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後藤新平の話 4

後藤新平の話4
 後藤新平のお話の、つづきです。
◇ 麻布の広大な後藤子爵邸のようす
 月刊『新潮』の2017年7月号と10月号に黒川創氏の「鶴見俊輔伝」が連載されている。黒川氏は、その父親が鶴見氏の同志社教授時代に同じ活動家だったことから、幼少の頃から鶴見氏をよく知った評論家・作家である。この7月号の冒頭に、麻布の後藤邸の話が詳しく登場する。要約すると次のようになる。( )は高橋がコメント。
 ●邸宅の広さは7000坪(約150m四方、サッカーコート3面以上)●西側の門番が控える立派な門から覗くと、屋敷の中ほどに築山があり、その周囲を車回し巡り、築山の向こう(東側)に壮麗な母屋と洋館が並んで見える。屋敷の南に「南荘」、北に「北荘」があり、母屋の北東にはお花畑があった。●母屋には新平、和子夫人、新平の母親利恵、新平の姉椎名初勢が住み、洋館は来客用に利用。「南荘」には鶴見俊輔と父祐輔、母愛子、姉和子(姉は母屋で過ごすことが多かった)、「北荘」には新平の弟一家が住んだ。新平の長男一蔵一家も屋敷内に住んでいた(場所不明)。●ほかに2人の執事、常時数人の秘書と書生たち、門番、運転手、女中たち、園丁(庭師)の老人等が常駐していた。●椎名家の養子となった東大法科に通う椎名悦三郎が時々遊びに来た。少年団(ボーイスカウト)の少年たちに時々庭を開放していた●鶴見祐輔は、月1回「火曜会」を主催し、日銀理事や中世史家、新聞記者、満鉄理事、徳富蘇峰等を講師にし、「南荘」に移った初回の講師が島崎藤村。さらに有島武郎、小山内薫…。●関東大震災の時は、敷地内に約1000人もの被災者を受け入れ炊き出しを行なっている。●当時この地域を担当した新聞配達青年の手記によれば、新聞は5紙、牛乳を15~6本とっていたという。●1923(大正12)2月、革命ロシアとの国交樹立路線に転じた後藤新平に反発する「赤化防止団」の右翼が2度にわたって邸内に押し入り、家財等を破壊。一蔵が負傷した。4歳の鶴見和子は眼前でそれを見た。

◇ 邸宅取得の経緯と、邸宅のその後
 鶴見祐輔の『後藤新平』という書物に、邸宅取得の経緯について、後藤新平自身が寺内内閣の内務大臣だった1918年(大正7)3月の衆議院で、質問に詳細に答えている場面が載っている。これも要約すると以下のとおりである。
《現在の7千坪の宅地は明治28年に安場(妻和子の父、胆沢県大惨事だった人)が1万円で購入し、それを譲り受けたもの。今は35万円の値打ちがある。(江戸時代の麻布は辺鄙な田舎だったが、次第に開発が進み、明治後半になってどんどん地価が上昇していった。ちょうどその時期に手に入れたもようだ)後藤の死後、正力松太郎によればその土地はその後50万で売れたという。あと5万円が借財で残っていた。
 その後、この土地はどうなったか。跡継ぎの長男一蔵は、広大な土地の売却を決意。ただし土地をいくつかに切り分けて遺族に残した。鶴見家には北東の「お花畑」、一蔵一家は「南荘」を継承し、それ以外のほとんどはまとめて売却。しかし世界恐慌にさしかかった時代で、すぐには買い手がつかず、しばらくは徳川義親侯に借りてもらった。(読売新聞の正力に貸した10万円も実は徳川侯爵からの借金だった)やがて満州国とのつながりで売却し、満州国大使館となった。戦後そこが中華民国大使館となり、さらに現在の中国大使館に引き継がれることになったのである。従ってかつての大邸宅は、現在の中国大使館の敷地だけではなく、周辺ビルやマンション棟も含まれていたということになる。グーグルマップで見ただけだが、一度は当時に想いを馳せながら現地見学したい場所ではある。

