蔵王の麓にて

ちょっと一休みのつもりが、あっという間の6年目。

田植え休み 稲刈り休み

2022-11-13 13:11:10 | 小説
 東通村の小学校では、夏・冬の長期休暇以外に、「田植え休み」と「稲刈り休み」が、それぞれ春と秋に一週間ずつある。それは、子どもも、農作業の大事な戦力だからだ。
 休みと言っても遊んでいる子どもは一人もいない。皆、我が家の農作業のお手伝いを朝から晩までしている。勇希は、恭介君のバッチャの鶴の一声で、よそ者ではあるが、恭介君の家の農作業を手伝っている。
 このお手伝いの勇希の密かな楽しみは、十時と三時のおやつの時間だ。普段から甘いものに飢えている小学生だ。遠慮することもなく、バクバクおやつを食べる。食べないとバッチャに「もっと、けえ!」と怒られるということもある。そんな勇希と恭介君の仲のいい様子を、周囲の大人は目を細めて暖かく見守ってくれている。
 この手伝いは、けっこう大変な重労働だ。小学校三年といえども、大人と遜色ない労働を求められる。稲刈りでは、稲を刈るのは慣れた大人の仕事で、その刈った稲を集めて、干す場所に一輪車で運んでいくのが、勇希と恭介君の仕事である。下北半島では、田んぼの脇に、刈った稲を干すために丸太を組んだものを作る。
 ところが、田んぼのあぜ道は、平坦ではない。積んだ稲の重さでグラグラする。間違って、田んぼに落としてしまえば、その稲はもう終わりだ。だから、自分の腕の力と体のバランスを計算して、稲を一輪車に積み、バランスをとりながら、干すところまで運ぶ。だんだん慣れてくると、バランスを崩すことはなくなるが、ある時点で、一気に腕の力が入らなくなる。
 その頃になると、もうその日の作業の目途がついてくる。勇希と恭介君に遊びの許可が出る。さっきまで体力の限界だった二人だが、さすが疲れを知らない子供たちだ。早速、山にあけび取りに行く。秋になると、山々にはあけびが至る所に生っている。あけびの皮を漬物にする地方もあるらしいが、勇希と恭介君には貴重なおやつだ。真っ暗になるまで、あけびを取って帰宅する。
 一晩寝ると、恭介君が家に迎えに来てくれる。恭介君の声を聞くと、勇希は急いで短靴を履く。
「おはようございます。勇希君、いますか?」
「恭介君、おはよう。今日も頑張ろうね」
 当時の、目屋村の小学生のほとんどは、裸足に短靴を履いていた。短靴とは、長靴に対しての短い靴という意味で、ゴム製の靴だった。多少の水たまりでもそのままジャッポンと水たまりに入ることのできるメリットがある。しかし、走りづらいし、木登りにも適さない。だから、本気で走る時は裸足、気に登る時も裸足である。
 最初、遊びの場面で、勇希は恭介君に助けてもらうことがほとんどだった。しかし、徐々に山村暮らしに慣れると、勇希はみんなに遅れることなく、山中を走り回れるようになった。そして、山中で遊ぶことが多くなると、それが勇希の日常になり、様々なものに対する抵抗力がついてくる。これも全て、嫌な顔をせず、勇希に付き合ってくれた恭介君のおかげだ。

