研究員便り

研究員からの情報をお届けいたします

追加、後藤新平の話5(最終)、並びにおことわり

2018年06月23日 19時43分08秒 | お知らせ
後藤新平の話5(最終)、並びにおことわり(お知らせ?お詫び?)

1後藤新平の話5(最終)
 後藤新平のお話のつづきの、さらにつづき(最終)です。
アテルイ・モレの話から→ 清水寺→ 西郷どん→ 後藤新平へと、どんどん話が横道にそれてしまいましたが、岩手水沢の旧友から「面白いことやってるなあ」と連絡をいただいた(きっとこれは“励ましに”違いない!?)のをいいことに、最後に「後藤新平と山崎為徳と京都」についてお話して締めくくろうと思います。もっと正確かつ端的に言いますと「共に京都府立病院に入院し、京都で最期を遂げた水沢の偉人山崎為徳と後藤新平のお話」です。後藤新平はともかく、山崎為徳を知る人は少ないでしょう。知っているなら、恐らく水沢の方か、同志社の関係者、しかもかなりの同志社人の方でしょう。
 山崎為徳について、Wikipediaからの一部抜粋です。
 1857年(安政4)3月、陸奥国胆沢郡水沢に水沢伊達氏家臣の息子として生まれ、藩校の立生館(りゅうせいかん)、熊本洋学校などで学んだのち、開成学校(東京大学の前身)に入学するが、新島襄が京都に設立した同志社英学校の方針に賛同し、1877年(明治10)に転校する。同志社では新島襄の信頼を受け、在学中から後進の教育にたずさわった。1879年(明治12)、郷里水沢の青年たちの招聘を受け、夏季休暇中に帰郷。プロテスタントの教えを説いた。その時、小学校教員をしていた友人の片桐清治に影響を与え、山崎の招きで片桐は同志社に入学するようになった。1880年(明治13)主著『天地大原因論』を発表。同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、1881年(明治14)京都市の新島邸で死去。京都市左京区の哲学の道南端の上、若王子同志社墓地に墓所がある。
 実はこの山崎為徳と後藤新平、斎藤実は、藩校立生館の同級生でした。山崎が熊本洋学校に行くことになったのは、当時の胆沢県参事を務めていた野田豁通や安場保和(後藤新平の岳父)らが熊本出身だったからです。彼はこの熊本でジェーンズという先生に出会い、キリスト教信仰に興味を持つようになりました。この熊本洋学校を首席で卒業し、東京の開成学校に入学したのですが、反キリスト的な学校の雰囲気にもなじめず、遂にこの学校(もう東京大学になっていた)を中途退学して京都の同志社に行こうと決めました。これには初代の東大総長になった加藤弘之も、かつての藩校の旧友斎藤実も思いとどまるよう説得したという。こうして同志社で学ぶようになったのですが、熊本洋学校も同志社での授業もすべての科目が英語で行われたというからスゴイ。彼は同志社英学校の第一回卒業生(卒業生15名)で、卒業後もそのまま教師として同志社に残ったのでした。
 その後の活躍ぶりは省略しますが、1881年(明治14)山崎は京都府立病院で結核と診断され、直ちに入院しました。病状が急激に悪化し、入院中もどんどん体力が衰え、同郷の片桐清治も何度も看病に訪れたといいます。山崎の容体を案じた新島は、8月に彼を自宅(現:寺町通りの新島旧宅)に引き取り、新島襄・八重夫妻で懸命に看病しましたが、遂に11月になって看病むなしく24歳8か月の短い生涯を閉じました。この時新島は38歳、同志社英学校をさらに大学に昇格させようと動き始めた時期でした。ちなみにこの頃、後藤新平は愛知医学校の校長兼愛知病院長になった時期であり、斎藤実は海軍兵学校を卒業(1879年)し、海軍畑を突き進んでいる時期でした。

 それから48年後の早朝、同じ京都府立病院に一人の患者が緊急搬送されてきました。かつての同郷の旧友であり熊本繫がりもある後藤新平です。1929年(昭和4)後藤は、岡山に遊説に向かうため(医学会出席のため、という説もあり。よく調べていません。)夜行列車で移動中でしたが、4月4日の未明、米原付近でこれまで持病であった3回目の脳溢血に襲われ、京都駅で下車。即ハイヤーで府立病院に運ばれたのでした。一命は取り止めたのですが入院を余儀なくされました。この病床で言った最後の有名な言葉が「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚ておけ。」です。しかしついに4月13日の午前5時頃、息を引き取りました。波乱に満ちた72年の生涯でした。4月13日ですから病院の窓には桜花が舞っていたという。かつて内務省衛生局長も務めた伯爵(前年の昭和3年より)の緊急入院ですから、恐らく病室も最高級の部屋だったのでしょう。桜や緑の木々、鴨川の流れや東山連山が見渡せる東向きか陽当たりのいい南側だったのではないかと、勝手に想像したりします。両人とも、ちょうど故郷の水沢の地で、(ちょっと距離はあるが)北上川を挟んで東山連山を眺めるがごとく、感慨深い思いをしたのではないかと思ったりします。

