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おことわり又はお知らせ、あるいはお詫び

おことわり又はお知らせ、あるいはお詫び
 和賀亮太郎会長の温かい、また寛大なご配慮により、昨年9月頃からほぼ毎週「研究員便り」にアテルイ・モレ関連の記事を投稿してまいりました。最後の方はかなり横道にそれましたが、それもこれも故郷への思い入れ、懐旧の情ということでお許しくださいませ。
 さて、どういう風の吹き回しか、この歳になっていつの間にか兵庫県政・議会に関わる活動をしなければならなくなってしまいました。よって当面の間、「研究員便り」へのアップがかなり不可能となりました。ただそれでも、これまで通り清水さんにお参りし、また関西アテルイ・モレの会の活動にも参加したいとは思っております。毎年11月の慰霊祭へもできる限り参加するつもりですので、今後とも引き続きよろしくお願いいたします。誠に勝手なことで申し訳ありません。
(研究員:高橋正吾)
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追加、後藤新平の話5(最終)、並びにおことわり

後藤新平の話5(最終)、並びにおことわり(お知らせ?お詫び?)

1後藤新平の話5(最終)
 後藤新平のお話のつづきの、さらにつづき(最終)です。
アテルイ・モレの話から→ 清水寺→ 西郷どん→ 後藤新平へと、どんどん話が横道にそれてしまいましたが、岩手水沢の旧友から「面白いことやってるなあ」と連絡をいただいた(きっとこれは“励ましに”違いない!?)のをいいことに、最後に「後藤新平と山崎為徳と京都」についてお話して締めくくろうと思います。もっと正確かつ端的に言いますと「共に京都府立病院に入院し、京都で最期を遂げた水沢の偉人山崎為徳と後藤新平のお話」です。後藤新平はともかく、山崎為徳を知る人は少ないでしょう。知っているなら、恐らく水沢の方か、同志社の関係者、しかもかなりの同志社人の方でしょう。
 山崎為徳について、Wikipediaからの一部抜粋です。
 1857年(安政4)3月、陸奥国胆沢郡水沢に水沢伊達氏家臣の息子として生まれ、藩校の立生館(りゅうせいかん)、熊本洋学校などで学んだのち、開成学校(東京大学の前身)に入学するが、新島襄が京都に設立した同志社英学校の方針に賛同し、1877年(明治10)に転校する。同志社では新島襄の信頼を受け、在学中から後進の教育にたずさわった。1879年(明治12)、郷里水沢の青年たちの招聘を受け、夏季休暇中に帰郷。プロテスタントの教えを説いた。その時、小学校教員をしていた友人の片桐清治に影響を与え、山崎の招きで片桐は同志社に入学するようになった。1880年(明治13)主著『天地大原因論』を発表。同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、1881年(明治14)京都市の新島邸で死去。京都市左京区の哲学の道南端の上、若王子同志社墓地に墓所がある。
 実はこの山崎為徳と後藤新平、斎藤実は、藩校立生館の同級生でした。山崎が熊本洋学校に行くことになったのは、当時の胆沢県参事を務めていた野田豁通や安場保和(後藤新平の岳父)らが熊本出身だったからです。彼はこの熊本でジェーンズという先生に出会い、キリスト教信仰に興味を持つようになりました。この熊本洋学校を首席で卒業し、東京の開成学校に入学したのですが、反キリスト的な学校の雰囲気にもなじめず、遂にこの学校(もう東京大学になっていた)を中途退学して京都の同志社に行こうと決めました。これには初代の東大総長になった加藤弘之も、かつての藩校の旧友斎藤実も思いとどまるよう説得したという。こうして同志社で学ぶようになったのですが、熊本洋学校も同志社での授業もすべての科目が英語で行われたというからスゴイ。彼は同志社英学校の第一回卒業生(卒業生15名)で、卒業後もそのまま教師として同志社に残ったのでした。
 その後の活躍ぶりは省略しますが、1881年(明治14)山崎は京都府立病院で結核と診断され、直ちに入院しました。病状が急激に悪化し、入院中もどんどん体力が衰え、同郷の片桐清治も何度も看病に訪れたといいます。山崎の容体を案じた新島は、8月に彼を自宅(現:寺町通りの新島旧宅)に引き取り、新島襄・八重夫妻で懸命に看病しましたが、遂に11月になって看病むなしく24歳8か月の短い生涯を閉じました。この時新島は38歳、同志社英学校をさらに大学に昇格させようと動き始めた時期でした。ちなみにこの頃、後藤新平は愛知医学校の校長兼愛知病院長になった時期であり、斎藤実は海軍兵学校を卒業(1879年)し、海軍畑を突き進んでいる時期でした。