◇ 親族に著名な左翼活動家や学者
政治学者の前田康博は、後藤新平を一言で言うと「初期帝国主義時代の国士的政治企業家」と表現する(『現代日本思想大系』10)。明治から昭和初期にかけ、実に多方面にわたって活躍した政治家ではあるが、外交面で反米親ソの姿勢を貫いたとは言え、日本の政治の中枢に君臨した内務官僚であり外交官、植民地経営者であり、都市計画家。そんな後藤新平の身内には、外務大臣や自民党の総務会長・副総裁などを歴任した椎名悦三郎は別としても、親族に著名な左翼活動家や学者が多いのは何とも面白い。以下、すべてが親族・左翼というわけではないが、見てみよう。まずは大杉栄の訪問。
◇ 大杉栄の訪問 後藤が内務大臣の在任中に、無政府主義者で労働運動家の大杉栄が度重なる雑誌発禁処分等で生活に窮し、突然麻布の大豪邸後藤邸を訪問して、こんなやりとりをした。
大杉「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか。」
後藤「あなたは頭が良く、いい腕をお持ちと聞くが、なぜそんなに困ってるのかね。」
大杉「政府が僕らの仕事を邪魔するからです。」
後藤「で、特に私のところへ無心に来たわけは。」
大杉「政府が僕らを困らせるんだから、政府に無心に来るのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かるだろうと思ってきたのです。」
後藤「そうですか。分かりました。」
というやりとりをして、後藤はその場で300円(今の30万位か)を大杉に手渡した。
 しかし、大杉栄は関東大震災直後に、多くの朝鮮人らとともに憲兵隊特高課によって殺害された。
◇ 佐野学と佐野碩 獄中転向をした日本共産党中央委員長佐野学は、後藤新平の女婿佐野彪太(医師)の弟で、東京帝大で学び、日本勧業銀行に勤めた後、後藤の紹介で満鉄東亜経済調査局に入り早稲田大学講師となった。1922年に日本共産党に入党し、翌年の大会で執行委員に選出されたが、警察の検挙を逃れてソ連に亡命。その際、後藤が亡命を援助している。やがて帰国して共産党を再建し、鍋山貞親とともに党を指導した。1928年の3.15事件でもその前日に訪ソし、一斉検挙を逃れた。しかし後藤新平死去直後に中国・上海で検挙され、治安維持法違反で無期懲役の判決を受けた。獄中で鍋山とともに転向声明を発表し、1943年10月に出獄した。佐野碩は「インターナショナル」の訳詞者でもあり、共産党系の演劇人。佐野彪太の長男で、後藤新平にとっては初孫だったため可愛がられ、後藤は「自分の孫がマルクス主義者として大正時代、女装して逃げ回っていたんだから、おもしろいじゃないですか」と言っていたという。後藤死去後に治安維持法違反容疑で逮捕されたが、父彪太らの裏工作で特別に起訴猶予で保釈された。その後演劇人千田是也から誘いを受けヨーロッパにわたり、日本には戻らなかった。片足が悪くいつも杖をついていたが、″逃げ足の速いやつ“と言われていた。
◇ 平野義太郎 後藤新平の岳父(妻和子の父)である安場保和の孫娘、後藤にとっては義理の姪の嘉智子の夫が平野義太郎。彼は一高時代、鶴見祐輔の弟で外交官になる鶴見憲(鶴見良行の父)と同期で同じ弁論部。鶴見祐輔が自宅で開いた「火曜会」にも出席していた。東京帝国大法学部を出て、助手から東大助教授になり、ドイツのフランクフルト大学に留学。後藤新平の死後に帰国し、佐野碩と同様に治安維持法違反容疑で検挙された。その後、鶴見祐輔の下で後藤新平の正伝『後藤新平』(全4巻)の編纂に参加。また鶴見和子・俊輔らと『思想の科学』発行にかかわり、日中友好協会や日本平和委員会などの役職に就いた。
◇ 鶴見和子と鶴見俊輔と鶴見良行 後藤新平の娘婿の鶴見祐輔の長女と長男である。両人とも幼少期から麻布の後藤邸で育ち、社会学者になった鶴見和子は成城学園から女子学習院に学び、弟俊輔と同じ時期にアメリカの大学に留学している。上智大学で国際関係論を講じ、南方熊楠や柳田國男研究で知られる。(世田谷成城の柳田邸の真向かいに住んだことがあり、しばしば交流があったためだろう。)『思想の科学』にも関わり、また一時日本共産党にも籍を置いていたが、一方では皇室とも縁があり、学習院の学友として特に美智子皇后さまとの深いお付き合いがあったという。弟の哲学者鶴見俊輔は少年時代に多感な反抗期を迎え、相当に周囲を困らせ自己葛藤があったようだ。60年安保では「声なき声の会」を組織し、ベトナム戦争期には小田実らと「ベ平連」を組織し活発に反米運動を行なった。鶴見俊輔については、『新潮』2017年7月号と10月号の「鶴見俊輔伝」に詳しい。アジア学者・人類学者の鶴見良行は、鶴見祐輔の弟の外交官鶴見憲の息子で、和子・俊輔姉弟の従弟である。ロックフェラー財団から資金提供を受けながらも、堂々と「ベ平連」活動に参加したため波紋を呼んだ。秋篠宮文仁親王は鶴見良行ファンで鶴見良行に直接教えを受け、強い影響を緒受けたという。
◇ 宮本(中條)百合子と後藤新平 後藤新平が福島・須賀川時代に安積の開拓場で中條政恒という典事(主任クラスの官職)に会い、土木技術の指導を受けている。後に後藤が大規模な土木工事や都市開発に強い関心を持つようになったそのきっかけを与えた人物の一人という。この中條政恒の孫が作家の中條百合子、後の宮本百合子(昔の日本共産党委員長の妻)である。小説『二つの庭』という作品に、後藤新平が「藤堂駿平」、百合子の父の精一郎が「佐々泰造」という名で登場する。後藤家と中條家のお付き合いを小説にしたものらしい。いつか読んで見ようと思う。

