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高校生の君へ

2022年08月05日 17時51分26秒 | お知らせ

清水寺を見学中「アテルイ・モレの碑」をみて疑問を持ち、当会に質問してくれたことに
ありがたく、老いの身ながら感動しています。

関西アテルイ・モレの会へのお問い合わせ
蝦夷の誇る将軍の碑を清水寺に建てられた背景はどのようなものだったのでしょうか?
なにか蝦夷と坂上田村麻呂の和解のような考えがあったのでしょうか?

この機会に私なりに歴史を振り返りながら、ご返事に挑戦してみます。

第1章 蝦夷征討
(1)朝廷軍の北進
神武天皇の代に竹内宿禰の「東の土地(日高見)が肥沃で広く打ち取るべし」の提言より、また景行天皇の代に朝廷は「蝦夷悉くに叛きて」と敵意を表し、代々の天皇は朝廷軍を遣わして蝦夷を攻略し、734年多賀柵(後に多賀城として強化:今の宮城県)まで到達します。749年陸奥国(今の宮城県涌谷町)で金が国内で初めて取れ、北進が強化されます。陸奥国だけでなく、坂東・越前等より浮浪人を集め兵や軍属として使い、各地での反乱を平定して、789年(延暦八年)胆沢の蝦夷討伐に着手します。この間782年に桓武天皇が即位し、長岡京の造営・遷都と、蝦夷征討の2大事業に着手します。
(万葉集を編纂した著名な歌人大伴家持も784年多賀城に左遷され、785年この地で亡くなっています(68?))
(2)胆沢(今の岩手県奥州市)の蝦夷征討
朝廷軍の胆沢への攻略は3度に及びます。
(789年:延暦八年の戦い)
桓武天皇が征東将軍に任命した紀古佐美は5万の軍勢で蝦夷軍を攻めますが、阿弖流為(アテルイの名が初めて現れる)を首領とする蝦夷軍7千のゲリラ戦法で朝廷軍は大敗、古佐美は譴責を受け解任されます。
(794年:延暦十三年の戦い)
征夷大将軍大伴弟麿、副将軍坂上田村麻呂は軍備を整え、10万の兵で蝦夷を攻めて大勝しましたが、朝廷軍は在留せずに平安京に戻ります。
(留まらなかったのは伝染病が蔓延したせいか)
(801年:延暦二十年の戦い)
征夷大将軍坂上田村麻呂は胆沢に至るとすぐに、胆沢城を構築し始めます。
蝦夷軍は「家は焼かれ、田畑は荒れ、死者・けが人が続出してこれ以上戦は続けられない」と、朝廷軍と講和の話し合いを持ち、田村麻呂はアテルイに「大墓公(タモノキミ)」,モレに「盤具公(バングノキミ)」の公姓を授与し蝦夷軍の名誉を守り、降伏後の保全と安泰を約することで講和条件が整い、アテルイとモレら5百人が投降します。
(3)朝廷の裁断:斬首
田村麻呂は投降した5百人はそのまま返し、アテルイとモレ2名を連れて平安京に凱旋します。朝廷は蝦夷を平らげる国家の大事業を成し遂げ、百官が賀を表して慶び合います。さて、アテルイ・モレの処遇です。田村麻呂は「彼らを故郷に返して蝦夷の残党を服属させたい」と助命嘆願しますが、公卿らは「虎を野に放つようなものだ」と拒否し、天皇の裁断を得て、二人は河内国植山で処刑されます。
(4)その後:征夷の終焉
桓武天皇はその後も軍を北上させ、胆沢城、志和城、厨川柵(今の盛岡市付近)まで至りますが、805年(延暦二十四年)「蝦夷征討と都の造営」を中止(天下の徳政相論)、翌806年薨去します。814年(弘仁五年)嵯峨天皇は帰順している蝦夷系住人を「夷俘(いふ)と号すること莫かるべし」と勅を出して、征夷の時代が終わります。
(5)補足
蝦夷と朝廷から来た官人達とは争いばかりしていたのではありません。多くの蝦夷は交易を通じて交流をしていましたし、稲作や農機具による農作業の効率化を学び、いろいろな作物を栽培し、城柵の中で作業をして報酬を得たりしていました。朝廷と融和した蝦夷を「熟(ニギ)蝦夷」と言います。
胆沢の蝦夷達も戦後は中央の文化を受け入れて生活が良くなり、平安時代の中頃には坂上田村麻呂を祭神とする神社が多く建立され、田村麻呂は神、蝦夷は悪人、という評価が定着していきます。私は昭和2、30年代の少年期を一関市で過ごしましたが、達谷窟(たっこくのいわや)の洞穴には悪い蝦夷がいたそうだ、という伝説が流布していました。