恭介くんのバッチャ

2022-11-13 12:59:22 | 小説
 帰りの学活が終わると、待ちに待った遊びの時間だ。勇希は恭介君を誘って速攻で帰る。しかし、遊びの前にやることが一つある。宿題だ。これを忘れると、宿題のことが気になって、遊びに集中できない。いわゆる、あずましくないというやつだ。
ガチャッガチャッ、ガラッガラッ。
「ただ今」
 返事がないことを勇希は承知している。しかし、家に帰って来た時「ただ今」と一言発することを、勇希は習慣にしていた。両親が共働きのため、この時間帯は通常誰も家にいない。しかし、万が一、イレギュラーで母親が家にいた時、挨拶なしで家の中に入ろうものなら、容赦なく一尺の竹差しで叩かれる。竹はしなって痛いし、跡がみみず腫れになる。万が一の危険を回避するため、勇希は「ただ今」の一言を、習慣にしているのだ。勇希は恭介君と一緒に家に入り、二人で宿題に取り組む。一人よりも二人の方がはかどる。二人とも宿題をやり終えるとそのまま恭介君の家に向かう。恭介君のランドセルを家に置いて、遊びに行くためだ。
 勇希が恭介君の家に「ただ今」と挨拶して入ると、恭介君のバッチャが居間にいる。
「よぐ来た。勇希、まんま、食ってきたな?」
「いや、食ってねぇ」
「んだば、けぇ」
「わがった」
「恭介、勇希に、めし食わせろ」
 恭介君の父さんは東京に出稼ぎに行っている。母さんは田んぼか、畑で農作業だ。つまり、日中はバッチャが恭介君の家の「やどし(留守番)」である。バッチャの言葉には逆らえない。
 弾かれたバネのような勢いで、恭介君はニワトリ小屋に向かう。生きのいい卵を確保するためだ。そして、井戸の水を入れた大きなホタテ貝をガスコンロにかける。煮干しの頭をとって何本か入れ、グツグツと煮立つのを待つ。煮立つ直前に、煮干しを取り出し、ガスコンロの火を弱火にする。そして手作り味噌を入れ、ゆっくりかき混ぜる。それに先ほどの新鮮な卵を全体に放つ。味噌貝焼きの完成だ。ちなみに、具は何も入っていない。しかし、これが素晴らしく美味しい。
 勇希は、恭介君の家に日参している。毎日、味噌貝焼きを食べる。恭介くんのバッチャは勇希のことを実の孫のように可愛がってくれる。勇希は、バッチャの声を聞くと、自分の大好きな祖母のことを思い出す。
 二人で味噌貝焼きでご飯をかきこむと、速攻で遊びに出かける。まず皆との待ち合わせ場所に急いで向かう。でも、ちょっと遅れているので、もしかすると、もう遊びが始まっているかもしれない。しかし、それはそれで、どうにかなる。
 子供が集まって遊ぶ場所は一箇所ではない。その日の様々な条件によって異なる。神社の境内、児童館の前庭、小学校の校庭、近くの山、田んぼ、川、沼、道路など、遊ぶ場所に困ることはない。遊びのメニューも盛り沢山だ。どこで、どういうメンバーで、どういう季節に遊ぶかによって、遊びのメニューは決定する。
 勇希と恭介君は、皆より遅れての参加だが、皆と違って宿題を終えての参加である。これは、かなり、心の持ち具合が違う。二人とも、遊びの後のことを考えずに、おもいっきり遊べるからだ。

小学時代の担任の思い出

2022-11-13 10:20:44 | 小説
 小学校二年生の時の担任の先生は、高清水という男の先生だった。高清水先生は、いつスイッチが入るのか予想ができない先生だった。勇希は高清水先生に往復ビンタで叩かれたことがある。
 休み時間に、教室の棚に置いてある子供用のバスケットボールで、みんなで遊んでいた。チャイムが鳴ったので、ボールを棚に片付け、席に着いて高清水先生が来るのを待っていた。ガラッとドアを開け、高清水先生が教室に入り、思いっきりドアを閉めた振動で棚のボールがコロッと落ちた。
 その転がったボールを見て、高清水先生は突然スイッチが入り「誰だ!正直に出ろ!」と怒鳴った。ボールをおいた子はぶるぶる震えている。仕方なく学級委員長の勇希は挙手する。高清水先生に「お前か、勇希。前に出て、足を踏ん張れ!」と怒鳴られた。高清水先生の前に立つと、いきなり、往復ビンタ十発。バシッバシッと叩かれ、目から火花が飛ぶ。勇希はクラックラッとしたが、なんとか踏ん張る。左右の頬は熱くなり、ヒリヒリしだす。その一時間をどう過ごしたか、勇希はわからなかった。
 休み時間になると、親友の恭介君が真っ先に飛んで来て、「勇希君、大丈夫?」と声をかけてくれる。一緒にボールで遊んでいた幼馴染の美代ちゃんはハンカチを濡らして、勇希の頬を冷やしてくれる。勇希はその優しさが嬉しくて、必死にこらえていた涙がポロポロこぼれ出す。それを見た美代ちゃんは顔を真っ赤にして怒り出す。
「私、高清水先生に言ってくる。勇希、全然悪くない。高清水先生が悪いんじゃない」
「美代ちゃん、やめて。高清水先生、根に持ちそうだから。今度は、美代ちゃんが叩かれる」
 勇希は必死に止める。言い合っているうちに、チャイムが鳴る。皆、サッと席に着く。
 この事件は、何日かたって、勇希が職員室に呼ばれて、高清水先生が勇希に謝り、解決した。どうも、美代ちゃんの中学生の姉ちゃんが、中学校の担任の先生に報告し、職員室で問題になったらしい。詳しいことは分からないが、その時代でも、理不尽な教員の暴力は許されないということなのだろう。その後、妙に優しくなった高清水先生の態度が、勇希は薄気味悪かった。