◇ 後藤新平と杉原千畝と加藤登紀子 後藤新平が初代総裁を務めた満鉄(南満州鉄道)は鉄道事業を中心に、さまざまな事業を展開した、いわば植民地経営の特殊な国策会社である。「満州経営便下井概」に「戦後満州経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、鉄道経営に加え、炭鉱開発、製鉄業、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル、航空会社、さらには学校、病院、図書館や電気、ガス、上下水といったインフラ整備も行った。
 そのうちの学校に1つ、哈爾濱(ハルビン)学院(前身は日露協会学校)は、1920年(大正9)に日露協会会頭の後藤新平の肝煎りでハルビンに設立され、1939年(昭和14)には満州国に移管され満州国立哈爾濱学院となった。建学の目的は満州およびロシア外交において活躍する有能な人材を育成することにあった。1945年(昭和20)の終戦とともに廃校となった。この間に輩出した学院生は1412名。その多くは当時の日本の政策に寄与し、終戦直後はシベリアに抑留されたが、引き上げ後は日露復興の主導力になったという。このハルビン学院の建学の精神は、自治三訣で「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」だった。この額が講堂兼体育館に掲げられ、朝礼や集会時にはみんなで大声で唱和したという。
 さて、このハルビン学院の第一期生に、あの6000人の「命のビザ」発給で有名な杉原千畝がいた。ナチス・ドイツの迫害から逃れ、リトアニアで日本経由のビザを発給し続けた人物である。彼は元々早稲田の学生だったが、生活が苦しく、官費留学の新聞記事を見てハルビン学院に入学してきた。ロシア語がとても優秀で、卒業後は何年かこの学校で教師を務めた。その彼からロシア語を習ったのが10期生の加藤幸四郎という京都からの留学生で、卒業後は満鉄に勤めた。ハルビンで結婚し生まれたのが、後に歌手となった加藤登紀子である。幸四郎は戦後キングレコードに勤め、一時「月の法善寺横丁」で有名になった藤島恒夫のマネージャーになり、「藤田まこと」の名付け親だという。こうした父親の影響からか登紀子は後に歌手になったが、東大に入学したものの、学生時代は学生運動に没頭した。その学生運動で知り合ったのが藤本敏夫で、学生運動がらみで中野刑務所に収監され、加藤と獄中結婚したことで話題となった。この藤本は新聞記者を目指して同志社大学の新聞学科で鶴見俊輔のゼミを受け、研究会等でも大きな影響を受けたという。
藤本は保釈後、有機農法実践家となり、1976年に藤田和芳と一緒に「大地を守る会」を立ち上げた。この藤田和芳はなんと、偶然にも岩手県の胆沢町(現:奥州市)出身である。
 最後のもう一度杉原千畝について。杉原はまことに以て「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」の自治三訣を決死の思い出実践した人物であった.。しかし戦後になってからも、そうしたことは一切口にせず、むしろ外務省訓告に違反したということで、不遇の後半生を送ることになった。杉原の人道的行為は長い間語られることがなかった。しかし世界中に散らばったユダヤ人たちは杉原を命の恩人として語り継ぎ、イスラエル政府から日本人で唯一「正義の人」として賞を受けますが、その翌年この世を去りました。2000年になってようやく日本政府の外務省も、杉原の功績を認め、これまでの待遇を謝罪。こうして彼の功績が世に知られるようになりました。2011年の東日本大震災後に、多くにユダヤ人から寄付や支援が贈られたのも、杉原に命を救われた恩返しだったそうです。ちなみに、この杉原千畝の妻幸子は岩手県出身。菊池幸子自身は静岡で生まれるが、父文雄は遠野出身。祖父は遠野神社の宮司だったそうだ。どうも幸子の兄の紹介で杉原と知り合い結婚したようだが、詳細は不明です。どなたか調べてみてくvださい。
 「後藤新平」シリーズの最後の最後に、後藤新平についての手ごろな書籍は、
北岡伸一『後藤新平―外交とビジョン』中公新書
郷仙太郎『小説後藤新平―行革と都市政策の先駆者』学陽書房(人物文庫)でしょう。

※日付が変わってしまいました。文章のチェック・校正ができていません。
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研究員 高橋正吾
次回5月連休明け頃(日にち未定)に掲載予定 <アテルイ・モレ物語の英語版>

※「後藤新平シリーズ」のあとは、「アテルイ・モレ物語の英語版」(もう完成しております)、「顕彰碑建立の秘話(?)」、「京都の世界歴史遺産17寺社・史跡の国際化対応の実態」、「清水寺はなぜ古くから人々を引き付けてきたのか―その歴史地理学的考察―」、等々を検討中です。


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後藤新平の話 3

 当分の間、「顕彰碑説明文の外国語版」はお休みさせていただきます。交渉・依頼済みのベトナム語とロシア語が私の手元に届いておりませんし、タイ語・アラビア語はまだ交渉ができていないからです。もう少し時期を見て、いずれ再開したいと考えております。
「後藤新平シリーズ」のあとは、「アテルイ・モレ物語の英語版」(もう完成しております)、「顕彰碑建立の秘話(?)」、「京都の世界歴史遺産17寺社・史跡の国際化対応の実態」、「清水寺はなぜ古くから人々を引き付けてきたのか―その歴史地理学的考察―」、等々を検討中です。(高橋)