第2章 蝦夷アテルイの再評価
(1)復権(地元)
戦後、自由に歴史論を語ることができる時代が来て、学者の方々がこの時代の論文を世に出しましたが、地元の人々の「蝦夷は悪い人達」という印象はぬぐえませんでした。
1989年(平成元年)地元水沢市の「延暦八年の会(佐藤秀昭氏)」が『アテルイとエミシ』を出版し、これがきっかけでアテルイの復権が市民運動となり、清水寺の「阿弖流為・母禮之碑」から11年遅れて2005年「阿弖流為・母禮慰霊碑」を建立しました。
(2)復権(関西)
1987年(昭和62年)関西在住の水沢市出身の方々が「関西水沢胆江同郷会(高橋敏男氏)」を発足させてアテルイ・モレ等の顕彰活動を開始し、「アテルイの首塚」伝承の地:枚方市交野公園に「紹介の掲示板」設置を要請しましたが、枚方市から史実の証拠がないと却下され、窮鼠猫を咬むの思いで、敵将坂上田村麻呂公本願の音羽山清水寺に阿弖流為・母禮の顕彰碑を建てたいと願い出たところ、森清範貫主様が「坂上田村麻呂公と阿弖流為らの仏縁である」と快諾され、1994年(平成6年)平安遷都1200年記念の年11月に「阿弖流為・母禮之碑」を建立することができました。
(参考資料:蝦夷アテルイ(及川洵著)

そこで、質問に対するご返事です。
(1)碑建立の背景は、前記の史実を踏まえ関西在住岩手県人の心のよりどころ
関西に住む岩手県人としては、地元住民の自立のために戦ったが利あらずに、京都に連れてこられて斬首されたアテルイ・モレを慰霊・顕彰する碑を立て、故郷岩手に繋がる心のよりどころとしたのです。故郷岩手にもあの時代にこのような英雄がいたのだ、アテルイ・モレ等と戦った坂上田村麻呂に縁のある清水寺にお参りすれば、立場は異なれ故郷岩手の将来を思う心は一つとの思いを確かめられる、これが30年も続く慰霊と顕彰のエネルギーです。
(2)碑の建立にあたって、蝦夷と田村麻呂との和解のきっかけとしたわけではない
延暦二十年のアテルイ・モレと田村麻呂との講和条件の話し合いで、お互い敵将ながら人格を認め合ったと思います。田村麻呂は「アテルイ・モレを生かしてふるさと再建を託したい」と助命嘆願していますし、アテルイ・モレは投降した段階で田村麻呂の意向に関わらず「死」を覚悟していたと思います。
その後、田村麻呂は命を受けても蝦夷の前に立ちはだかることはありませんでした。又、胆沢城の征討軍も地元住民に悪さを働くことはなかったようで、その後の争いは記録されていません。胆沢の蝦夷達もこの事態を受け入れ、従ったと思います。この辺にも田村麻呂の目が届いているような気がしています。 完            和賀亮太郎(2022/8/6)


東北の蝦夷が歩んだ道は現代と未来につながる

2022年04月01日 12時42分09秒 | お知らせ

山形県在住の長岡昇さんが首記表題にて、調査報道サイト「ハンター」に記事を投稿しています。
氏の了解を得ましたので、全文を掲載します。(事務局:和賀)

東北の蝦夷が歩んだ道は現代と未来につながる

戦争とは、生身の人間が集団で殺し合うことである。兵士の数が多く、武器をたくさん持つ方が有利なことは言うまでもない。だが、それにも増して重要なことがある。

それは、戦いに身を投じる一人ひとりの人間が「この戦争は命をかけるに値するか」と自問し、納得できるかどうかだ。自ら納得し、覚悟を決めた集団は侮りがたい力を発揮する。