 それから48年後の早朝、同じ京都府立病院に一人の患者が緊急搬送されてきました。かつての同郷の旧友であり熊本繫がりもある後藤新平です。1929年(昭和4)後藤は、岡山に遊説に向かうため(医学会出席のため、という説もあり。よく調べていません。)夜行列車で移動中でしたが、4月4日の未明、米原付近でこれまで持病であった3回目の脳溢血に襲われ、京都駅で下車。即ハイヤーで府立病院に運ばれたのでした。一命は取り止めたのですが入院を余儀なくされました。この病床で言った最後の有名な言葉が「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚ておけ。」です。しかしついに4月13日の午前5時頃、息を引き取りました。波乱に満ちた72年の生涯でした。4月13日ですから病院の窓には桜花が舞っていたという。かつて内務省衛生局長も務めた伯爵(前年の昭和3年より)の緊急入院ですから、恐らく病室も最高級の部屋だったのでしょう。桜や緑の木々、鴨川の流れや東山連山が見渡せる東向きか陽当たりのいい南側だったのではないかと、勝手に想像したりします。両人とも、ちょうど故郷の水沢の地で、(ちょっと距離はあるが)北上川を挟んで東山連山を眺めるがごとく、感慨深い思いをしたのではないかと思ったりします。

 私は、かつて故郷の先人である山崎為徳や後藤新平が京都府立病院(現京都府立医科大学附属病院)に入院し、この地で没したなどということを全く知らずに、河原町通りを挟んだ向かいの広小路にあった立命館大学で4年間を過ごしました。学生時代は、隣に医科大学や病院があっても全く縁がなく、唯一あるとすれば両大学の間の河原町通りの角に書店があり、白衣を着た医学生か医師らと並んで書棚の本を探したことぐらいでしょうか、そうそう、医大病院の看護学校の学生と「合コン」話もありましたが、結局はオジャンになって皆でがっかりした記憶はあります。ん…、それだけです。同志社は御所の北側にありますが、学生時代は何かにつけてライバル意識があり、「ワシらは同志社のなよなよしたボンボンと違う、金はなくとも骨太で生きる力があるんや」などと、いきり立っていました。♪若かったあの頃🎶でした。
 さて、20年ほど前に、近畿地区の私学社会科研究会の研修で同志社を訪れた際に、同志社の歴史を展示した部屋に山崎為徳のことが大きく詳しく展示されていたのを覚えています。どの建物のどの部屋だったかは忘れましたが、きっと今でも見学はできるでしょう。若王子の墓所へは、学生時代に友人と行ったことがあり、新島襄と八重さんの隣に同じように山崎為徳の墓石もありました。

※1仏教の清水寺に関わるアテルイ・モレの話から、いつの間にかキリスト教の同志社に関わる山崎為徳の話に変わってしまいました。決して意図したわけではありませんが、エライ横道にそれてしまいました。
※2後藤新平や山崎為徳に関して再度確認しようと、行きつけの園田学園女子大学の図書館に行ったら、先日の大阪北部地震の関係で7月21日まで図書館が立ち入り禁止でした。おまけに私の書斎もぐちゃぐちゃ状態で、大分整理したのですが、まだ完全復旧ができていません。
※3そんなわけで(ってか、サボリが大きいのですが)思い違いや誤解があるかもしれません。ご容赦ください。
※4山崎為徳に関しては、ウイキペディアの他、インターネットから越川弘英氏(同志社大学キリスト教文化センター副所長)の講演『水沢の熊本バンド~山崎為徳の生涯~』を参考にしました。この山崎為徳研究に関しては、地元水沢の元高校教員だった高橋光夫氏の『山崎為徳の生涯』、『山崎為徳傳』に詳しいそうです。同志社からも「これ以上ない優れた伝記」と評される書物だと言います。

