付録 古代蝦夷関連年表
○蝦夷の攻撃 ●朝廷・官軍の攻撃
『日本書紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
景行天皇27年紀 「東夷の中に、日高見国あり。男女共に椎結い身文し、為人勇み悍し……」
景行天皇40年紀 「東夷は識性暴び強し。凌ぎ犯すを宗とす。村に長無く、邑に首勿し……」
斉明天皇5年紀 「蝦夷男女2名遣唐使と共に唐に渡る…云々」の『博徳日誌』が記載
『続日本紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
709(和銅2) 陸奥鎮東将軍に巨勢麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯石湯を任命し、近江・駿河
甲斐・信濃・上野・越前・越中等から●兵を派遣し、陸奥と越後を討つ。
710(和銅3) 平城遷都
713(和銅6) 陸奥に丹取郡(宮城県北部の大崎平野)を建てる。
715(霊亀元) 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の民千戸を陸奥に移住させる。
陸奥の蝦夷の請により香河村(不明)と閇村(宮古か)に郡家を建てる。
720(養老4) ○蝦夷が反乱し、按察使上毛野広人を殺す。
724(神亀元) ○海東(太平洋岸)の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。
多賀城を置き、鎮守府とする。
725(神亀2) 陸奥の蝦夷の捕虜444人を伊予国(四国)に、578人を筑紫(九州)に、
15人を和泉監(大阪)にそれぞれ配置する。
729(天平元) 陸奥鎮守府と三関(不破・鈴鹿・愛発)の兵士を三等分に評価する。
749(天平21) 陸奥小田郡(宮城県涌谷町)から黄金を献上する。日本最初の黄金産出。
(大伴家持「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」)
757(天平宝字元)陸奥の桃生、出羽の雄勝に柵戸を配し、桃生城、雄勝城の造営が始まる。
藤原恵美朝猟が陸奥守となる。 759年完成
762(天平宝字6)陸奥で疫病がはやり、物を恵み与えた。
乞索児(乞食)100人を陸奥に配置し、土地を与えて定着させる。
763(天平宝字7)陸奥で飢餓があり、物を恵み与えた。
767(神護景雲元)伊治城(宮城県築館町)が約1ヶ月で完成。
769(神護景雲3)浮浪民1000人を桃生城の柵戸に割り当てる。
浮浪民2500余人を伊治村に配置する。
770(宝亀元) 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇が、徒族を率いて賊地(支配外の蝦夷地)に逃げ、
使者を送って呼び戻すも帰らず、「同族率いて必ず城柵をを侵す」という。
そこで、蝦夷出身の近衛中将の道嶋嶋足を送り、虚実を調べ検問させる。
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍に任じる。
774(宝亀5) 海東(太平洋沿岸)の○蝦夷が桃生城(宮城県河北町)に侵攻する。
坂東八国に陸奥侵攻の準備を命じる。
按察使の大伴駿河麻呂ら●陸奥の遠山村(宮城県登米郡か)を討つ。
775(宝亀6) 陸奥の蝦夷の賊が夏から秋にかけて騒動を起こしたため、田畑が荒廃する。
出羽国が、蝦夷との戦いのため3年間鎮兵996人を動員要請したので、
●相模・武蔵・上野・下野の四国の兵を派遣する。
776(宝亀7) 出羽志波村(岩手県紫波郡か)で、○●賊と官軍が戦う。官軍が不利。
●下総・下野・常陸などの騎兵を発動し、これを討つ。
陸奥などの俘囚(帰順した蝦夷)395人を大宰府管内の諸国に配分する。
陸奥の官軍3000人を発して、●胆沢(岩手県奥州市)の賊を討つ。
陸奥の諸郡から、奥地の番兵を募集し定着させ、租税3年を免除する。
777(宝亀8) ●陸奥の官軍が山海の両道(太平洋岸と日本海岸)の蝦夷を討つ。蝦夷
の投降者が相次ぐ。
○出羽志波村の賊が結集して蜂起。●官軍が応戦するも敗れて退却する。
そこで、近江介佐伯久良麻呂を鎮守府副将軍に任じて●出羽を鎮圧する。
蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
