蔵王の麓にて

ちょっと一休みのつもりが、あっという間の6年目。

下北

2022-11-13 09:58:44 | 小説
 青森県下北半島に位置する東通村は、昔から兵隊と出稼ぎの供給地といわれてきた土地である。1960年代、村には現金収入を得る仕事はほとんどなかったため、成人男子のほとんどは「出稼ぎ」に出ていた。この村から半年間東京に出て地下鉄工事現場で働く人々を描いたドキュメンタリー番組「半もぐら」を、NHKが放映したのは1967年3月25日である。

 勇希は、突然、下北半島に行こうと思った。下北半島は、勇希が少年時代を過ごした土地であるにも関わらず、特別な思い入れはなく、また訪れたいという衝動が沸き起こることは今まで一度もなかった。
 大学卒業後、勇希は現在の仕事に就き、三十年間、無我夢中で働き続けた。それなりの結果も出し、一昨年、管理職に抜擢された。ところが、昨夏、働き過ぎが原因で、体が思うように動かなくなる。

 主治医からは二週間の入院と一ヵ月の自宅療養の指示が出た。それ以降、少しでも頑張りすぎると、体が悲鳴を上げる。最低限の仕事をこなしているだけでも、定期的に、休養を取る必要があった。
そんなへばっている勇希を見て、会社の先輩が、今春から文学スクールに誘ってくれた。
仕事以外の世界を持つことの重要性を熱心に説く先輩に感謝し、勇希は文学学校に入学することを決意した。それは、オンとオフのスイッチの切り替えが上手なはずの勇希だったが、ここ数年、オンのスイッチが入りっぱなしだったことに気が付いたからだった。
文学学校に参加することは、勇希にとって自分を取り戻すきっかけの一つになった。文章を考える作業は、自分の内に深く入り込み、原石を探す作業である。文学スクールの講義で出される課題はついていくのがやっとであるが、何とか頑張っていると、埋もれていた記憶の断片が徐々につながりはじめてくる。
 