強大な軍事力を誇ったアメリカは、なぜベトナムで敗れたのか。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍は、なぜ全面撤退に追い込まれたのか。9・11テロの後、アフガンに攻め込んだ米軍も撤退せざるを得なかったのはなぜか。

それは、攻め込んだ米兵にもソ連兵にも命をかける理由が乏しく、一方でベトナム側とアフガン側には「自らの土地を守り、同胞を守る」という揺るぎない決意があったからである。戦いが長引けば長引くほど、その差は戦況に如実に表れていった。

ロシアによるウクライナ侵攻でも、同じことが起きている。ロシア兵の多くは、なぜここで戦わなければならないのか、戸惑っているのではないか。ウクライナの兵士たちの頑強な抵抗に「なぜ、ここまで」と驚愕しているのではないか。

この戦争が最終的にどのように決着するかは見通せない。だが、戦場で命をかけるのは一人ひとりの兵士であり、その兵士たちの「覚悟の差」が戦争の帰趨に大きな影響を及ぼすことをあらためて示すことになるだろう。

   ◇     ◇
 
古代東北の地で繰り広げられた蝦夷(えみし)と大和政権との戦争もまた、覚悟を決めた集団とそうでない集団との戦いだった。

戦争は、都が平城京(奈良)にあった774年から長岡京(京都)、平安京(同)と移った後の811年まで、足かけ38年に及んだ。その中で、戦う者たちの「覚悟の差」をもっともよく示しているのは、789年(延暦8年)の桓武天皇治下での第一次征討である。

それまでの戦いで苦杯をなめた朝廷側は、この征討で5万余りの兵を動員し、蝦夷の拠点である胆沢(いさわ)(岩手県南部)の制圧を目指した。迎え撃った蝦夷側の兵力は数千人と推定されている。兵力だけを見れば、朝廷側が圧倒的に優位に立っていた。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする朝廷軍は北上川の西岸を北上し、支流の衣川を越えた地点に陣を構えた。蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の拠点・胆沢が西岸にあったからである。

ところが、この時、蝦夷側は胆沢を捨て、東岸に陣を敷いた。このため、朝廷側は征討軍の一部を前軍と中軍、後軍の三つ分け、北上川を渡河する作戦を立てた。3軍それぞれ2000人で計6000人。これで十分と見たのだろう。

蝦夷側にはモレ(母禮)という優れた軍師がいたとされる。兵力の差は歴然としている。正面から戦いを挑んだのでは勝つのは難しい。そこで、朝廷軍を北上川の両岸に分断する策略をめぐらしたと思われる。

戦端が開かれたのは5月である。北上川は雪解け水で増水していた。6000人の将兵を舟やいかだで渡河させるのは容易なことではない。前軍の2000人は蝦夷側に妨害されて河を渡ることができず、東岸の巣伏(すふし)村に達したのは中軍と後軍の4000人だけだった。

この後の蝦夷側の戦術も巧みだった。最初に迎え撃った300人ほどの部隊は小競り合いの後、後退した。朝廷軍は勢いに乗って追撃し、部隊は縦に長く延びた。そこに800人ほどの蝦夷が襲いかかり、さらに潜んでいた400人ほどが背後から挟撃した。

朝廷軍は総崩れになった。北上川に飛び込んで本隊に逃げ帰ろうとする者が続出し、1000人余りが溺死した。その数は戦死者をはるかに上回った。

蝦夷にとっては「自らの土地と生活を守る戦い」である。一方の朝廷軍は坂東や東海道の各地から徴兵された寄せ集めの部隊だ。双方の戦意の差は大きく、4000人の大部隊が1500人ほどの蝦夷に蹴散らされたのである。

征東将軍の紀古佐美は戦意を喪失し、ほどなく軍を解散した。にもかかわらず、『続日本紀』によれば、古佐美は朝廷に「戦さで蝦夷の田は荒れ果て、放置しても滅びる」「わが軍は兵糧の補給が困難で、これ以上戦うのは得策ではない」などと〝戦勝〟の報告を送った。

桓武天皇は激怒した。「蝦夷の首級は100に満たず、官軍の死傷は3000人にも上る」として報告を虚飾と断じ、敗戦の責任を追及している。

雪辱を果たすため、桓武天皇が794年の第二次征討で10万、801年の第三次征討で4万の軍勢を陸奥に送り込み、蝦夷の制圧に執念を燃やし続けたこと、さらにこの時期の正史である『日本後紀』の写本が欠落していて第二次、第三次征討の詳しいことがほとんど分からないことは、すでにお伝えした。