出羽鎮圧から12日後、○出羽の蝦夷の賊(志波村か)が反逆する。
官軍に利なく、兵器の損失がでる。
778(宝亀9) 陸奥・出羽の国司以下、征戦に功ある2267人に叙爵。あらためて
蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
780(宝亀11)蝦夷の山賊来襲に備え、胆沢獲得のため覚鱉城(岩手県一関付近、同
衣川付近、前沢付近等々、諸説あり)の構築を示唆する。
長岡(宮城県大崎市古川長岡)で○●蝦夷の賊と官軍が衝突する。
○伊治公呰麻呂が反乱。按察使の紀広純、牡鹿の大領道嶋大楯を殺害。
○数日後、賊徒が多賀城を炎上。
征東大使に藤原継縄(年内に藤原小黒麻呂に交代)を、征東副使に
大伴益立と紀古佐美を任命する。
781(天応元) 陸奥守に紀古佐美を任命する。
賊の首領に伊佐西古・諸絞・八十島・乙代の名が登場し、1人千人力という。
783(延暦2) 道嶋嶋足(大楯の叔父か)死去。
坂東八国に、兵の徴発と訓練強化を勅す。
784(延暦3) 長岡京に遷都。
788(延暦7) 兵糧の運搬、東海道・東山道・坂東の歩兵と騎兵5万2800余名を、多賀城
に終結させること、国司らに士気を高めるよう勅す。
征東大使に紀古佐美を任命する。
天皇、辞見の儀で紀古佐美に対し節刀を授け(全権委任する)「坂東の安危
はこの一挙にあり、全力を尽くせ」と檄をとばす。
789(延暦8) ●官軍、衣川に1ヶ月滞留。朝廷は「何故進撃しないのか不審に思う」と激怒。
●5万の大軍から三隊(前軍・中軍・後軍の各2000)計6000で攻撃。
中軍・後軍の河東軍計4000で巣伏を衝くが、蝦夷軍の挟撃にあい、前軍
の2000も攻撃できず大敗。14村800戸を焼き、89人を斬首するも、
官軍被害は戦死25、矢による負傷245、溺死1036、裸身生還1257
で、蝦夷軍は総勢1500前後。
征東将軍紀古佐美が食糧補給困難・征東軍解散等を奏上。朝廷は激怒する。
790(延暦9) 蝦夷侵攻のため坂東諸国に皮の甲や兵糧の糒を、大宰府に鉄冑を準備させる。
蝦夷侵攻に功ある4140人に叙勲。
791(延暦10)征東大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂・百済王俊哲らを任命する。
『日本後記』『日本紀略』より ―――――――――――――――――――――――――――――
794(延暦13)征夷大将軍大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂・百済王俊哲等10万で蝦夷攻略。
●副将軍坂上田村麻呂が蝦夷を征す。弟麻呂、斬首457、捕虜150、
捕馬85、焼落75村。
平安遷都。
797(延暦16)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命(39歳)
伊治城を強化。相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・越後・出羽などから
農民9000人を移住。農業・養蚕の技術者を送り込み、産業開発を奨励。
801(延暦20)●坂上田村麻呂、4万で蝦夷に侵攻する。(戦闘経過は不明)
802(延暦21)坂上田村麻呂を遣わして胆沢城を造営し、鎮守府を多賀城から遷す。駿河・
甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国の浪人
4000人を陸奥国胆沢城に送る勅が出される。
大墓公阿弖流為、盤具公母禮ら、500人を率いて降る。
大墓公阿弖利為、盤具公母禮らを、河内国杜山にて斬る。
803(延暦22)坂上田村麻呂が志波城を造営。
804(延暦23)征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷侵攻が計画されるが、翌年の徳政論争で中止。
805(延暦24)藤原緒嗣と菅原真道が天下の徳政を論じ、緒嗣の主張通り「軍事(=征夷)
と造作(=造都)」は中止となる。
806(延暦25)桓武天皇死去(70歳)
811(弘仁2) 坂上田村麻呂、平安京外粟田(現:東山区)にて死去(54歳)
陸奥国に和我(和賀)・薭縫(稗貫)・斯波(志波)の3郡を置く。
次回掲載予定 英語版(鋭意翻訳中)その後、中国語版(知人の友人に依頼中)
を縮小して掲載の予定。 …ただし掲載日未定
(研究員 高橋正吾)