 今夏、勇希は、大学卒業後、初めての長期夏休みを取った。夏休みに入る三日前、突然、下北半島への旅行を思いついた。思い立ったが吉日という。すぐ、インターネットで函館・大間間のフェリーと宿泊のセットプランを見つけ予約する。
 妻に「一緒に行くか?」と声をかけたが、目的のない旅である。「どこに行くの?」という問いに、「決まっていない」と返事をすると、妻は不安を感じたのか、結局、一人で行くことになった。体調に若干の不安はあるが、宿泊するむつ市にも病院はある。疲れがひどければ、ホテルで寝ていればいいと考えた。本当にいい加減な旅である。
 出発は八月九日。前夜の八日は、久しぶりに緊張した時間を過ごす。まるで、修学旅行前夜の小学生みたいだった。荷物を何回も点検し、横になったのは一時を回っていた。それでも、六時には起床した。歯を磨き、顔を洗い、荷物の最終点検をし、七時二十分に自宅を出発する。
 津軽海峡フェリー函館ターミナルに着いたのは、七時四十五分過ぎだった。カーフェリーで旅をするのは初めてである。いつもの列車の旅と異なり、勝手がわからない。ターミナル内の案内で尋ねると、八時から受付開始とのことである。車検証を車から取り出し、書類の記入をしていると、ちょうど受付の時間になる。
 受付を終え、車を所定の待機場へ移動する。乗船まで時間があるので、朝食のサンドイッチとペットボトルの珈琲をターミナルの売店で購入する。売店を見学すると、青森のお土産も販売している。せっかくの機会なので、大好きなバター煎餅を購入する。
 九時、愛車とともにカーフェリーに乗船する。席はスタンダード、往年の連絡船の二等船室レベルである。絨毯を敷き詰めたシートが何箇所か設置してある。まずは、自分が横になれるスペースを確保する。他の乗客の人たちも、皆、横になれるスペースを確保する。
 勇希は横になると、出発の九時半を待たずに、ウトウトし、そのまま眠ってしまった。目覚めた時は十時が過ぎていた。ややしばらくして、「お車で乗船した方は、お車の方でお待ち下さい」との放送がかかる。函館・大間間は九十分。あっという間に到着する。到着後は、係員の指示に従って、順に下船する。
 勇希は、まず大間崎に向かった。「ここ本州最北端の地」の石碑を見て、そう言えば、ここを訪れるのは初めてだということに気付く。少年時代を下北半島で過ごしたとは言え、その中心は東通村である。子供の活動範囲は限られている。大間町は、東通村在住の少年にとって、地図でしか見たのしかない遠い世界だった。
 東通村は、明治二十二年、町村制の施行により、大利村、目名村、目屋村、野牛村、岩屋村、尻屋村、尻労村、猿ヶ森村、小田野沢村、白糠村、砂子又村、田屋村が合併してできた広範囲に渡る村である。
 大間崎で昼食を食べようかとも思ったが、お腹が空いていなかったので、十一時半には大間を出発。一路、むつ市に向かう。大間町からむつ市までは、約五十キロの道のりである。のんびり車を走らせても、一時間ちょっとで到着する。
 むつ市には、懐かしい場所がある。「吉田ベーカリー」というパン屋だ。ここの「あんバタサンド」は、間違いなく、勇希のソウルフードである。少年時代、よく親にせがんで、購入してもらった記憶がある。
ところが、勇希の記憶に残っているむつ市の街並みと、現在のむつ市の街並みは、まったく異なっていた。あるべきところに「吉田ベーカリー」がない。ウロウロ探し回った挙句、ガソリンスタンドに寄り、従業員に聞くことにする。「吉田ベーカリー」は場所を変えて、現在も営業していた。ホッとする。
 懐かしい「あんバタサンド」を二つ購入。初恋の人に出会ったかのようにドキドキする。すぐには食べず、ドライブの途中、景色の良い所で食べようと考える。若干の疲れはあったが、一気に「尻屋崎」まで向かう。
 むつ市から尻屋崎までは、車で一時間くらい走る。勇希の記憶では、砂利道だったが、現在はきちんと舗装されている。窓をオープンにしながら、天然の森林浴を楽しみ、しばらく運転していると、前方に広大な太平洋が開けてくる。
 潮の香りが感じられ、尻屋崎が近いことがわかる。有料駐車場によくあるような遮断棒のゲートを抜け、寒立馬の放牧場の中の道を進み、尻屋崎には十三時半頃に着く。
 尻屋崎の先端には、灯台がある。その灯台の手前に、寒立馬が数頭いた。数頭の寒立馬は、まるで彫像のように、のっそりと立っている。すぐ側を観光客が通っても、人に慣れているのか、ピクリともしない。
 ぐるっと尻屋崎を回り、むつ市に戻る途中、尻労村を訪ねてみる。尻労村の手前に、記憶にはない尻労小学校の廃屋があった。かつての尻労小・中学校が、中学校の統廃合により、小学校だけが独立した時の名残らしい。現在、東通村の小学校・中学校は、全て統廃合され、東通村立東通小学校、東通村立東通中学校となっている。原子力発電所の影響なのか、かつてのボロボロの木造校舎の面影は全くない。
 車二台がすれ違うことの出来る道路幅だったのが、尻労村に入ると、突然道が狭くなる。このまま進むと、行き止まりに閉じ込められ、出てこられないような感じがする。恐らく、この先に、かつての尻労小・中学校の跡地があるのだとは思うが、今回はこれ以上進むことは諦める。
 青森県道六号「むつ尻屋崎線」に戻り、次の目的地に向かう。それは、かつて、勇希の通っていた小学校のあった目屋村だ。道を進むにつれ、勇希の少年時代の記憶が少しずつ形をとり始めた。


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