2「アテルイ・モレの物語」に関して
 ①6月3日掲載の「アテルイ・モレの物語 英語版5(最終)」のQuestionのAnswerです。
22、huge waste  23、difficult terrain  24、specialists  25、Motai
26、lack  27、entrance exam 
 ②「The Story of Aterui and More」の本文の最後に、Written by Shogo TAKAHASHI としていますが、本文の翻訳は岩手在住の協力者にお願いしたものです。ただし先方の都合により氏名は非公開です。初め、年内(2017年)にはと想定していたのですが、なかなか原稿が届かず、しからば自力で思い、女子大の図書館に籠って、大きな辞書片手に途中まで訳していたのですが、岩手の版訳者から頂いた翻訳文を読み、そちらを採用することに即決しました。あまりに私の英文が拙かったからです。この場をお借りし、感謝申し上げます。

3 「研究員便り」投稿の一時中断のおことわり((お知らせ?お詫び?)
 ① 正確には2月20日から肉体労働(何のことはない、マンションの清掃員)のアルバイトを始め、これも修行の一つと思い、体力維持には最適・最強と思い、とても喜んで仕事をしていたのですが、この5月頃から私の身辺がにわかに騒がしくなり、落ち着いて「研究員便り」に投稿することが困難になってまいりました。また時期を見て再開したいという希望はあるのですが、どうなるかは今のところ不明です。ただ、今後とも清水さんやアテルイ・モレには大いに関わっていこうと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。何があるのかは7月中旬頃にお話しさせていただく予定です。多謝多謝、ゴメンナサイです。
 ② 事務連絡(?)です。私のパソコンのメールが5月中旬から不調に陥ってしましました。修復が、まだできていません。よって当面の間、連絡はFAXか直接電話でお願いいたします。共に、06-6428-0315です。申し訳ありません。
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アテルイ・モレの物語(英語版 5 最終)

アテルイ・モレの物語(英語版 5 最終)
The Story of Aterui and More


12. Some Questions about Battles
There are some doubtful points on the battles between Emishi forces and the Court Army.
First, the number of soldiers. It is expressed like ‘an army of 50,000 strong’ or ‘100,000 strong’. I wonder if it was really possible to consist of such large forces at that time. Especially ‘100,000’ was the first number appear in ancient history and also ’50,000’ was a quite large number.
Second, why did they stay in Koromogawa for as long as a month? The Court officials says, “We don’t know the reason why the army are not going to advance”. The answer is not described. Probably, it took quite a lot of time for information collection, planning strategies and preparations in front of enemy lines.
Third, what were the soldiers accommodations and meals like while their staying in Koromogawa for such long? It must have been a huge waste. It was natural that the officials got angry.
Fourth, where did the 2nd and 3rd troops cross the Kitakami River? I guess it was around Shirotori near Koromogawa. It is the middle reaches of the river and is the narrowest part. Its stream has not changed since those days. Other places are too marshy to walk across.
Fifth, why did Emishi pitch a camp on the east side of the river? I guess it was easier for them to fight in the difficult terrain with mountains. They could have been able to hide in a pinch naturally because of their familiar places. It might have been advantageous to them to attack the enemy from both sides of a valley.
≪Words and Phrases≫
doubtful;疑わしい  consist;成り立つ、構成する  planning strategy;作戦計画  accommodations;収容設備  huge waste;莫大な浪費  marshy;湿地の  difficult terrain;複雑な地形  hide;隠す、隠れる