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後藤新平の話3
もう少し後藤新平のお話です。
◇ 大風呂敷 後藤新平は、台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任し、行政改革者、都市政策の先駆者として知られるが、打ち出す構想があまりに大きかったので「大風呂敷」とあだ名がついた。関東大震災の時に内務大臣(帝都復興院総裁を兼務)に就任して帝都の復興を指揮したのも後藤であるが、この時に打ち出した帝都復興計画もあまりにもスケールが大きいため「後藤の大風呂敷が始まった」と言われた。しかし結果的にガレキと化した帝都をいち早く復興させたため「後藤でなければあれだけ早い復興はできなかった」と言われたのである。
◇ 徹底した調査 こうした後藤の行政改革者、都市政策の先駆者として手腕の基礎は、徹底した調査にあった。それは衛生局時代も、台湾でも、満州でも、帝都の復興事業でもいかんなく発揮された。彼ほど調査に力を入れた政治家はいないだろうと言われる。当時のジャーナリスト徳富蘇峰などは後藤を「まるでカバンのように、調査を身にまとって歩く」と評した程である。例えば、内務省衛生局に入った最初の大仕事は、1883年(明治16)4月から6月にかけて行われた新潟・長野・群馬3県の衛生状態の視察で、その際、あらかじめ詳細な質問表をつくり周到に準備を重ねた。その地方に住む人の飲食物、嗜好、衣服、夜具、家屋、清潔、運動、身体の大小、気力、体力の強弱、長寿家の増減、老後の強弱、結婚の遅早、子供の生育の良否、伝染病の増減、緒病の増減、草木菌類の有毒状況、売薬需要など必要と思われる項目はすべてあげて入念に調べた。
 後藤は1890年(明治32年)満32歳の時にドイツに留学するが、ドイツの国勢調査の調査、集計、作業などの実態について詳細に研究し、様式なども日本に持ち帰った。その後ドイツ統計局長を訪問した日本人に対して「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平一人だ」と語ったとされる。
◇ ビスマルクから励まされ 後藤はこのドイツ留学のときに、当時すでに政権から追われていたビスマルク(統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相)と面会することも出来た。自分の著者「衛生制度論」を贈呈ししばらく観談した。するとビスマルクは「お見受けしたところ、あなたは医者というより、政治に携わるべき人物だ。日本に帰ったら医学上はもちろん、政治上でも十分活躍してください」と言われたという。欧米列強の狭間で国家を統一したビスマルクの強力なリーダーシップに以前から感銘を受け尊敬していた後藤は、この言葉に大いに励まされたようだ。日本に帰国すると彼は衛生局長に就任する。満36歳の時であった。
◇ 新渡戸稲造の登用 後藤は人材登用のプロでもあった。台湾でも、満州でも、帝都復興でも、若くて能力があれば思想や、学閥・派閥にとらわれずにどんどん人材を発掘して登用していった。例えば、アメリカから5歳年下の新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を、執務室にベッドを持ち込むなどの特別待遇で結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局心得、臨時台湾糖務局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの栽培に大きな成果を残した。
◇ 制服好き、現場主義 鉄道院総裁となった後藤の政策で大きな話題になったのが、鉄道員の制服制定。海軍士官と見間違うような制服には批判もあったが、彼はこれを強行し全員に着用させた。元々彼は制服好きで、台湾総督府時代にも制服を制定して物議をかもしたようだ。これ程制服にこだわったのは、服装費用の節約、機動性、安全な点もあるが、現場第一主義を象徴するもので、そして何より組織の士気を高める点にあったという。そう言えば後藤のボーイスカウト姿が目に浮かぶ。
 また元衛生局長らしく、職員の健康に留意し、病院を建設し、衛生環境を重視した。地方視察の時もいきなり風呂場に踏み込んで入浴中の職員を驚かせたり、便所を覗いたりするのが常だったという。また職員のために共済組合をつくり、日本的経営、特に企業一家主義のさまざまな工夫を導入した。
◇ 「速・確・明」「ゴトゴトしてシンペイだあ」 この鉄道院総裁時代の彼の執務の要諦は、『速・確・明』にあるとして、適材適所のスピード経営、現場第一主義を信条とし、鉄道独立会計の制定、経費節減、制服制定、鉄道電化計画の推進、職員教習所の設立など矢継ぎ早に実行していった。しかし一方では経費削減のため、総裁在任中に3次にわたって合計8,000人以上の人員整理をしたため批判も強く、「汽車がゴトゴト(後藤)して、シンペイ(新平)だあ」と、揶揄された。今、JR九州の肥薩線に彼の名をとった「しんぺい号」が走っている。「日本三大車窓」の絶景と、ループ・スイッチバックで知られる貫禄ある列車で、鹿児島の吉松発熊本・人吉行きの上り特急である。一度は乗ってみたいものである。
◇ 関東大震災、その時後藤は… 後藤が東京市長を辞任して5ヶ月後に関東大震災が起こった。その直前、山本権兵衛首相は組閣に難航していた。山本首相は後藤を内務大臣として入閣させたかったが、後藤は日露国交回復が念頭にあったため外務大臣でなければ入閣しないという態度をとり続けていた。そんな時に地震が発生した。1923年(大正12)9月1日午前11時58のことである。後藤は麻布の自宅にいて大勢のマスコミ関係者に囲まれていた。突如の地震に「これは大きいぞ」と皆の足が浮足立った。時間がたつにつれ大変な事態であるとこが分かってきた。昼時間ということもあり、東京や横浜の各地で火の手が上がり、それは夜を徹して燃え上がった。この惨状を目の当たりにして「外務大臣だろうが内務大臣だろうが入閣するしかない」と決意し、「無条件で入閣する」と山本首相に連絡し、内務大臣(帝都復興院総裁も兼任)で入閣した。9月6日の閣議で早くも「帝都復興の議」を提出している。
◇ 日本最初の公民館 奥州市の水沢に日本で最初の公民館がある。「後藤伯記念公民館」である。
1941年(昭和16)11月3日に、正力松太郎読売新聞社長(当時)が、後藤新平伯13回忌に当たり、故人に対する旧恩感謝の心で水沢町(当時)に寄贈したものである。館名の選定は椎名悦三郎商工省総務課長(当時)によるものだという。正力はなぜ寄贈したのか。正力が大正12年の虎ノ門事件で懲戒免職になった後、読売新聞社の経営に携わることになり、長岡温泉にいた後藤に
資金の工面を願い出た。後藤は「わかった。新聞経営はなかなか難しいそうだ。もし失敗したら、お金は返さなくてよろしい」と言って快諾してくれたのだった。しかしそのお金は、麻布の土地を担保に借金して調達してくれたもので、正力はこのことを10余年の後、後藤の死後になって初めて知り、昭和になって後藤ゆかりの水沢町に借りた金の2倍近い金を寄付したのである。ちなみに、この麻布の土地は、現在中国大使館になっている。
◇ シチズン時計 後藤と親交のあった社長から新作の懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」という意味を込めてCITIZENの名を贈った。このシチズン時計はやがて会社名にもなった。戦時中は敵性語規制により「大日本時計株式会社」へと社名変更を余儀なくされたが、戦後「シチズン」に復活し、「セイコー」に次ぐ第2に会社へと成長した。

◇ 後藤新平名言集
 「個々の病人を治すより、国家の医者となりたい」(医者から官僚そして政治家になった理由について語った)
 「妄想するよりは活動せよ。疑惑するよりは活動せよ」
 「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」(後藤新平が、まだ30歳にもみたない青年堤康次郎(西武グループ創業者)に言った言葉。この後藤のアドバイスで軽井沢の開発をしたことが西武王国を築く土台となった)
 「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならない」
 「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」(自助・互助・自制の自治三訣。日本ボーイスカウトの初代総長になった後藤が、晩年各地をまわりながら説いた言葉。)
 「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚ておけ。」(病に倒れた日に残した最後の言葉)

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研究員 高橋正吾
次回4月22(日)夜頃に掲載予定 <後藤新平の話4>