次々に押し寄せる大軍との戦いに疲れ果てたのか、アテルイとモレは802年、500人の部下を伴って征夷大将軍の坂上田村麻呂に投降した。2人は都に連行され、田村麻呂が助命を嘆願したものの朝廷は受け入れず、河内の杜山(もりやま)(大阪府枚方市)で処刑された。

   ◇     ◇

「覚悟」を固めたとて。勝てない戦さもある。指導者と軍師は賊徒として斬首された。だが、朝廷がどのように貶(おとし)めようと、忘れ去られることはなかった。人々はアテルイとモレたちの戦いに心を揺さぶられ、語り継いできた。

京都の清水寺に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」が建てられたのは1994年、平安遷都から1200年後のことである。関西在住の水沢市や胆沢町などの出身者で作る同郷会が資金を募って建立した。

清水寺は、蝦夷と戦い続けた坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。戦いながらも蝦夷の窮状に心を寄せたとされる田村麻呂の思いをくんで、当時の貫主が快諾したという。

岩手県の地元紙、胆江(たんこう)日日新聞も供養碑設立の運動を支え、その除幕式の様子を「蘇った古代東北の歴史」「この日はあいにくの雨模様だったが、関係者の表情は晴れやかだった」と報じた。同郷会の会長、高橋敏男は同紙に「5年の際月をかけたことだけに、感慨も無量」と語っている(1994年11月7日付)。

水沢市と江刺市、胆沢町など5市町村は2006年に合併して奥州市になった。北上川の河畔には、アテルイらが朝廷軍を敗走させた「巣伏(すふし)の戦い」を記念する櫓(やぐら)と碑が建てられ、地域おこしのシンボルになっている。

岩手出身の作家、高橋克彦は1999年に小説『火怨 北の輝星アテルイ』を出版し、史書からこぼれ落ちた蝦夷たちの戦いに光を当てようと試みた。

「敵はほとんどが無理に徴集された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空を守るために戦っている」

「いかにも我らの暮らしは獣並みやも知れませぬ。白湯(さゆ)を啜(すす)り、わずかの芋を分け合うて凌(しの)いでおりまする。なれど獣にはあらず。人を獣と見下す者らに従って生きることなどできぬ」

こうした言葉はすべてフィクションである。だが、どの言葉にも北の大地から湧き出したような味わいがある。小説は吉川英治文学賞を受賞し、刷を重ねている。

この小説を基に、NHKは2013年の1月から2月にかけて、BS時代劇「アテルイ伝」を4回にわたって放送した。最終回で主演の大沢たかおが叫ぶ。「帝は我等(わあら)をなにゆえ憎む。なにゆえ殺す。同じ人ぞ。同じ人間ぞ」。深い問いだった。

2015年夏には歌舞伎で市川染五郎がアテルイを演じ、2年後、宝塚歌劇団のミュージカルとしても上演された。アテルイをテーマにした作品は読む者の心を揺さぶり、観る者の心をとらえてやまない。その生き方に、時を超えて語りかけてくるものがあるからだろう。

   ◇     ◇

歴史は勝者によって記され、勝者は自分たちに都合の悪いことには触れようとしない。だが、本当に大切なことは「触れられなかったこと」の中に埋もれているのかもしれない。古代東北の歴史を調べ、蝦夷が歩んだ道を思う時、心に浮かぶのは北アメリカの先住民たちがたどった運命である。

米国の人類学者ヘンリー・ドビンズによれば、コロンブスがアメリカ大陸に到達した15世紀当時、北米には推定で1000万人前後の先住民が暮らしていた。そこに移民としてやって来たのはヨーロッパで迫害され、貧困に打ちのめされた人たちだった。

1620年、イギリスからメイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスにたどり着いた101人の清教徒は、飢えと寒さで冬を越すことができず、春までに半数が亡くなった。

生き残った者たちに食糧を与え、トウモロコシやジャガイモの栽培法を教えて助けたのは、その地に暮らすワンパノアグ族の人たちである。「飢えた旅人には、自らの食を割いてでも手を差し伸べる」という古来の慣習に従ったのだった。