○蝦夷の攻撃 ●朝廷・官軍の攻撃
『日本書紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
景行天皇27年紀 「東夷の中に、日高見国あり。男女共に椎結い身文し、為人勇み悍し……」
景行天皇40年紀 「東夷は識性暴び強し。凌ぎ犯すを宗とす。村に長無く、邑に首勿し……」
斉明天皇5年紀 「蝦夷男女2名遣唐使と共に唐に渡る…云々」の『博徳日誌』が記載
『続日本紀』より ――――――――――――――――――――――――――――――――――
709(和銅2) 陸奥鎮東将軍に巨勢麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯石湯を任命し、近江・駿河
甲斐・信濃・上野・越前・越中等から●兵を派遣し、陸奥と越後を討つ。
710(和銅3) 平城遷都
713(和銅6) 陸奥に丹取郡(宮城県北部の大崎平野)を建てる。
715(霊亀元) 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の民千戸を陸奥に移住させる。
陸奥の蝦夷の請により香河村(不明)と閇村(宮古か)に郡家を建てる。
720(養老4) ○蝦夷が反乱し、按察使上毛野広人を殺す。
724(神亀元) ○海東(太平洋岸)の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。
多賀城を置き、鎮守府とする。
725(神亀2) 陸奥の蝦夷の捕虜444人を伊予国(四国)に、578人を筑紫(九州)に、
15人を和泉監(大阪)にそれぞれ配置する。
729(天平元) 陸奥鎮守府と三関(不破・鈴鹿・愛発)の兵士を三等分に評価する。
749(天平21) 陸奥小田郡(宮城県涌谷町)から黄金を献上する。日本最初の黄金産出。
(大伴家持「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花さく」)
757(天平宝字元)陸奥の桃生、出羽の雄勝に柵戸を配し、桃生城、雄勝城の造営が始まる。
藤原恵美朝猟が陸奥守となる。 759年完成
762(天平宝字6)陸奥で疫病がはやり、物を恵み与えた。
乞索児(乞食)100人を陸奥に配置し、土地を与えて定着させる。
763(天平宝字7)陸奥で飢餓があり、物を恵み与えた。
767(神護景雲元)伊治城(宮城県築館町)が約1ヶ月で完成。
769(神護景雲3)浮浪民1000人を桃生城の柵戸に割り当てる。
浮浪民2500余人を伊治村に配置する。
770(宝亀元) 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇が、徒族を率いて賊地(支配外の蝦夷地)に逃げ、
使者を送って呼び戻すも帰らず、「同族率いて必ず城柵をを侵す」という。
そこで、蝦夷出身の近衛中将の道嶋嶋足を送り、虚実を調べ検問させる。
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍に任じる。
774(宝亀5) 海東(太平洋沿岸)の○蝦夷が桃生城(宮城県河北町)に侵攻する。
坂東八国に陸奥侵攻の準備を命じる。
按察使の大伴駿河麻呂ら●陸奥の遠山村(宮城県登米郡か)を討つ。
775(宝亀6) 陸奥の蝦夷の賊が夏から秋にかけて騒動を起こしたため、田畑が荒廃する。
出羽国が、蝦夷との戦いのため3年間鎮兵996人を動員要請したので、
●相模・武蔵・上野・下野の四国の兵を派遣する。
776(宝亀7) 出羽志波村(岩手県紫波郡か)で、○●賊と官軍が戦う。官軍が不利。
●下総・下野・常陸などの騎兵を発動し、これを討つ。
陸奥などの俘囚(帰順した蝦夷)395人を大宰府管内の諸国に配分する。
陸奥の官軍3000人を発して、●胆沢(岩手県奥州市)の賊を討つ。
陸奥の諸郡から、奥地の番兵を募集し定着させ、租税3年を免除する。
777(宝亀8) ●陸奥の官軍が山海の両道(太平洋岸と日本海岸)の蝦夷を討つ。蝦夷
の投降者が相次ぐ。
○出羽志波村の賊が結集して蜂起。●官軍が応戦するも敗れて退却する。
そこで、近江介佐伯久良麻呂を鎮守府副将軍に任じて●出羽を鎮圧する。
蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
出羽鎮圧から12日後、○出羽の蝦夷の賊(志波村か)が反逆する。