※「後藤新平シリーズ」のあとは、「アテルイ・モレ物語の英語版」(もう完成しております)、「顕彰碑建立の秘話(?)」、「京都の世界歴史遺産17寺社・史跡の国際化対応の実態」、「清水寺はなぜ古くから人々を引き付けてきたのか―その歴史地理学的考察―」、等々を検討中です。
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顕彰碑説明文(省略)、後藤新平の話2

顕彰碑説明文、ロシア語版(翻訳できていません)
 前回のベトナム語と同様に、ロシア語の翻訳もできておりませんので、残念ながら掲載ができません。またの機会にしたいと思います。また、ここ2~3日、体調を崩して投稿が遅れてしまいました。申し訳ありません。(高橋)
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西郷どんのつながりで、後藤新平の話2
 清水寺や西郷どんの話からまたまたそれて、後藤新平のお話です。と言っても、私は後藤新平を論ずるような研究者でもなければ、政治史の専門家でもありません。ただ、地元の水沢(現、奥州市)では、後藤新平は高野長英、斎藤実と並んで「水沢の3大偉人」とか「3傑」とよばれ(今もそうした言い方をするのかどうかは知りませんが)、おまけに高校時代の同じクラスに後藤
新平の親戚の後藤君(現在奈良県に在住)や新渡戸君、郷古君など有名人の名を冠する友人が何人かいたこともあって、高校生の頃から山崎為徳(同志社の新島襄の協力者)や箕作省吾(箕作阮甫の養子、地理学者)らも含め、そうした偉人にいたく興味や関心を持っていたのは確かでした。
 よってここでは、政治家あるいは外交・都市政策のエキスパートとしての後藤新平を論じるのではなく、いくつか本などから、面白いな、へえ~と思った点を何点か逸話(エピソード)的にピックアップしようと思います。
 その前にまず、簡単に彼の主な経歴を概観しましょう。(満年齢で換算)
 安政4(1857)陸中国胆沢郡塩釜村(現、奥州市水沢区)に生まれる。
 明治4(1871)14歳 上京して荘村省三の書生となる この頃、西郷吉之助に出会う
 明治14(1881)25歳 愛知医学校長兼愛知病院長
 明治15(1882)25歳 岐阜で遭難の板垣退助を治療
 明治23(1890)33歳 ドイツへ私費留学(コッホ・北里研究室で研究、ビスマルクに会う)
 明治25(1892)36歳 内務省衛生局長
 明治31(1898)41歳 台湾総督府民政長官
 明治35(1902)46歳 欧米視察
 明治39(1906)50歳 満鉄創立、初代の総裁
 明治40(1907)50歳 清国皇帝、西太后に謁見、袁世凱と会談
 明治41(1908)51歳 モスクワ訪問、第2次桂内閣で逓信大臣、鉄道院総裁兼任
 大正元年(1912)56歳 第3次桂内閣で逓信大臣兼鉄道院総裁兼拓殖局総裁
 大正5(1916)60歳 寺内内閣内務大臣兼鉄道院総裁
 大正7(1918)61歳 外務大臣
 大正8(1919)62歳 拓殖大学総長、欧米視察
 大正9(1920)64歳 日露協会会頭に就任、 東京市長に就任
 大正11(1922)66歳 少年団(ボーイスカウト)日本連盟総裁(のち総長)
 大正12(1923)67歳 第2次山本権兵衛内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁
 大正13(1924)68歳 東京放送局総裁
 大正15(1926)69歳 政治の倫理化運動を始める
 昭和2(1927)71歳 ソ連訪問
 昭和4(1929)72歳 死去
 こうした多分野にたる活動と豊かな発想・足跡を振り返ってみるだけでも、単に一政治家の「波乱万丈の生涯」という形容だけでは納まりきれない、当時の首相の何倍もの業績や教訓を後世に残したという点では、もっともっと注目されてもいい政治家だろうと思います。