翌年の秋には豊かな収穫に恵まれ、白人たちは先住民と共に祝った。それがアメリカにおける感謝祭の始まりとされる。

だが、共に祝う日々はすぐに終わった。移民たちは「土地の所有」を主張し始めたからである。「大地や空は誰のものでもない」と考える先住民には理解できないことだった。

移民が持ち込んだ天然痘や赤痢、コレラといった伝染病も脅威となった。先住民には未知の病であり、治療のすべもないまま次々に倒れていった。

流入する移民と疫病が先住民を西へと追いやる。イギリスやフランス、スペインなど欧州の国々による植民地の争奪戦が始まり、先住民も巻き込まれていった。

1763年、英国王のジョージ3世が「英国の領土はアパラチア山脈まで。その西はインディアンの居住地」と宣言し、両者は住み分けることになったが、この後ほどなく独立戦争が勃発して宣言は雲散霧消した。

入植者は広い土地を求めてインディアンの居住地域に入り込む。金鉱が発見されれば、ならず者が殺到する。それを白人の側から描けば、「開拓を妨害するインディアン、騎兵隊と入植者がそれを追い払う」という、西部劇でおなじみの図式になる。

武力衝突が起きるたびに協定が結ばれたが、そうした約束が守られることはなかった。どのような協定が結ばれ、どのように破られていったのか。白人側が残した記録を基に、その内実を克明に記したのがディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』である。

非道な協定破りの数々。その典型の一つが「チェロキー族の涙の旅路」である。この部族は白人たちと戦うことをやめ、18世紀後半には指定されたジョージア州などの居住地に住んでいた。

ところが、居住地で金鉱が発見されるや、数万人が1000キロ離れたオクラホマ州に追いやられた。老人や女性、子どもを連れ、真冬に徒歩での旅。4人に1人が命を落とした。

戦うことをやめない部族には、容赦ない殺戮(さつりく)が待っていた。インディアンの戦士たちとの戦いが難渋すれば、騎兵隊は後背地にいる彼らの家族を殺害した。インディアンの人口は、19世紀末には25万人まで激減した。

軍隊と、家族を抱えた生活者との戦い・・・・。いかに決意が固かろうと、インディアンたちが抗(あらが)い続けることは困難だった。東北の蝦夷たちもまた、同じ苦しみを抱えて戦うしかなかった。

カナダ・アルバータ大学の教授、藤永茂は著書『アメリカ・インディアン悲史』に、彼らは「自分たちをあくまで大自然のほんの一部と看做(みな)す人たちだった」と記した。

「森に入れば無言の木々の誠実と愛に包まれた自分を感じ、スポーツとしての狩猟を受けいれず、奪い合うよりもわけ合うことをよろこびとし、欲望と競争心に支えられた勤勉を知らず、何よりもまず『生きる』ことを知っていた」

だから、「インディアン問題はインディアンたちの問題ではない。我々の問題である」と藤永はいう。

そうなのだ。古代東北の蝦夷たちの営為も、遠い歴史のかなたに置き去りにするわけにはいかない。彼らがたどった道は今を生きる私たちにつながり、さらに未来へと延びている。
(敬称略)


長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)


*初出:調査報道サイト「ハンター」 2022年3月29日
https://news-hunter.org/?p=11599

≪参考文献&サイト≫
◎『蝦夷と東北戦争』(鈴木拓也、吉川弘文館)
◎『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(鈴木拓也編、吉川弘文館)
◎『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』(樋口知志、ミネルヴァ書房)
◎『火怨 北の輝星アテルイ』(高橋克彦、上下、講談社文庫)
◎『胆江日日新聞七十年史』(胆江日日新聞社)
◎清水寺の歴史(清水寺の公式サイトから)
https://www.kiyomizudera.or.jp/history.php
◎『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂、朝日新聞社)
◎『わが魂を聖地に埋めよ』(ディー・ブラウン、上下、草思社文庫)
◎『アメリカの歴史を知るための62章』(富田虎男、鵜月裕典、佐藤円編、明石書店)

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長岡 昇 Noboru NAGAOKA
携帯:080-1036-9420
メール : nagaokanoboru@gmail.com
NPO「ブナの森」 代表
ウェブサイト:http://bunanomori.org/

