清水寺を見学中「アテルイ・モレの碑」をみて疑問を持ち、当会に質問してくれたことに
ありがたく、老いの身ながら感動しています。
関西アテルイ・モレの会へのお問い合わせ
蝦夷の誇る将軍の碑を清水寺に建てられた背景はどのようなものだったのでしょうか?
なにか蝦夷と坂上田村麻呂の和解のような考えがあったのでしょうか?
この機会に私なりに歴史を振り返りながら、ご返事に挑戦してみます。
第1章 蝦夷征討
(1)朝廷軍の北進
神武天皇の代に竹内宿禰の「東の土地(日高見)が肥沃で広く打ち取るべし」の提言より、また景行天皇の代に朝廷は「蝦夷悉くに叛きて」と敵意を表し、代々の天皇は朝廷軍を遣わして蝦夷を攻略し、734年多賀柵(後に多賀城として強化:今の宮城県)まで到達します。749年陸奥国(今の宮城県涌谷町)で金が国内で初めて取れ、北進が強化されます。陸奥国だけでなく、坂東・越前等より浮浪人を集め兵や軍属として使い、各地での反乱を平定して、789年(延暦八年)胆沢の蝦夷討伐に着手します。この間782年に桓武天皇が即位し、長岡京の造営・遷都と、蝦夷征討の2大事業に着手します。
(万葉集を編纂した著名な歌人大伴家持も784年多賀城に左遷され、785年この地で亡くなっています(68?))
(2)胆沢(今の岩手県奥州市)の蝦夷征討
朝廷軍の胆沢への攻略は3度に及びます。
(789年:延暦八年の戦い)
桓武天皇が征東将軍に任命した紀古佐美は5万の軍勢で蝦夷軍を攻めますが、阿弖流為(アテルイの名が初めて現れる)を首領とする蝦夷軍7千のゲリラ戦法で朝廷軍は大敗、古佐美は譴責を受け解任されます。
(794年:延暦十三年の戦い)
征夷大将軍大伴弟麿、副将軍坂上田村麻呂は軍備を整え、10万の兵で蝦夷を攻めて大勝しましたが、朝廷軍は在留せずに平安京に戻ります。
(留まらなかったのは伝染病が蔓延したせいか)
(801年:延暦二十年の戦い)
征夷大将軍坂上田村麻呂は胆沢に至るとすぐに、胆沢城を構築し始めます。
蝦夷軍は「家は焼かれ、田畑は荒れ、死者・けが人が続出してこれ以上戦は続けられない」と、朝廷軍と講和の話し合いを持ち、田村麻呂はアテルイに「大墓公(タモノキミ)」,モレに「盤具公(バングノキミ)」の公姓を授与し蝦夷軍の名誉を守り、降伏後の保全と安泰を約することで講和条件が整い、アテルイとモレら5百人が投降します。
(3)朝廷の裁断:斬首
田村麻呂は投降した5百人はそのまま返し、アテルイとモレ2名を連れて平安京に凱旋します。朝廷は蝦夷を平らげる国家の大事業を成し遂げ、百官が賀を表して慶び合います。さて、アテルイ・モレの処遇です。田村麻呂は「彼らを故郷に返して蝦夷の残党を服属させたい」と助命嘆願しますが、公卿らは「虎を野に放つようなものだ」と拒否し、天皇の裁断を得て、二人は河内国植山で処刑されます。
(4)その後:征夷の終焉
桓武天皇はその後も軍を北上させ、胆沢城、志和城、厨川柵(今の盛岡市付近)まで至りますが、805年(延暦二十四年)「蝦夷征討と都の造営」を中止(天下の徳政相論)、翌806年薨去します。814年(弘仁五年)嵯峨天皇は帰順している蝦夷系住人を「夷俘(いふ)と号すること莫かるべし」と勅を出して、征夷の時代が終わります。
(5)補足
蝦夷と朝廷から来た官人達とは争いばかりしていたのではありません。多くの蝦夷は交易を通じて交流をしていましたし、稲作や農機具による農作業の効率化を学び、いろいろな作物を栽培し、城柵の中で作業をして報酬を得たりしていました。朝廷と融和した蝦夷を「熟(ニギ)蝦夷」と言います。
胆沢の蝦夷達も戦後は中央の文化を受け入れて生活が良くなり、平安時代の中頃には坂上田村麻呂を祭神とする神社が多く建立され、田村麻呂は神、蝦夷は悪人、という評価が定着していきます。私は昭和2、30年代の少年期を一関市で過ごしましたが、達谷窟(たっこくのいわや)の洞穴には悪い蝦夷がいたそうだ、という伝説が流布していました。
第2章 蝦夷アテルイの再評価
(1)復権(地元)
戦後、自由に歴史論を語ることができる時代が来て、学者の方々がこの時代の論文を世に出しましたが、地元の人々の「蝦夷は悪い人達」という印象はぬぐえませんでした。
1989年(平成元年)地元水沢市の「延暦八年の会(佐藤秀昭氏)」が『アテルイとエミシ』を出版し、これがきっかけでアテルイの復権が市民運動となり、清水寺の「阿弖流為・母禮之碑」から11年遅れて2005年「阿弖流為・母禮慰霊碑」を建立しました。
(2)復権(関西)
1987年(昭和62年)関西在住の水沢市出身の方々が「関西水沢胆江同郷会(高橋敏男氏)」を発足させてアテルイ・モレ等の顕彰活動を開始し、「アテルイの首塚」伝承の地:枚方市交野公園に「紹介の掲示板」設置を要請しましたが、枚方市から史実の証拠がないと却下され、窮鼠猫を咬むの思いで、敵将坂上田村麻呂公本願の音羽山清水寺に阿弖流為・母禮の顕彰碑を建てたいと願い出たところ、森清範貫主様が「坂上田村麻呂公と阿弖流為らの仏縁である」と快諾され、1994年(平成6年)平安遷都1200年記念の年11月に「阿弖流為・母禮之碑」を建立することができました。
(参考資料:蝦夷アテルイ(及川洵著)
そこで、質問に対するご返事です。
(1)碑建立の背景は、前記の史実を踏まえ関西在住岩手県人の心のよりどころ
関西に住む岩手県人としては、地元住民の自立のために戦ったが利あらずに、京都に連れてこられて斬首されたアテルイ・モレを慰霊・顕彰する碑を立て、故郷岩手に繋がる心のよりどころとしたのです。故郷岩手にもあの時代にこのような英雄がいたのだ、アテルイ・モレ等と戦った坂上田村麻呂に縁のある清水寺にお参りすれば、立場は異なれ故郷岩手の将来を思う心は一つとの思いを確かめられる、これが30年も続く慰霊と顕彰のエネルギーです。
(2)碑の建立にあたって、蝦夷と田村麻呂との和解のきっかけとしたわけではない
延暦二十年のアテルイ・モレと田村麻呂との講和条件の話し合いで、お互い敵将ながら人格を認め合ったと思います。田村麻呂は「アテルイ・モレを生かしてふるさと再建を託したい」と助命嘆願していますし、アテルイ・モレは投降した段階で田村麻呂の意向に関わらず「死」を覚悟していたと思います。
その後、田村麻呂は命を受けても蝦夷の前に立ちはだかることはありませんでした。又、胆沢城の征討軍も地元住民に悪さを働くことはなかったようで、その後の争いは記録されていません。胆沢の蝦夷達もこの事態を受け入れ、従ったと思います。この辺にも田村麻呂の目が届いているような気がしています。 完 和賀亮太郎(2022/8/6)