 私は、かつて故郷の先人である山崎為徳や後藤新平が京都府立病院(現京都府立医科大学附属病院)に入院し、この地で没したなどということを全く知らずに、河原町通りを挟んだ向かいの広小路にあった立命館大学で4年間を過ごしました。学生時代は、隣に医科大学や病院があっても全く縁がなく、唯一あるとすれば両大学の間の河原町通りの角に書店があり、白衣を着た医学生か医師らと並んで書棚の本を探したことぐらいでしょうか、そうそう、医大病院の看護学校の学生と「合コン」話もありましたが、結局はオジャンになって皆でがっかりした記憶はあります。ん…、それだけです。同志社は御所の北側にありますが、学生時代は何かにつけてライバル意識があり、「ワシらは同志社のなよなよしたボンボンと違う、金はなくとも骨太で生きる力があるんや」などと、いきり立っていました。♪若かったあの頃🎶でした。
 さて、20年ほど前に、近畿地区の私学社会科研究会の研修で同志社を訪れた際に、同志社の歴史を展示した部屋に山崎為徳のことが大きく詳しく展示されていたのを覚えています。どの建物のどの部屋だったかは忘れましたが、きっと今でも見学はできるでしょう。若王子の墓所へは、学生時代に友人と行ったことがあり、新島襄と八重さんの隣に同じように山崎為徳の墓石もありました。

※1仏教の清水寺に関わるアテルイ・モレの話から、いつの間にかキリスト教の同志社に関わる山崎為徳の話に変わってしまいました。決して意図したわけではありませんが、エライ横道にそれてしまいました。
※2後藤新平や山崎為徳に関して再度確認しようと、行きつけの園田学園女子大学の図書館に行ったら、先日の大阪北部地震の関係で7月21日まで図書館が立ち入り禁止でした。おまけに私の書斎もぐちゃぐちゃ状態で、大分整理したのですが、まだ完全復旧ができていません。
※3そんなわけで(ってか、サボリが大きいのですが)思い違いや誤解があるかもしれません。ご容赦ください。
※4山崎為徳に関しては、ウイキペディアの他、インターネットから越川弘英氏(同志社大学キリスト教文化センター副所長)の講演『水沢の熊本バンド~山崎為徳の生涯~』を参考にしました。この山崎為徳研究に関しては、地元水沢の元高校教員だった高橋光夫氏の『山崎為徳の生涯』、『山崎為徳傳』に詳しいそうです。同志社からも「これ以上ない優れた伝記」と評される書物だと言います。

2「アテルイ・モレの物語」に関して
 ①6月3日掲載の「アテルイ・モレの物語 英語版5(最終)」のQuestionのAnswerです。
22、huge waste  23、difficult terrain  24、specialists  25、Motai
26、lack  27、entrance exam 
 ②「The Story of Aterui and More」の本文の最後に、Written by Shogo TAKAHASHI としていますが、本文の翻訳は岩手在住の協力者にお願いしたものです。ただし先方の都合により氏名は非公開です。初め、年内(2017年)にはと想定していたのですが、なかなか原稿が届かず、しからば自力で思い、女子大の図書館に籠って、大きな辞書片手に途中まで訳していたのですが、岩手の版訳者から頂いた翻訳文を読み、そちらを採用することに即決しました。あまりに私の英文が拙かったからです。この場をお借りし、感謝申し上げます。

3 「研究員便り」投稿の一時中断のおことわり((お知らせ?お詫び?)
 ① 正確には2月20日から肉体労働(何のことはない、マンションの清掃員)のアルバイトを始め、これも修行の一つと思い、体力維持には最適・最強と思い、とても喜んで仕事をしていたのですが、この5月頃から私の身辺がにわかに騒がしくなり、落ち着いて「研究員便り」に投稿することが困難になってまいりました。また時期を見て再開したいという希望はあるのですが、どうなるかは今のところ不明です。ただ、今後とも清水さんやアテルイ・モレには大いに関わっていこうと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします。何があるのかは7月中旬頃にお話しさせていただく予定です。多謝多謝、ゴメンナサイです。
 ② 事務連絡(?)です。私のパソコンのメールが5月中旬から不調に陥ってしましました。修復が、まだできていません。よって当面の間、連絡はFAXか直接電話でお願いいたします。共に、06-6428-0315です。申し訳ありません。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (goingtoday)
2019-10-11 02:27:28
初めまして。興味深いお話です。ありがとうございます。自身の先祖は水沢の武家で、家は川原小路というところにありました。お隣が山崎家で、高祖父の時代には、山崎戦治郎という人が住んでいたらしいです。山崎家とは、お隣同士ということで、とても縁深かったようです。山崎為徳氏は、そのご子息だと思います。また、自分の家は後藤家とも縁深く、高祖父の母は椎名家の人でしたので、自分には椎名家の血も流れています。ですので、後藤新平伯の姉は親戚で、個人的に、新平伯邸内での人間模様の話はとても興味深かったです。以上、個人的な理由から、興味を持って拝読させていただきました。
返信する

コメントを投稿