 小学校三年生になり、担任の先生が変わった。
 キーンコーン、カーンコーン。チャイムが鳴る。朝の学活の時間だ。クラスの皆は席に着いて、静かに川中先生を待つ。
 ガラッ。緊張した面持ちで、ドアを開け、川中先生が教室に入ってくる。
 すかさず、「起立、気を付け、礼。おはようございます」と美代ちゃんがキリッと号令をかける。子供たちは「おはようございます」と大きな声で挨拶する。川中先生はニコッと笑い、「おはようございます」と挨拶をかえす。
そして、みんなの顔をゆっくりと見渡す。勇希たちも川中先生をじっと見つめる。一ヶ月ほどして、勇希はあることに気付いた。それは、その日の川中先生の機嫌が、髪型によって違うということだ。右分けの時は機嫌がいいが、左分けの時は機嫌が悪い。ある時、それを作文に書いたら、川中先生は驚いて、真っ赤な顔で頭をかいていた。
 
 川中先生が最初にしたことは、勇希たちとの交換日記だった。勇希たちは、川中先生と日記の交換ができることが嬉しくて、毎日書くことを真剣に考えた。ネタ不足になり、子どもたちが困りだした頃に、川中先生はヒントをくれた。
「今日は、理科の授業を学校の周りを歩きながら行います。たくさんのことに気付けるようにしましょう」と、クラス全員を連れて、学校の周りを散歩する。植物や昆虫など、気が付いたことを話しながら歩いていると、日記のネタがどんどん浮かんでくる。
 ある時、散歩の途中で、カエルの卵を見つけた子どもがいた。川中先生が「みんな、触ってごらん」というので、皆で恐る恐る触る。勇希も初めて触るカエルの卵がヌルヌルしているのが面白かった。まるでタピオカのようだった。その日の交換日記の話題は、クラス全員が「カエルの卵」だった。
 一日中、絵を描いていたこともある。「絵を描くには、まず、描きたいと思うものをじっと観察することが大事です」という川中先生のアドバイスから、全員、自分で描こうと思うものを、時間と場所を気にせず、じっくり観察する。当然、交換日記の話題は、クラス全員、「自分の描きたいもの」になる。
 完成した作品は、下北半島全体の学校芸術展に出品された。勇希の作品は自画像だった。まず、鏡に映る自分の顔をじっと観察する。首が痛くなるまで観察する。その後、自分の顔を丁寧にデッサンする。描き方はもちろん自己流だ。でも、長時間じっと見ていると、ふだん全く気付けない細かいところが見えてくる。それを丁寧にデッサンしていると、川中先生が後ろに来て「勇希、いいな。よく、そんな細かいところに気が付ける。たいしたもんだ」とつぶやく。勇希は褒められたことが嬉しくて、さらに鏡に映った自分の顔を細く観察する。
 この作品は、美術展で準特選に入賞した。ちなみに、特選に選ばれたのは、勇希の親友恭介君の「農作業をする父」という作品だった。普段、出稼ぎでいない父さんが、農作業のために帰郷した時のことを思い出して描いた作品だった。完成した作品を見た時、その色の出し方に、勇希は感動した。耕運機の下の土の色がやや青みがかった土の色に工夫されてあり、とてもリアルだった。

