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ヘアーサロン Ataraxiaのブログです

目白台に近い雑司が谷の、理容室と美容院を合わせたようなヘアーサロン Ataraxiaの公私にわたる近況報告です

「雑司が谷と私」後藤富郎より

2010年04月02日 | 雑司が谷
今回読ませて頂いた「雑司が谷と私」後藤富郎から、自分が知らなかった雑司が谷を抜粋したいと思います。

ひとつは「雑司が谷」という地名の由来から。

「元弘健武のころ、京都の宮廷で雑式の職にあった柳下若狭守、長島内匠、戸張平右衛門などが南朝の衰えるを歎いて官を辞し、武蔵国にきてこの地に住んで以来雑式ヶ谷と呼んだのが、後に雑司が谷の文字を使うようになったとも、また一説には法明寺の雑司料であったからだとも言う。
 またここは古書によって蔵主ヶ谷、曹司ヶ谷だともいう。曽司ヶ谷、僧司ヶ谷の文字も使われていたが、雑司が谷に一定されたのは、八代将軍が放鷹のためにここにきた時から今の雑司が谷の文字に定められたともいわれている」

ほぉ、いくつか説があるんですね

もう一つは、詳しい場所は書いていないのですが、菊池寛邸跡の現在「雑司が谷テラス」マンションに隣接している道路が

有志と当店の周りにあったが今は無き三角商店街が寄付をして公道とし東京都道に寄付したらしいです。

そして「菊池文豪道路」と命名されたらしいです。

知らなかったぁ

ニューカテゴリー「雑司が谷」

2010年03月23日 | 雑司が谷
生まれも育ちもここ雑司が谷です

しかしまだまだ「雑司が谷」の事を知らない自分がいたので

自分自身の勉強も含め新しいカテゴリー「雑司が谷」を通して

「雑司が谷」に関しての話題を提供していこうと思います

まずは雑司が谷に関する本から読んでいこうと思い、図書館から借りてきました。

「雑司ヶ谷物語-聞き書き・前島郁子ひと筋の道」著者 今井 洋子

この本は前島郁子さんの自伝的な本なので、全部が「雑司が谷」について書いてあるわけではありません。

前島郁子さんの人生自体波瀾万丈で読み応えがあります

この本の中で「雑司が谷」について書かれて、自分が知らなかった事をご紹介しようと思います。

1.江戸時代の雑司が谷は農村で、十一代将軍家斉の側室が建てた感応寺がある江戸の郊外だった。八代将軍吉宗が、鷹狩りに来ていた。

感応寺とは何ぞやと思いネットで調べたら、興味深い記事があったのでリンクしておきます

感応寺はほんとうに「官能寺」だったのか? 

2.明治になってから墓地として開発された。それが雑司が谷霊園で、1874 (明治七)年のこと。

 やっぱり雑司が谷は霊園なくしてはありえないんですね

3.その後明治二十二年に東京市に移管。大卒のインテリ層が増えた大正時代は、中産階級、知識階層の人々に向け た宅地と  なっていった。

 文化人が多いのも頷けます

4.1932(昭和七)年に23区とほぼ同じ地域で35区の大東京市なった時に東京市豊島区雑司が谷になった

5.関東大震災の時は、雑司が谷は地盤もいいし、火も来なかったので、下町の人が逃げてきた。

 地盤が良いと言う事はよく母が言っていました

今回は上記の5つが新たな発見でした。

皆さんはご存知でしたか