。
         *       *       *
 これらの史実はいずれも、時代の大きな流れにも屈せず、自らの領地や権威、アイデンティティを守るために中央からの権力に対して必死に反撃・抵抗してきた歴史であったと言えるでしょう。
 およそ日本の歴史のなかで、岩手を含めた東北は、中央政権あるいは都から遠く離れた「まつろわぬ民」「賊徒・化外の民」の住む「辺境・異境の地」であり、古代においては「東夷」「蝦夷」とさげすまれ、長い間差別的な対象であり偏見の対象とされてきました。それは、日本の歴史が大和や畿内を中心に繰り広げられ、大陸に繫がる瀬戸内や九州からもなお遠く、政治や文化が常に西から東へと伝播されてきたためでもありますが、やがて政権が鎌倉や江戸に移ってもなお、東北は「道の奥」「奥の細道」にあったのです。
 当時の中央からすれば「野蛮な」「遅れた」地域と見えたかもしれませんが、しかし緑なす山々に囲まれ、川の恵みを受け、あるいは海を抱きつつ自然とともに暮らす人々の営みは、たとえ冬の寒さが厳しくても、独自の文化や風土、そしてまた独特の気質や精神世界を育んできたのです。むしろ都や中央からかけ離れた地方であったがゆえに、そしてまた豊かな自然と厳しい自然環境の中で、したたかに、たくましく生きてきたからこそ、それを克服し、乗り越えようとする一種の反骨精神を育んできたとも言えるでしょう。それはちょうど、「津軽のじょっぱり」や「肥後もっこす」「土佐のいごっそう」とも似たような、権威や権力には決して屈しない不屈の精神、堅忍不抜の精神が血潮となって脈々と受け継がれてきたからかもしれません。

次回 12月11日(月)掲載予定 <付録 蝦夷関連年表>
その後、英語版(鋭意翻訳中)、中国版(知人の友人に依頼中)
を縮小して掲載の予定。
(研究員 高橋正吾)