下北

2022-11-13 09:58:44 | 小説
 青森県下北半島に位置する東通村は、昔から兵隊と出稼ぎの供給地といわれてきた土地である。1960年代、村には現金収入を得る仕事はほとんどなかったため、成人男子のほとんどは「出稼ぎ」に出ていた。この村から半年間東京に出て地下鉄工事現場で働く人々を描いたドキュメンタリー番組「半もぐら」を、NHKが放映したのは1967年3月25日である。

 勇希は、突然、下北半島に行こうと思った。下北半島は、勇希が少年時代を過ごした土地であるにも関わらず、特別な思い入れはなく、また訪れたいという衝動が沸き起こることは今まで一度もなかった。
 大学卒業後、勇希は現在の仕事に就き、三十年間、無我夢中で働き続けた。それなりの結果も出し、一昨年、管理職に抜擢された。ところが、昨夏、働き過ぎが原因で、体が思うように動かなくなる。

 主治医からは二週間の入院と一ヵ月の自宅療養の指示が出た。それ以降、少しでも頑張りすぎると、体が悲鳴を上げる。最低限の仕事をこなしているだけでも、定期的に、休養を取る必要があった。
そんなへばっている勇希を見て、会社の先輩が、今春から文学スクールに誘ってくれた。
仕事以外の世界を持つことの重要性を熱心に説く先輩に感謝し、勇希は文学学校に入学することを決意した。それは、オンとオフのスイッチの切り替えが上手なはずの勇希だったが、ここ数年、オンのスイッチが入りっぱなしだったことに気が付いたからだった。
文学学校に参加することは、勇希にとって自分を取り戻すきっかけの一つになった。文章を考える作業は、自分の内に深く入り込み、原石を探す作業である。文学スクールの講義で出される課題はついていくのがやっとであるが、何とか頑張っていると、埋もれていた記憶の断片が徐々につながりはじめてくる。
 