お迎えした方々

2019年12月27日 10時39分45秒 | お知らせ
 定年退職した翌年の2005年、松坂定徳会長に誘われて事務局のお手伝いをすることになりました。当時法要の参加者は関西在住の岩手県人会員と奥州市から参拝に来られる皆さんだけでしたが、あれから15年。次第にアテルイ・モレに関心を寄せて下さる方々が夫妻や友人達でご参加して頂いております。
奥州市から参加の皆さんもご夫妻での参加が増えてきました。
京都鬼剣舞(伊東庭元さん)も15,20,25周年の記念法要には特別奉納をして頂いており、25周年では小鬼たちも協力してくれました。

 法要で巡り合ったご夫妻、ご友人と一緒の参加の方々を思い出しています。
青森県むつ市の都谷森・申賀・野坂さん。盛岡市の阿部さんと友人達。秋田県わらび座の戎本・宮本さん(本堂内陣で「鬼剣舞」を踊って頂きました)。仙台市の男声合唱グループ「ヤングジーズ」の皆さんと奥様達。野村さん夫妻。郡山市・三春町の「田村歴史観光協議会」(影山会長夫妻)の皆さん。おおみや市の高橋さん夫妻(イメージキャラクターを作って頂きました)東京の「東京寿九会」の皆さん。「ホロトロピック・ネットワーク」(天外代表)の皆さん。海老原さんと友人。寺島さん夫妻。吉田さんと歴女達。吉川・菊池・小原さん。川崎市の鍛治舎さん夫妻。町田市の北原さん夫妻。横浜市の高橋さんと友人達。浜松市の森さん夫妻(歌い舞を奉納して頂きました)。津市の中村さんと友人。大津市の大西さんと登山会の皆さん。京都市の工藤さん親子(ネパール古典仏教舞踊を奉納して頂きました)。小堀さん夫妻。地主さんと友人達。新川さん夫妻。村上さん夫妻。吹田市の高橋さん親子と孫達(森管主様と一緒に写真をお撮りしました)。大阪市の大内さん夫妻。東大阪市の木村さん夫妻。奈良市の藤原さん夫妻。大和郡山市の前田さん夫妻。寝屋川市の島さん夫妻。芦屋市の河野さんと友人。赤磐市の富久さんと友人。宝塚歌劇の礼真琴・瀬央ゆりあさんなどなど。
立ち話での短い時間でのお付き合いですが、心に残る出会いばかりです。
また、遠賀川の川道さんは田村麻呂とアテルイ・モレの『武人の心』の交流についてブログを寄せておられます。https://fukushimagizan.blog.ss-blog.jp/

 この間に鬼籍に入られた方もおいでになります。昨年は追善供養をさせて頂きましたが、漏れた方も多くおいでと思います。
多くの皆さんに支えられて、清水寺の『阿弖流為・母禮の碑』法要も建碑25周年を迎えることができました。
改めて、関心を寄せて頂いております皆様に感謝申し上げます。
では、良いお年をお迎え下さい。

令和元年12月27日   関西アテルイ・モレの会  和賀亮太郎

読売新聞「史書を訪ねて」

2019年06月01日 02時22分34秒 | お知らせ
読売新聞大阪本社の編集委員原昌平氏より、5月28日の夕刊の企画『史書を訪ねて』で『日本紀略』を取り上げ、アテルイと田村麻呂を記事にしましたと掲載誌をお送り頂きましたので、紹介致します。
岩手大学の樋口知志(ひぐち・ともじ)教授が解説しています。
梅雨前の好天の下、アジサイも色付いてきました。皆様もお元気でお過ごし下さい。(事務局:和賀記)

史書を訪ねて






アテルイの本拠地だった北上盆地。北上川が流れるこの一帯で、アテルイが官軍に大勝した。(巣伏の戦い)



樋口教授の著書『阿弖流為』(ミネルバ書房)「平和を愛した東北の英雄、征夷の時代を終結に導く。」






蝦夷の英雄 結ぶ絆

2019年01月20日 15時48分31秒 | お知らせ

アテルイの碑、京都に建立20年 岩手と交流広がる      
関西アテルイ・モレの会前会長 松坂定徳(まつざかさだのり)