官軍に利なく、兵器の損失がでる。
778(宝亀9) 陸奥・出羽の国司以下、征戦に功ある2267人に叙爵。あらためて
蝦夷出身の吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂にともに外従五位下を叙爵。
780(宝亀11)蝦夷の山賊来襲に備え、胆沢獲得のため覚鱉城(岩手県一関付近、同
衣川付近、前沢付近等々、諸説あり)の構築を示唆する。
長岡(宮城県大崎市古川長岡)で○●蝦夷の賊と官軍が衝突する。
○伊治公呰麻呂が反乱。按察使の紀広純、牡鹿の大領道嶋大楯を殺害。
○数日後、賊徒が多賀城を炎上。
征東大使に藤原継縄(年内に藤原小黒麻呂に交代)を、征東副使に
大伴益立と紀古佐美を任命する。
781(天応元) 陸奥守に紀古佐美を任命する。
賊の首領に伊佐西古・諸絞・八十島・乙代の名が登場し、1人千人力という。
783(延暦2) 道嶋嶋足(大楯の叔父か)死去。
坂東八国に、兵の徴発と訓練強化を勅す。
784(延暦3) 長岡京に遷都。
788(延暦7) 兵糧の運搬、東海道・東山道・坂東の歩兵と騎兵5万2800余名を、多賀城
に終結させること、国司らに士気を高めるよう勅す。
征東大使に紀古佐美を任命する。
天皇、辞見の儀で紀古佐美に対し節刀を授け(全権委任する)「坂東の安危
はこの一挙にあり、全力を尽くせ」と檄をとばす。
789(延暦8) ●官軍、衣川に1ヶ月滞留。朝廷は「何故進撃しないのか不審に思う」と激怒。
●5万の大軍から三隊(前軍・中軍・後軍の各2000)計6000で攻撃。
中軍・後軍の河東軍計4000で巣伏を衝くが、蝦夷軍の挟撃にあい、前軍
の2000も攻撃できず大敗。14村800戸を焼き、89人を斬首するも、
官軍被害は戦死25、矢による負傷245、溺死1036、裸身生還1257
で、蝦夷軍は総勢1500前後。
征東将軍紀古佐美が食糧補給困難・征東軍解散等を奏上。朝廷は激怒する。
790(延暦9) 蝦夷侵攻のため坂東諸国に皮の甲や兵糧の糒を、大宰府に鉄冑を準備させる。
蝦夷侵攻に功ある4140人に叙勲。
791(延暦10)征東大使に大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂・百済王俊哲らを任命する。
『日本後記』『日本紀略』より ―――――――――――――――――――――――――――――
794(延暦13)征夷大将軍大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂・百済王俊哲等10万で蝦夷攻略。
●副将軍坂上田村麻呂が蝦夷を征す。弟麻呂、斬首457、捕虜150、
捕馬85、焼落75村。
平安遷都。
797(延暦16)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命(39歳)
伊治城を強化。相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・越後・出羽などから
農民9000人を移住。農業・養蚕の技術者を送り込み、産業開発を奨励。
801(延暦20)●坂上田村麻呂、4万で蝦夷に侵攻する。(戦闘経過は不明)
802(延暦21)坂上田村麻呂を遣わして胆沢城を造営し、鎮守府を多賀城から遷す。駿河・
甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国の浪人
4000人を陸奥国胆沢城に送る勅が出される。
大墓公阿弖流為、盤具公母禮ら、500人を率いて降る。
大墓公阿弖利為、盤具公母禮らを、河内国杜山にて斬る。
803(延暦22)坂上田村麻呂が志波城を造営。
804(延暦23)征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷侵攻が計画されるが、翌年の徳政論争で中止。
805(延暦24)藤原緒嗣と菅原真道が天下の徳政を論じ、緒嗣の主張通り「軍事(=征夷)
と造作(=造都)」は中止となる。
806(延暦25)桓武天皇死去(70歳)
811(弘仁2) 坂上田村麻呂、平安京外粟田(現:東山区)にて死去(54歳)
陸奥国に和我(和賀)・薭縫(稗貫)・斯波(志波)の3郡を置く。
次回掲載予定 英語版(鋭意翻訳中)その後、中国語版(知人の友人に依頼中)
を縮小して掲載の予定。 …ただし掲載日未定
(研究員 高橋正吾)