 今夏、勇希は、大学卒業後、初めての長期夏休みを取った。夏休みに入る三日前、突然、下北半島への旅行を思いついた。思い立ったが吉日という。すぐ、インターネットで函館・大間間のフェリーと宿泊のセットプランを見つけ予約する。
 妻に「一緒に行くか?」と声をかけたが、目的のない旅である。「どこに行くの?」という問いに、「決まっていない」と返事をすると、妻は不安を感じたのか、結局、一人で行くことになった。体調に若干の不安はあるが、宿泊するむつ市にも病院はある。疲れがひどければ、ホテルで寝ていればいいと考えた。本当にいい加減な旅である。
 出発は八月九日。前夜の八日は、久しぶりに緊張した時間を過ごす。まるで、修学旅行前夜の小学生みたいだった。荷物を何回も点検し、横になったのは一時を回っていた。それでも、六時には起床した。歯を磨き、顔を洗い、荷物の最終点検をし、七時二十分に自宅を出発する。
 津軽海峡フェリー函館ターミナルに着いたのは、七時四十五分過ぎだった。カーフェリーで旅をするのは初めてである。いつもの列車の旅と異なり、勝手がわからない。ターミナル内の案内で尋ねると、八時から受付開始とのことである。車検証を車から取り出し、書類の記入をしていると、ちょうど受付の時間になる。
 受付を終え、車を所定の待機場へ移動する。乗船まで時間があるので、朝食のサンドイッチとペットボトルの珈琲をターミナルの売店で購入する。売店を見学すると、青森のお土産も販売している。せっかくの機会なので、大好きなバター煎餅を購入する。
 九時、愛車とともにカーフェリーに乗船する。席はスタンダード、往年の連絡船の二等船室レベルである。絨毯を敷き詰めたシートが何箇所か設置してある。まずは、自分が横になれるスペースを確保する。他の乗客の人たちも、皆、横になれるスペースを確保する。
 勇希は横になると、出発の九時半を待たずに、ウトウトし、そのまま眠ってしまった。目覚めた時は十時が過ぎていた。ややしばらくして、「お車で乗船した方は、お車の方でお待ち下さい」との放送がかかる。函館・大間間は九十分。あっという間に到着する。到着後は、係員の指示に従って、順に下船する。
 勇希は、まず大間崎に向かった。「ここ本州最北端の地」の石碑を見て、そう言えば、ここを訪れるのは初めてだということに気付く。少年時代を下北半島で過ごしたとは言え、その中心は東通村である。子供の活動範囲は限られている。大間町は、東通村在住の少年にとって、地図でしか見たのしかない遠い世界だった。
 東通村は、明治二十二年、町村制の施行により、大利村、目名村、目屋村、野牛村、岩屋村、尻屋村、尻労村、猿ヶ森村、小田野沢村、白糠村、砂子又村、田屋村が合併してできた広範囲に渡る村である。
 大間崎で昼食を食べようかとも思ったが、お腹が空いていなかったので、十一時半には大間を出発。一路、むつ市に向かう。大間町からむつ市までは、約五十キロの道のりである。のんびり車を走らせても、一時間ちょっとで到着する。
 むつ市には、懐かしい場所がある。「吉田ベーカリー」というパン屋だ。ここの「あんバタサンド」は、間違いなく、勇希のソウルフードである。少年時代、よく親にせがんで、購入してもらった記憶がある。
ところが、勇希の記憶に残っているむつ市の街並みと、現在のむつ市の街並みは、まったく異なっていた。あるべきところに「吉田ベーカリー」がない。ウロウロ探し回った挙句、ガソリンスタンドに寄り、従業員に聞くことにする。「吉田ベーカリー」は場所を変えて、現在も営業していた。ホッとする。
 懐かしい「あんバタサンド」を二つ購入。初恋の人に出会ったかのようにドキドキする。すぐには食べず、ドライブの途中、景色の良い所で食べようと考える。若干の疲れはあったが、一気に「尻屋崎」まで向かう。
 むつ市から尻屋崎までは、車で一時間くらい走る。勇希の記憶では、砂利道だったが、現在はきちんと舗装されている。窓をオープンにしながら、天然の森林浴を楽しみ、しばらく運転していると、前方に広大な太平洋が開けてくる。
 潮の香りが感じられ、尻屋崎が近いことがわかる。有料駐車場によくあるような遮断棒のゲートを抜け、寒立馬の放牧場の中の道を進み、尻屋崎には十三時半頃に着く。
 尻屋崎の先端には、灯台がある。その灯台の手前に、寒立馬が数頭いた。数頭の寒立馬は、まるで彫像のように、のっそりと立っている。すぐ側を観光客が通っても、人に慣れているのか、ピクリともしない。
 ぐるっと尻屋崎を回り、むつ市に戻る途中、尻労村を訪ねてみる。尻労村の手前に、記憶にはない尻労小学校の廃屋があった。かつての尻労小・中学校が、中学校の統廃合により、小学校だけが独立した時の名残らしい。現在、東通村の小学校・中学校は、全て統廃合され、東通村立東通小学校、東通村立東通中学校となっている。原子力発電所の影響なのか、かつてのボロボロの木造校舎の面影は全くない。
 車二台がすれ違うことの出来る道路幅だったのが、尻労村に入ると、突然道が狭くなる。このまま進むと、行き止まりに閉じ込められ、出てこられないような感じがする。恐らく、この先に、かつての尻労小・中学校の跡地があるのだとは思うが、今回はこれ以上進むことは諦める。
 青森県道六号「むつ尻屋崎線」に戻り、次の目的地に向かう。それは、かつて、勇希の通っていた小学校のあった目屋村だ。道を進むにつれ、勇希の少年時代の記憶が少しずつ形をとり始めた。

