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アテルイ・モレの物語(第1章)

2017年09月06日 13時35分30秒 | お知らせ
第1章 はじめに
 みなさんこんにちは。只今ご紹介いただきました高橋と申します。東北の方からわざわざ関西まで来て高校で歴史や地理なんかを教えてますので、遠い遠いご先祖様の歴史は、蝦夷の末裔としてはしっかり後世に伝えないといかんだろうと、それ位の自覚と誇りをもって取り組まないといけないだろうと思っております。ただ大学の先生みたいに専門に調べたりしていませんので、後で細かいこと質問されても恐らく答えられないと思いますので、その辺はひとつよろしくお願いいたします。
 実は私は、大学のときに地理を専攻していまして、歴史は大事ですし好きなんですけどどうも苦手なんですね。ですから未だにわからんこといっぱいあります。大学時代からこの近くの大阪の大東水害や奈良の大和川流域の水害調査や流路変遷の歴史を調べたりして、現地での報告会や記者会見というのはしたことがあるんですけど、歴史の講演というのは今回(枚方市牧野公民館での講演)が全く初めての経験です。
 今日のタイトルにある「アテルイ・モレ」の名前は、10年か20年前には知っていましたが、恥ずかしながら自分で直接調べて勉強したのは、実は4年ほど前からです。村の歴史をいろいろ調べていて、『町史』などを見ていましたら阿弖流為・母礼の名前が出てくるんですね。で、後で出てくる延暦8年の巣伏の戦いの話が、村の街道筋をず~と通るんですね、家の前を駆け抜けていくわけですよ。「やっ、これはスゴイ!」て、このとき初めて、私の頭の中で阿弖流為・母礼と村の歴史が符合したんです。
 でももうすでにその前から水沢・胆沢地方出身者でつくる関西同郷会の人達が阿弖流為・母礼の顕彰碑を何とか建てようと動いていました。ですから京都の清水寺にあるこの顕彰碑は、熱心に運動されていた関西胆江同郷会の高橋敏男会長(故人)や安倍満穂関西岩手県人会長(故人)をはじめ、穀田恵二衆議院議員や関西に在住する岩手の関係者など、多くの方々の哀願と努力によって建てられたものです。1994年11月6日の建立です。京都では時あたかも平安遷都1200年という記念すべき年でした。
 この大きな石碑の横に「顕彰碑」という小さな説明版がありまして、その説明版には次のように記されています。
 八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為   (アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母禮(モレ)と共に京都に連行された。
 田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇・人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。
 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。
(研究員:高橋記)
 
阿弖流為・母禮之碑