 京都市の清水寺に平安時代の蝦夷の英雄を顕彰する『阿弖流為と母禮の碑』が建っている。私が会長を務める「関西アテルイ・モレの会」が、アテルイと戦った坂上田村麻呂ゆかりの清水寺に打診し、協力を得て1994年に建てたものだ。
長年歴史の脇役に
建立20周年を迎えた昨年11月、会員やアテルイの故郷である岩手県の関係者など約150人が集まり、記念法要を開いた。清水寺の森清範貫主の読経のほか、京都の有志による岩手の伝統芸能「鬼剣舞」や奥州市の無形文化財「鹿踊り」も奉納し、盛大な式典となった。
 蝦夷の首領だったアテルイは、朝廷から派遣された征夷大将軍の田村麻呂との戦いに敗れ、指導者だったモレと一緒に都に連れてこられた。助命を請う田村麻呂の嘆願は聞き入れられず、二人は河内国で処刑されたという。それから長い間、アテルイは歴史から忘れ去られた。あるいは朝敵や国賊として語り継がれるだけの存在だった。
 私は岩手県の出身だが、アテルイのことを知ったのは転勤で関西に引っ越してからだ。62年に知人の勧めで関西岩手県人会に入った私は、そこで後に関西アテルイ・モレの会の初代会長となる故・高橋敏男氏に会った。
 岩手県出身の高橋氏はアテルイと田村麻呂の戦いを書いた澤田ふじ子氏の小説『陸奥甲冑記』をきっかけに、アテルイに興味を持ったようだ。岩手にある田村麻呂ゆかりの黒石寺の住職と親交があり、アテルイの首塚が大阪府枚方市にあると聞くと現地を調査しに行くなど行動的な方だった。
 高橋氏と交流を深めるうち、私も田村麻呂が一目置いたアテルイに関心を持つようになった。次第にアテルイと蝦夷の歴史に光を当てたいとの気持ちが強まり、中央政府との戦いに敗れた敗軍の将としてだけはなく、郷土を守ろうとした一面を伝えたいとアテルイを顕彰する活動を始めた。
関西でゆかりの地探す
 最初に取り組んだのは、首塚があるとされた枚方市にアテルイに関する掲示板を設置することだった。89年に枚方市に申請したが、「歴史的根拠がない」と却下された。
それでも諦めきれない。関西にアテルイの足跡をたどれる地はないかと探しているうちに、岩手県出身で当時、京都市議だった穀田恵二議員の紹介で、清水寺の勧学長だった故・福岡精道氏に慰霊碑の建立を打診する機会を得た。
もともと清水寺は観音信仰にあつい田村麻呂が敵味方にこだわらず御霊を供養したのが始まりだったという。田村麻呂にとって敵だったアテルイの慰霊碑にも理解を示してくださり、平安建都1200年の機に顕彰碑を建てることができた。
 毎年、碑を建立した11月に法要を開いているが、20年という歳月が流れたことは実に灌漑深い。碑ができた頃は無名に近かったアテルイだが、今では小説や研究が数多く、舞台やテレビドラマで演じられる機会も多い。清水寺を訪れた観光客で碑に足を運んで下さる方も増えている。
岩手の伝統、京都に
 顕彰碑の建立をきっかけに、京都と岩手の交流も広がっている。20周年の法要で鬼剣舞を奉納した人たちは、もともと岩手県の鬼剣舞を見て自らも踊ってみたいと「京都鬼剣舞」を立ち上げた京都の人たちだ。岩手の伝統芸能が遠く離れた京都でも伝承されているのは不思議な気持ちだ。
 清水寺は新たに制作した大日如来坐像に、東日本大震災で流出した岩手県の高田松原の松を使って下さった。被災地の復興を後押ししようとする心遣いに感謝している。
 京都だけではない。2007年には枚方市にアテルイとモレの塚が建てられ、ふたりの足跡をたどることができるようになった。さらに、関西アテルイ・モレの会には九州の熊襲研究者や、田村麻呂の伝承が残る福島県田村市などからの訪問者が絶えない。アテルイをきっかけに東西の交流が深まり、各地方の歴史が見直される契機となっているのがうれしい限りだ。
 今後も年1回の法要を続けるとともに、これからの時代を担う子どもたちがアテルイやモレが活躍した時代について興味を持ってもらえるような広報活動に力を注ぎたい(完)

この記事は日本経済新聞2015年4月28日号に掲載されたものです

筆者の近影


鬼剣舞の奉納


鹿踊りの奉納