決断

2022-11-13 09:24:31 | 小説
 胆沢の森は夜の闇に溶け込んでいる。森の上空には月が皓々と光っている。その光は地上に到達するまでに森にすべて吸収されてしまう。平常は夜行性の動物が行き来する獣道も、戦場となってから、獣一匹通らなくなった。森は息をひそめて、嵐の通り過ぎるのを待っている。
 その森で、先ほどからじっと動かない男がいた。男は六尺を超える偉丈夫であり、その長髪を後ろでまとめ、赤い荒縄で縛っている。体は細身であるが、よく見るとしなやかな筋肉の鎧で覆われていることがわかる。名を大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)と言う。日高見国に属する胆沢集落の蝦夷の族長であり、この戦いの一方の軍、蝦夷連合軍の大将である。
今朝早く、巡回中の見張りの兵が、挙動不審の男を、アテルイの前に連行してきた。兵は、大将の前ということもあるのか、緊張した面持ちで、報告する。
「アテルイ殿。この者、辺りを何やら探し求めるように怪しい振る舞いをしておりました。捕まえて、問いただすと、アテルイ殿と同じ胆沢村の蝦夷ということです。アテルイ殿のご確認をいただきたいと思い、連行して参りました」
 アテルイは、自分の前で固くなっている若い兵を微笑みを浮かべながら見つめ、言い終わると同時に指示を伝えた。
「この者は確かに胆沢村の者に間違いない。よく報告してくれた。さぁ、持ち場に戻ってくれ」
「はっ」
 見張りの兵は、アテルイの言葉を聞くと、急いで持ち場に戻った。見張りの兵が見えなくなるのを待って、アテルイはその男に話しかけた。
「チロンヌプ。よく俺の前に顔を出せたな。名前の通り、ずる賢い狐みたいな奴だ」
男は上目遣いにアテルイを見ながらおどおどと口を開いた。
「アテルイ。申し訳ない。確かに、俺はお前たちのことを裏切った人間だ。でも、俺の家族が大和軍に囚われた。俺には、大和に従うという選択肢しか残されていなかった」
 アテルイはチロンヌプの言葉に面倒くさそうに言う。
「わかった、チロンヌプ。早く、消えろ。今は戦いの最中だ。お前の戯言に、ゆっくり相手をしている暇はないんだ」
「俺は、田村麻呂様の密使だ。田村麻呂様からお前への伝言だ」
 アテルイは、胡散臭そうに見つめ、返事をしない。チロンヌプは慌てて、密使の証拠を見せる。それは、アテルイが髪を結ぶ時に以前使っていた赤い古い荒縄だった。
「田村麻呂は何を?」
 一瞬、声を潜めたアテルイの様子を見て、チロンヌプは勢いづいて話し始めた。
「手短に言うからよく聞け。今が降伏のタイミングだということを伝えてくれとおっしゃっていた。昨日、田村麻呂様のもとへ、大和の帝から手紙が来た。その手紙に、蝦夷征討が上手くいかないならば、胆沢の山を焼き尽くせという旨のことが書かれていたそうだ」
「・・・」
「田村麻呂様は、自分の手柄をふいにしても、お前の助命をするお心つもりだ。それは、お前がこれからの蝦夷になくてはならない人間だと考えていらっしゃるからだ。明日の夜明け前に、俺が返事を聞きにまたここに来る。いいな、忘れるな」
「わかった。帰りは、もし見張りの兵に咎められたら、その赤の荒縄を見せればいい。蝦夷の兵で、俺の荒縄を知らない者はいない。そんなことも忘れたんだな」
 田村麻呂の伝言を伝える終わると、チロンヌプは、ここは俺の居場所ではないとでもいうように、すぐに姿を消した。
 それから、アテルイは田村麻呂の言葉の裏にあるものを考え続けている。大和の帝からの手紙は本当なのか、山を焼くという内容は本当なのか、そして、どうして、アテルイの助命という言葉が出てきたのか。武人としての田村麻呂ではない、したたかな田村麻呂を思い起こしながら、その真意を考えた。
