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蝦夷の英雄 結ぶ絆

2019年01月20日 15時48分31秒 | お知らせ

アテルイの碑、京都に建立20年 岩手と交流広がる      
関西アテルイ・モレの会前会長 松坂定徳(まつざかさだのり)

 京都市の清水寺に平安時代の蝦夷の英雄を顕彰する『阿弖流為と母禮の碑』が建っている。私が会長を務める「関西アテルイ・モレの会」が、アテルイと戦った坂上田村麻呂ゆかりの清水寺に打診し、協力を得て1994年に建てたものだ。
長年歴史の脇役に
建立20周年を迎えた昨年11月、会員やアテルイの故郷である岩手県の関係者など約150人が集まり、記念法要を開いた。清水寺の森清範貫主の読経のほか、京都の有志による岩手の伝統芸能「鬼剣舞」や奥州市の無形文化財「鹿踊り」も奉納し、盛大な式典となった。
 蝦夷の首領だったアテルイは、朝廷から派遣された征夷大将軍の田村麻呂との戦いに敗れ、指導者だったモレと一緒に都に連れてこられた。助命を請う田村麻呂の嘆願は聞き入れられず、二人は河内国で処刑されたという。それから長い間、アテルイは歴史から忘れ去られた。あるいは朝敵や国賊として語り継がれるだけの存在だった。
 私は岩手県の出身だが、アテルイのことを知ったのは転勤で関西に引っ越してからだ。62年に知人の勧めで関西岩手県人会に入った私は、そこで後に関西アテルイ・モレの会の初代会長となる故・高橋敏男氏に会った。
 岩手県出身の高橋氏はアテルイと田村麻呂の戦いを書いた澤田ふじ子氏の小説『陸奥甲冑記』をきっかけに、アテルイに興味を持ったようだ。岩手にある田村麻呂ゆかりの黒石寺の住職と親交があり、アテルイの首塚が大阪府枚方市にあると聞くと現地を調査しに行くなど行動的な方だった。
 高橋氏と交流を深めるうち、私も田村麻呂が一目置いたアテルイに関心を持つようになった。次第にアテルイと蝦夷の歴史に光を当てたいとの気持ちが強まり、中央政府との戦いに敗れた敗軍の将としてだけはなく、郷土を守ろうとした一面を伝えたいとアテルイを顕彰する活動を始めた。
関西でゆかりの地探す
 最初に取り組んだのは、首塚があるとされた枚方市にアテルイに関する掲示板を設置することだった。89年に枚方市に申請したが、「歴史的根拠がない」と却下された。
それでも諦めきれない。関西にアテルイの足跡をたどれる地はないかと探しているうちに、岩手県出身で当時、京都市議だった穀田恵二議員の紹介で、清水寺の勧学長だった故・福岡精道氏に慰霊碑の建立を打診する機会を得た。
もともと清水寺は観音信仰にあつい田村麻呂が敵味方にこだわらず御霊を供養したのが始まりだったという。田村麻呂にとって敵だったアテルイの慰霊碑にも理解を示してくださり、平安建都1200年の機に顕彰碑を建てることができた。
 毎年、碑を建立した11月に法要を開いているが、20年という歳月が流れたことは実に灌漑深い。碑ができた頃は無名に近かったアテルイだが、今では小説や研究が数多く、舞台やテレビドラマで演じられる機会も多い。清水寺を訪れた観光客で碑に足を運んで下さる方も増えている。
岩手の伝統、京都に
 顕彰碑の建立をきっかけに、京都と岩手の交流も広がっている。20周年の法要で鬼剣舞を奉納した人たちは、もともと岩手県の鬼剣舞を見て自らも踊ってみたいと「京都鬼剣舞」を立ち上げた京都の人たちだ。岩手の伝統芸能が遠く離れた京都でも伝承されているのは不思議な気持ちだ。
 清水寺は新たに制作した大日如来坐像に、東日本大震災で流出した岩手県の高田松原の松を使って下さった。被災地の復興を後押ししようとする心遣いに感謝している。
 京都だけではない。2007年には枚方市にアテルイとモレの塚が建てられ、ふたりの足跡をたどることができるようになった。さらに、関西アテルイ・モレの会には九州の熊襲研究者や、田村麻呂の伝承が残る福島県田村市などからの訪問者が絶えない。アテルイをきっかけに東西の交流が深まり、各地方の歴史が見直される契機となっているのがうれしい限りだ。
 今後も年1回の法要を続けるとともに、これからの時代を担う子どもたちがアテルイやモレが活躍した時代について興味を持ってもらえるような広報活動に力を注ぎたい(完)

この記事は日本経済新聞2015年4月28日号に掲載されたものです

筆者の近影


鬼剣舞の奉納


鹿踊りの奉納