◇ 板垣退助遭遇事件 明治13年に、まだ23歳の若さで公立愛知病院長兼医学校長心得となり、翌14年10月には25歳で正式に愛知県医学校長兼病院長になっている。あまりの若さのためしばしば代診と間違えられたという。頬から顎にかけて虎髭を生やすようになったのは、そのためだといわれる。この時期の逸話で最も有名なのは、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した板垣退助遭難事件だろう。遊説中の板垣が岐阜で凶漢にさされ、自由党とのかかわりを恐れて進んで診察する者がなかったとき、乞われて名古屋から夜中に人力車で岐阜まで駆け付けたのが後藤であった。その後藤の献身的な態度に板垣はいたく感銘を受けたという。
◇ ドイツ留学 東北の片隅で細々と医学を学んだ後藤にとって、ドイツ留学は10年以上の夢であった。この留学で、西洋文明の有効性・先進性・普遍性に強い感銘を受け、特にドイツの衛生行政と社会政策の進歩に感動し、同時にビスマルクの政策や思想にかなり夢中になった。しかし一方、会話がとても苦手で外人と交わることを極力避け、しまいにはホームシックにかかり、米の飯が食いたいとか梅干しが食いたいと言ったり、もう役人はやめて帰国すると言い出したりして周囲を困らせたともいう。
◇ 性格・風貌 台湾時代の後藤は、身長163.6cm、体重72.4㎏、今日では短身肥満な方だが当時としてはなかなか堂々たる体格だったという。しかも彼は健康が自慢で精力絶倫。就寝が12時、1時を過ぎても必ず朝は4時ないしは4時半には起き、早朝の散歩を楽しむのを日課としていた。酒はほとんど飲まず、よく食べ、いつもエネルギーに満ちあふれていた。また彼は眉目秀麗で色白タイプだったが、名古屋時代にはそれを隠すために大げさな関羽髭を生やしたのだという。この関羽髭はむさ苦しく評判が悪かったが、ドイツ時代に友人のいたずらで刈り込まれ、当時ドイツの最新流行だったスピッツバルト(尖り髭)になって、これが意外によく似合ったので、その後はこの髭を変えず、2日に1度は床屋で手入れしたという。さらに台湾時代には、やはり最新流行の鼻眼鏡をかけるようになった。服装もかなりおしゃれであった。那須川の学生時代は貧困のためかなり汚い身なりだったが、名古屋時代から服装に凝りだし、衛生局時代にはやや「田紳風」、ドイツ時代もバンカラ風であったが、台湾時代になるとすっかり板につき、勲章を着用して正装するとなかなか立派だった、という。ただ彼は「本格的なおしゃれ」「洗練された」風ではなく、基本的には野人で、単に「新しいもの」「珍しいもの」「金ピカ」が子供のように好きだったのだ、という。
◇ 新しいもの好き 例えば自転車。当時台湾に2~3台しかなかった頃、早速これを取り寄せて、早朝に夫人とともに乗るのを日課にした時期もあった。そして蓄音機の導入と普及。後藤は唱歌「新高山」「世界の友」を自作し、私費でアメリカ・コロンビアにレコードを製作させ、これを取り寄せて台湾全島に配布したという。そして活動写真。これもアメリカから取り寄せ、台湾各地で映写して歩かせた。活動の弁士を命ぜられたのは総督府の高官だったという。
◇ 話ベタ、演説ベタ 後藤は、新しいアイディアを生み出すことは得意だったが、それを整理し説明することは苦手であった。彼の意見書の多くは、大げさな表現と、冗長な言い回し、論理的飛躍に満ちていて、極めて読みにくいものだったという。彼のコミュニケーションベタの最たるものは演説で、同時代の政治家の中でこれ程演説のヘタな政治家も珍しいという程、演説はヘタだったという。また彼は、よく人を怒鳴りつけたがその後はケロッとしていたとか、部下に思い遣り深いところもあり、困難な仕事を命じた若い部下が復命に来たとき、一所に風呂に入ってその労をねぎらった、という話がたくさんあるという。
◇ 拓殖大学学長 大正8年(1919)拓殖大学の第3代学長に就任。この大学の前身は桂太郎が創立した台湾協会学校。後藤は台湾総督府民政長官時代から、たびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面で支援していた。そして亡くなる昭和4年までの10年間学長を務め、今日の拓殖大学の基礎をつくった。学内での様子は、当時の記録に「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」とあり、学生たちから慕われていたことが伺える。当時の彼の邸宅は本郷1丁目の神田川沿いの元町公園(東京の超難関女子進学校の桜陰中学・高校(「このハゲー!ちがうだろ!」で有名になった豊田真由子元議員やタレントの菊川怜の出身校でもある)のすぐ近く)にあったという。                    (つづく)
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研究員 高橋正吾
次回4月15(日)夜頃に掲載予定 <後藤新平の話3>
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顕彰碑説明文(省略)、補足4(後藤新平と西郷どん)

顕彰碑説明文 ベトナム語版(翻訳できていません)
去る2月17日に園田学園女子大学で開催されたスピーチコンテスト後の交流会で、ベトナム語版をベトナム、フエ出身の留学生グエン君に、ロシア語をロシア、ペルミ出身の留学生エレーナさんにお願いしたのですが、期限(3月30日)を過ぎても、私のパソコンにまだ届いていません。よって今回は、ベトナム語版の掲載ができません。たぶんロシア語も…。グエン君などはコンテストで、「私ハ、大学ニ通イナガラ、飲食店デアルバイトヲシテイマス。オ店ノ親方ガ、挨拶ヤ言葉ヅカイニトテモ厳イデス」とスピーチしていましたので、恐らく今頃“厳しい親方”にしごかれていて、とても翻訳どころではないのかもしれません。後日掲載する予定です。 がんばれ!グエン君。最優秀賞を獲得されたエレーナさんはもう忘れているかも…。(高橋)
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 補足4  後藤新平の「西郷吉之助に会った話」
 アテルイ・モレや清水寺には関係ありませんが、この際西郷どんに関わる話題をもう一つ…。
まだ書生だった後藤新平が、道すがら西郷隆盛に会ったときの回想話です。

『文芸春秋―12月特別増刊号・永久保存版―』(西郷隆盛を知る)という雑誌の中に「文芸春秋に残された西郷秘話1、西郷吉之助に会った話」(後藤新平)という見開き2ページのエッセイが出てきます。かなり昔の『文芸春秋』1926年6月号からの再録編です。
1926年という年は年末の12月25日から昭和元年になりますから、出版された6月はまだ大正時代(大正15年)ということになります。
 さて、この『文芸春秋―12月特別増刊号』の本文冒頭のリードには次のようにあります。
  後藤新平(1857―1929)氏は岩手県生れの政治家。
  1898年より児玉源太郎総督の下で台湾総督府民政長官を務めた。
  その後内務大臣、外務大臣などを歴任し、
  関東大震災後に帝都復興院総裁として都市復興に尽力した。
  これは書生時代に見た西郷隆盛の思い出を綴ったエッセイ。