13. The Image of Aterui and More, and New Theory about More
Actually there is no historical record about the life of Aterui and More. Only their can be found in ‘Sequel to the Chronicle of Japan ’ or ‘Later Chronicles of Japan’. Therefore, their images are almost imagination. They have now made into many novels, plays and kabuki though it was only specialists or history enthusiast who knew them until a couple of decades before. Since they appeared in junior high school and high school Japanese history textbooks, I think we can call them historical figures known by hardworking students.
On the whole, it could be said that Aterui was not only famous for his bravery but also he was a professional both with leadership and ability to command. As for More, he is a person of mystery as well. You can just say that he might have been an excellent leader as well as Aterui because it is said that More had the title of ‘Iwagu-no-Kimi’ as the vice leader of Emishi, and is treated equally, and what is more, he was executed together with Aterui. The rest about More is all guess. There are many theories about More, especially the one by professor emeritus Tomio Takahashi at Tohoku University is leading. He says that More was the person who came from ‘Motai’ district. I agree with this. In my opinion, I think More was originally called ‘Mode’. This is completely new theory. Even now the local people pronounce ‘Motai’ like ‘Mode’ or ’Modya’ . I guess More was a leader of the area related to a mine because the southern part of Iwate Prefecture was an area of production of gold, iron sand, limestone and other mineral resources from old, and there are many remains of mines. Of course, I need to verify this hypothesis in more detail.
≪Words and Phrases≫
‘Later Chronicles of Japan’;(ここでは)『日本後記』   on the whole;全体的に、概して  rest;その他  professor emeritus;名誉教授  mine;鉱山  limestone;石灰岩  mineral resources;鉱物資源  remains of mines;鉱山跡  verify;立証する、確かめる  hypothesis;仮設


14. The Description of the Ancient Tohoku Emishi in History Textbooks for Junior and Senior High School
~ The Well-known Leader and The Unknown Leader’
How Their Relationships Has Changed ~
Aterui and More’s names had never appeared in history textbooks for junior and high school at least until 40 or more years before while Sakanoue-no-Tamuramaro, the barbarian subduing general has appeared in almost all textbooks and has been treated as an ancient important person.
The following is a common description of Emishi in a conventional high school Japanese history textbook, “There were people called Emishi in the ancient Tohoku district, who often rose in revolt and disobeyed the Imperial Court. Emperor Kanmu appointed Sakanoue-no-Tamuramaro as the barbarian subduing general and had him put down the rebellions, and then relocated the fort from Tagajo to Isawajo. In addition, Tamuramaro constructed Shiwajo and extended the Court’t control to the north. Naturally there had been no description of Aterui, More and Iji-no-Azamaro, and any other history on Emishi’s side. It was because of lack of historical materials and also that the historical research was too much dependent on small number of literature like ‘Chronicle of Japan’ ‘The Sequel to the Chronicles of Japan’ and so on.
However, the Emishi people’s life-style and the way of controle of the Tohoku district by the Court have gradually been clarified.
In November, 1994, the monument in honor of Aterui and More was built, and 2 years later, a junior high school history book for the 1997 academic year carrying the photograph of the monument captioned ‘Resistance from Emishi’. Aterui and More’s names has come to be appeared in some other textbooks.
They make their appearance in reference books for teaching aid, general study aid and on entrance exam as common questions. Thus, they have now become historical figures. That’s all. Thank you very much.


THE END


Written by Shogo TAKAHASHI
Former teacher at high-school, come from Maesawa, Iwate Prefecture, lives in Amagasaki, Hyogo Prefecture. I taught world-history at the class of Kimiko Date who was professional tennis player.
≪Words and Phrases≫conventional;従来の  rose in revolt;反乱を起こす(revolt=rebellion)  lack;欠如、不足  clarify;明らかになる(する)  academic year;学年度(=school year)  reference books;参考書   

≪Question≫ 答えはすべて英語の単語で(特に指示がなければ、基本は1単語で)
22、衣川逗留での舎屋や食事を考えたとき、朝廷は何だと怒っていますか?(2単語)
23、蝦夷軍が川の東側に陣地を敷いたのは、どんな地形だからむしろ戦いやすかったと言っていますか?(2単語)
24、アテルイ・モレの名前は20~30年前までは、歴史マニアの他どんな人達にしか知られていなかった、と言っていますか?
25、高橋富雄先生によれば、Moreは何という地名に由来すると言っていますか?
26、蝦夷側に立つ歴史記述がない理由の1つは、歴史資料の何だと言っていますか?
27、今やアテルイらは参考書や副教材だけでなく、何にも登場するようになったと言っていますか?(2単語)

≪前回のAnswer≫
16、vice-shogun   17、peasants   18、local government   19、Commemoration ceremony   20、capital construction  21、iron
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研究員 高橋正吾
次回6月10日(日)夜頃に<顕彰碑建立秘話(?)>掲載予定でしたが、
4月から仕事を始めましたので、当初予定通りの掲載が不可能っぽくなりました。 
再開が、まったく未定です。申し訳ありません。そのうち再開したいと思っております。

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次回版、若干延期のお知らせと、その他

6月3日(日)夜頃に<アテルイ・モレの物語 英語版5最終>を掲載予定でしたが、
明日(6月2日)早朝から富士登山に行きますので、掲載は6月4日(月)以降になります。
さらに、4月から仕事を始めましたので、<顕彰碑建立秘話(?)>以降の掲載が、当初予定の通りとはいかなくなる可能性が大です。再開が今のところ未定です。申し訳ありません。そのうち再開したいと思っております。あっ、当「関西アテルイ・モレの会」の和賀亮太郎会長からのメールに、こんななつかしい岩手弁がありました。“つっとづづ、やんべす” 関西弁にすると“ちょっとづつ、やろ~や”です。 ”んだんだ、つっとづづがえ~”
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アテルイ・モレの物語(英語版4)

アテルイ・モレの物語(英語版 4)
The Story of Aterui and More



9. The Appearance of Sakanoue-no-Tamuramaro
Emperor Kanmu rebuked Ki-no-Kosami for the defeat. The next year, in 790, Emperor Kanmu ordered his army to attack Emishi again.
Here, Sakanoue-no-Tamuramaro, who founded Kiyomizudera Temple in Kyoto, came on the scene. In 794, he had the title of a vice-shogun, but actually he invaded Emishi with 100,000 soldiers exercising authority as the shogun and won a victory.
It was 794 that the capital was relocated to Kyoto. Also it was the first time to lead a force no less than 100,000 strong by then in ancient Japanese history. This shows great eagerness of the political center of the Court, moreover, how strong the Emishi forces were.
However, the detailed progress of the battle is unknown because ‘Chronicles of Japan, the Sequel’ has the records up to 791, 3 year before the battle. It only has the sentence in a history called ‘A Shortened History of Japan’ which is saying ‘The Vice-Shogun, Sakanoue-no-Tamuramaro defeated Emishi.’
Sakanoue-no-Tamuramaro was finally appointed as the barbarian subduing general in 797 when he was 39 years old. In this year, the Imperial Court made 9,000 peasants from various eastern provinces to the north-east to encourage them in agriculture and sericulture. The Court gradually spread its control in Emishi World.
By the way, his title ‘the Barbarian subduing general’ appeared many times for various people in Japanese history. For example, Minamoto-no-Yoritomo, Ashikaga-Takauji and Tokugawa-Ieyasu. In fact there are many other people with this title. The first person who got this title was Otomo-no-Otomaro, and the second was Sakanoue-no-Tamuramaro.
≪Words and Phrases≫
appearance;登場、出演 →appear(現れる、登場する)  rebuke for the defeat;敗北を強く非難する  found;建てる、制定する→foundation(基礎、土台、創設)   vice-;副…、…代理(などの官職)  exercise authority;権限を行使する  eagerness;熱望、意気込み  Shortened History of Japan;(ここでは『日本紀略』←shorten(短縮した、省略した)  peasant;農民、小作農、いなか者  encourage;奨励する