 では早速、少し長いですが後藤新平が綴った本文を引用します。( )内は高橋のコメント。
   自分が会った人のうちで、江戸に関係ある二人の英雄を覚えている。その一人は南洲(西郷隆盛)で、いま一人は勝安房(勝海舟)である。この二人は、東京市民が永久に忘れてはならない恩人であると、自分は思っている。
   明治4年ごろであった、自分は、龍の口の細川侯藩邸内―今の和田倉門と呉服橋の間(東京駅赤レンガ駅舎北に続く丸ノ内ホテル、丸の内オアゾ付近にあった)に、起臥していた。それは太政官の少史、荘村省三という人の食客(書生のこと)になっていたのである。荘村氏が太政官に出勤する時に、いつも供をして往った。丁度、15歳のことである。朝は供をして見送り、午後はお迎えに行って、ついて帰ってくるのがやくめであった。
   ある日、荘村少史が、昼過ぎに出勤した。いつもの様に自分は供をしていった。和田倉門を入って、坂下門の方へ行こうとするところ(東京駅前の皇居外苑付近)は、大名屋敷が両方にあった。それは暑い7月の晴れた日であった。その辺に差しかかると、むこうから、大きな男が、供を一人連れて、歩いてきた。供というのは、当時は若造といって、大てい14・5から20位の書生であった。ところがこの大男の供は、30ぐらいで、袴なしで、背割羽織をきて、股引を穿いて、尻をはし折っていた。
   すると、主人の荘村少史が三歩ばかりこちらで、下駄をぬいで、下駄の上に足をあげて、お辞儀をした。……中略……
   すると、むこうから来た大男は、荘村少史の方をむいて、ニッコリ笑って、
   「お暑うごんすな」
   といって、すたすた行き過ぎた。自分は、ぼんやり主人の後に立ったまま、不思議な男だ、不思議なお辞儀だ、と思っていた。すると荘村少史が
    西郷吉之助
  と、自分の耳にささやいた。自分は、はっと思って、過ぎゆく大男の後姿を見送った。そのとき西郷さんは、薄色の背割羽織に、短い袴、下駄ばきという姿で、大小(の刀)を指し、両手をぶらりと、さげていた。大男で、色は九州人としては白い方だという印象をうけた。大きいはっきりとした眼に、愛嬌があった。太い眉毛が、いまも眼に残っている。お暑うごんすな、といったときに、非常に懐かし味があったように覚えている。
   後年、西郷従道さんに、この話をして、
『あなたよりは、下顎が大きく張っていましたね』
と言ったら、従道さんも、
『そうです』
と言われた。 ……中略……
 それから間もなく、西郷さんは、薩摩へ帰ってしまった。それが、西郷さんの東京引上げであったのである。この日の邂逅は、まことに瞬間のことであったが、子供心に自分は、生涯忘れられない印象をうけた。

 この話は、明治4年7月の頃のことです。
 明治4年はどんな年だったのか、高校の日本史資料集から拾ってみると、
  2月 薩長土3藩の兵1万人を徴集し、親兵を編成
  5月 新貨条例を制定(円、銭、厘を採用)
  7月 廃藩置県を断行(御親兵の武力が背景にあった)
   同 官制改革(今の内閣制度)を行ない、三院制(正院・右院・左院)をとり、太政官の権限を強めた。ここで西郷は、正院(立法・行政・司法のすべてにわたる国政の最高機関)の参議を務めた。(西郷、木戸、板垣、大隈の4人で構成)ちなみに薩摩藩の大久保利通は右院下にある大蔵省の卿(=大臣)、寺島宗則は外務省の大輔(=次官)、黒田清隆は開拓使の次官となっている。
   同 日清修好条規調印
  10月 岩倉使節団の派遣を決定(翌11月に出発) とあり、
 翌明治5年になると、福沢諭吉が『学問のすゝめ』を出し、明治政府の3大改革と言われる地租改正、徴兵制、学制が行なわれ、新橋―横浜間に鉄道が開通し、官営の富岡製糸工場が開業しています。
 こうして見ると、45歳だった西郷が、まだ弱冠15歳の書生後藤新平に会ったのは、新政府がちょうど廃藩置県を断行し、官制改革を行なった時期で、いよいよ新政府が諸改革に乗り出していった、何ともあわただしい時期だったのです。
(次回は、後藤新平の話をしましょう)
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研究員 高橋正吾
次回4月8(日)夜頃に掲載予定 (西郷どんに会った後藤新平の話)
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顕彰碑説明文(韓国語版)、補足3-4(西郷どんと清水寺4)

顕彰碑説明文(韓国語版)
訳 ソン ジュヨン(孫柱然)
園田学園女子大学 留学生
 出身地 大韓民国 仁川
성명 손주연
소노다학원여자대학
출신지 대한민국 인천


현창비에 대한 설명
동북의 북상(키타카미)강 유역은, 8세기 말경까지는 일고견국(히타카미쿠니)이라고 전해지는 다이와(야마토)조정의 세력권 밖에서 독자적인 생활과 문화를 형성하고 있었다.
조정은 불복하는 동북 인민을 에미시라고 부르고 멸시하며 경략을 위해 몇 번이고 다수의 정동군(동방을 정벌하기 위한 군대)을 동원했다.
이사와(이와테 현 미즈사와 시 지방)의 수령 타모노키미 아테루이는 인근 부족과 연합하여 조정군의 침략을 강력히 저지했다.
특히 에미시군은 789년 스부세 전투에서 용맹하고 과감하게 분투하여 정부군에 엄청난 피해를 줬다.
801년, 사카노우에노 타무라마로는 4만 군대를 이끌고 이사와를 침공하여 에미시를 항복시키고 그곳에 이사와 성을 쌓았다.
아테루이는 십수 년에 걸친 격전에 피폐해진 향민을 우려하여, 동포 500여명을 거느리고 타무라마로군에 항복했다.
타무라마로 장군은, 에미시의 두 영웅의 무용과 재능을 아까워하여 아테루이와 부장 이와구노키미 모레를 데리고 교토에 돌아와, 동북 경영을 위해 채용할 수 있도록 정부에 구명 탄원을 했다.
그러나 조정들이 반대하면서 아테루이와 모레는 802년 8월 13일, 가와치 국에서 처형당한다.
평안 건도 1200년 기념하는 해, 타무라 마로의 탄원에도 불구하고 타향의 땅에서 죽은 아테루와 모레의 현창비를 청수사(키요미즈데라)의 특별 후의로 타무라마로에 의해 만들어진 청수사의 경내에 건립한다.
양웅의 명복을 빈다.
1994년 11월 길상일
간사이 탄코우 동향회
아테루를 현창하는 모임
간사이 이와테현인회
교토 이와테현인회