10. The Surrender and the End of Aterui
In 801, Sakanoue-no-Tamuramaro attacked Emishi with 40,000 soldiers and brought them under control, however, the progress of the battle is still unknown. In January 802, Tamuramaro returned to the north-east, built Fort Isawa and relocated the local government of the north-east from Tagajo to Isawa. At the same time, he made 4,000 vagabond from 10 provinces of the east to Isawajo, Mutsu-no Kuni.
In these circumstances, Aterui and More surrendered with more than 500 warriors in order to free people from repeated fierce battles and to prevent war-devastated fields from falling into further ruin. Tamuramaro tried to persuade the Imperial Court to save Aterui and More’s lives out of respect for his enemies and he wanted them to work for ruling their own country. However, the Court never agreed with Tamuramaro and finally, Aterui and More were killed on August 13th, 802 in Moriyama, Kawachi-no-Kuni.
By the way, the record says that the place where Aterui and More died was ‘Moriyama, Kawachi-no-Kuni’, but they say there is no place called ‘Moriyama’ in Kawachi-no-Kuni ( now Osaka ).
In present Hirakata City in Osaka, there is a small stone monument in the center of Makino Park, which was once called ‘Ueyama’. It is said to be ‘a mound where Emishi criminal’s heads are buried’. This story has been handed down from generation to generation by local people. Now there is a fine tomb of Aterui and More nearby. It was built due to efforts by the members of the Association of Aterui and More’s Tomb Preservation in Hirakata City in 2007. Commemoration ceremony has been held annually in September in this park since then.
≪Words and Phrases≫
surrender;降伏(する)  vagabond;浪人、ならず者  In these circumstances;こうした状況の中で  fierce;激しい  prevent;防ぐ  war-devastated;戦争で荒廃した  fall into further ruin;さらに荒廃していく  persuade;説得する   rule;規則、支配・統治(する)  criminal’s head;賊長  tomb;塚、墓石


11. Afterward
In February 802, once the Court built Isawajo, its control spread out to the north city Morioka, and Shiwajo Castle was built next year near Morioka. In 804, another conquest was set up, but it was cancelled after the well-known discussion, ‘benevolent government’ by State councilors Fujiwara-no Otsugu and Sugano-no-Mamichi. In this discussion, Fujiwara-no Otsugu said, “The factors where they torture the people are military affairs and the capital construction. If we stop both of them now, people would do be relieved”.
In 806, Emperor Kanmu passed away at the age of 70. Five years later, in 811, Sakanoue-no-Tamuramaro also passed away at the young age of 54. Here is just an aside, in 802, it was just before the day of the construction of Isawajo Castle, Mt. Fuji erupted to my surprise. It was exactly the period when Aterui and More were taken to Kyoto.
Now, why the Yamato Imperial Court could not control Emishi smoothly? There are 5 possible reasons. ①The land of Emishi was far away from the capital. It was called ‘the remote area’ or ‘the foreign land’. In those days, it took 50 days from Tagajo to Kyoto and 25 days on the way back. ②The winter in the Tohoku rejoin is cooler than that in Western Japan. ③The Kitakami basin is surrounded by mountains, and it is, as it were, a natural fort. It is definitely disadvantage for the outsiders to attack. ④Emishi forces were just so strong. ⑤Emishi was major production area of excellent horses and iron.
≪Words and Phrases≫
conquest;征服  benevolent government;徳政  State councilor;参議  erupt;噴火する  fort;要塞  disadvantage;不利(⇔advantage;有利)

≪Question≫ 答えはすべて英語の単語で(特に指示がなければ、基本は1単語で)
16、10万の大軍で攻めたときの田村麻呂の肩書は何?
17、東日本の諸国から陸奥国に移住させられたのはどんな人達ですか?
18、多賀城から胆沢城に遷した鎮守府を英語では何と表現していますか?(2単語で)
19、大阪枚方の牧野公園で毎年9月に開催されるのは何ですか?(2単語で)
20、Hujiwara-no-Otsuguは、「今人々を苦しめているのは軍事と何だ」と言っていますか(2単語で)
21、朝廷軍がなかなか攻略できなかった理由の1つに、エミシは馬の他に何の産地だったと言っていますか。

≪前回のAnswer≫
10、sericulture  11、Isawajo-castle  12、ants 13、cavalry  14,
rice planting  15、decoys, pincer

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研究員 高橋正吾
次回6月3日(日)夜頃に掲載予定 <アテルイ・モレの物語 英語版5最終>
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