今回の顕彰碑説明文の韓国語版を翻訳していただいた韓国のソン=ジュヨンさんは、去る2月17日に園田学園女子大学で開催された、阪神間在住の留学生らを対象とした「日本語スピーチコンテスト」で特別賞を受賞されました。またインドネシア語のリズカ=フィトリア=サリさんは優秀賞を受賞されています。彼女らに翻訳を依頼した頃(1月下旬)、同大学の国際交流教室で留学生ら数人で一生懸命に日本語のプレゼンを練習しているところを拝見しました。コンテストで「自分の国と日本との架け橋、貿易の仕事をしたい」といった夢をあつく語っていたのが印象的でした。(高橋)
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 補足3-4  西郷どんと清水寺(最終 その4)
清水寺の南苑、「阿弖流為・母禮之碑」から出口に向かうと、すぐ左手に「舌切茶屋」が、さらに進むと「忠僕茶屋」という、ちょっと変わった名前の茶店があります。冒頭で述べた“少し外れた所”で関係のある茶店の話です。
 まず「舌切茶屋」の由来です。
おとぎ話の『舌切り雀』とは全く関係ありません。むしろ凄惨な歴史ドラマが背景にある茶店なのです。成就院には月照上人より3歳年下の近藤正慎という僧侶がおりました。月照上人とともに得度した竹馬の友でした。一度還俗しますが、月照が勤王活動に入るや再び成就院にもどり清水寺を守り月照を助けるなど献身的な役割を果たしました。月照、西郷らが伏見から脱出するのを見届けるや、すぐさま月照の身辺の機密書類等を焼き捨て証拠隠滅をはかるのですが、2人の逃避行を手助けした嫌疑で幕吏に捕えられ、ついに六角獄舎で拷問の日々を送ります。しかし彼はどんな拷問にも屈せず、また月照らがどこへ逃げたのかも口を割らず、とうとう舌を噛み切って自らの命を絶ったのでした。43歳でした。「政治犯の遺族」として残された妻には2人の男の子がいましたが、清水寺はこの遺族の生活を案じ、境内で茶店を開くことを許可したのです。そしていつしか、誰言うともなく「舌切茶屋」と呼ばれるようになったのです。現在はその5代目の子孫の方が営業されています。
 この近藤正慎の子孫には、孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三氏、そしてひ孫に当たるのが俳優の近藤正臣さんです。近藤正臣さんの本名は、母親の嫁ぎ先の姓から川口正臣だそうですが、小さい時から近藤正慎の子孫であることを誇りに思い、近藤姓を芸名にしたといいます。従ってこの「舌切茶屋」は、近藤正臣さんにとっては身内であり親戚なのです。
 もう一つの話題、私たち「阿弖流為・母禮」に関わる者にとっては大変ありがたい感謝すべきお話ですが、すぐ隣にある「阿弖流為・母禮之碑」の台座に腰かけたり寝そべったりする不届きな観光客に対していつも注意され、また石碑の周りをきれいに掃除されているのがこの「舌切茶屋」の方だということをつい最近知りました。何ということでしょう。このことは、アテルイ・モレの関係者だけではなく、岩手の方々にも広く知っていただきたいとても感謝すべきお話しです。これからは清水さんにお参りした際には必ず「舌切茶屋」に立ち寄り、お礼のお言葉とともにその気持ちも込めてお抹茶やお団子をいただこうと思います。この「舌切茶屋」も「忠僕茶屋」も以前は三重塔横の藤棚のところにありましたが、30程前に現在に場所に移りました。
 次に「忠僕茶屋」の由来です。
成就院には月照の下男として働き続けた大槻重助という人物がいました。20代の彼は月照・西郷の薩摩逃避行の全行程に付き添い、錦江湾で小舟に同乗し主人の惨劇まで目撃しています。そして月照の遺体を鹿児島の南洲寺に葬り弔っています。その後、頼りとする西郷まで奄美大島に流されたので、仕方なく遺品を携え京都に戻ってきたところを逮捕され、六角獄舎に繫がれてしまいます。お尋ね者の月照が本当に死んだのかどうか、逃避行の一部始終を知る彼に対する過酷な取り調べと拷問の日々が続きました。この同じ獄中で信海上人(月照の弟)と再会し、その後信海は江戸送りとなり、伝馬町の牢内で病死しますが、このとき重助は信海から後事を託されたのです。そして翌年の安政6年(1859)に釈放され、いったんは故郷の丹波・高津村に帰ったものの、世間の目は冷たく、妻の実家からもらったわずかな手切れ金を元に、清水寺境内に月照の墓守りとして夫婦でささやかな茶店を開くことを許されたのでした。もちろん、開店当初は店の名前もなくかなりみすぼらしい茶店だったそうですが、それから10年の歳月が流れ、王政復古が達成すると、重助は上京してきた西郷隆盛との再会を果たし、やがて西郷従道(隆盛の弟)らから、月照に対する忠義を称えられ「忠僕茶屋」の名前を授かったのでした。成就院には西郷と月照の錦江湾入水時に着用していたであろう単衣と帷子が保管されていますが、これらも重助が持ち帰った遺品とされています。
また清水寺の北総門の北側に月照・信海両僧と西郷隆盛の歌碑が並んでいますが、その手前両横には近藤正慎と大槻重助の碑も並んで立っています。
清水寺では、境内・錦雲渓の桜も咲き始め、ここ1週間でほぼ満開になるでしょう。

幕末という時代の荒波に翻弄され、社会動向に深く関わったがために、むしろ大きな代償を支払わなければならなかった、まさしくドラマのような成就院・清水寺の歴史のお話しでした。
(「西郷どんと清水寺」シリーズは終わり)
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研究員 高橋正吾
次回4月1(日)夜頃に掲載予定 <ベトナム語版、補足4>

注①、4月1日のNHK大河ドラマ「西郷どん」は、「西郷どんスペシャル」が入るようですので、想定した日程が1週間分あとにズレるかもしれません。ご注意を。
注②、「西郷どんと清水寺」シリーズは終わりましたが、次回は西郷どんと接触のあった岩手出身のある有名な人物の回想録を掲載する予定です。
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