 アテルイは、自分にとって替え替えのない存在、磐余(いわれ)の長であり、大巫女である磐具公母礼(いわぐのきみもれ)に相談すべく、使いを出す。モレは、すぐ、アテルイのところに来てくれた。
「アテルイ、相談って、田村麻呂のこと?」
モレは落ち着いた様子で、アテルイに尋ねた。
「そうなんだ。さっき、田村麻呂の使いがきた。それも、裏切り者のチロンヌプを使いによこした」
 アテルイは自分が気になっていることをモレに正直に話し始めた。アテルイの言葉をじっと聞いていたモレは、一言だけ言った。
「私はアテルイを信じている」
 その言葉を聞いて、アテルイはふっと力が抜けた。
「そうだな。俺は田村麻呂の言葉の裏を考えすぎていたのかもな。この蝦夷の自然を守る。俺のやるべきことはそれだけだ」
「やっといつものアテルイに戻ったわね」
「もっとシンプルに考えればいいんだな。俺が降伏し、帰順する。次は、そのまま許されるか、大和の都へ連行されるか、そして、許されて東国へ戻されるか、どこかに移されるか、それともどこかで処刑されるか。それだけだ」
 モレはアテルイの眼を見つめたままだ。その瞳の奥には、アテルイを優しく包み込んでくれる暖かさが宿っている。
「そう。私はいつもあなたについていくわ。降伏する時も一緒よ。もし、どこかに移されたら、二人で新しい村を作りましょう」
 アテルイは笑いながら答えた。
「そうだな、それも悪くないな。二人で新しい村を作り、今まで、大和との戦いで命を失った兵士たちを一緒に弔おう」
 コクっと頷くモレの肩を、アテルイはそっと抱きしめた。
 アテルイ率いる蝦夷連合軍は、得意のゲリラ戦法で、数で大きく上回る大和軍と戦い続けてきた。戦闘員となった者は、日常の生活のための仕事ができない。さらに、戦いの場になった生活の場は荒れ果てる。大和との戦いが蝦夷にもたらしたものは何もない。ただ、日常の生活の場が失われたけだ。そのような戦いを続けることに意味があるのだろうか、ということをアテルイは考えていた。
「モレ、俺はこの戦いの意味が少しわかってきたような気がする。このまま、俺たちが戦い続けると、大和の帝は次から次へと兵を繰り出してくる。つまり、どちらかの力が尽きるまで戦さは続く。戦さが終わった時は、戦さ場となった俺たちの生活の場はどこにもない。確かに、そのあと自然はまた復活するだろう。でも、その時は、俺たち蝦夷はここには住んでいない。」
 一息ついて、アテルイはモレに話すことで、自分の考えを確認するかのように話し続けた。
「俺たち蝦夷の住む土地はここなんだ。俺たちがここに住まなくなれば、胆沢の山の神を、磐余の山の神を、誰が祀るんだ?俺は俺たちの神をずっと祀り続ける、蝦夷の人々を守る、俺たちを育んでくれた蝦夷の自然を守る、それが、この戦さの意味だ。敵を傷つけて殺すということは、蝦夷の未来を創らない」
 モレは可愛らしく首を傾けて、大きな目で、アテルイをじっと見つめている。こんなモレの仕草がアテルイは愛おしいと思う。
 アテルイは、人間同士の戦いに、大自然を巻き込んでしまったことを後悔している。大和の貴族が、蝦夷である自分たちのことを、獣と人とが交わった人モドキとか、鬼と人と交わった人モドキとしてしか見ていないことをアテルイは知っている。大和の人々にとって蝦夷は半人間的存在、いや、人として扱われていない存在なのだ。
 しかし、戦い続けるだけでは、蝦夷の未来は見えてこない。蝦夷の人々が自然と共に生きているように、大和の人々も自然と共に生きている。

 アテルイとモレがともに蝦夷連合軍を率いて、大和朝廷の軍と戦ったのは、十三年前、七八九年、巣伏の戦いが最初だった。
 七八八年三月、都に潜入させている密偵が、ボロボロになりながら、胆沢のアテルイのところに報告に来た。よほど急いで来たらしい。唇がカサカサに乾き、頬もげっそりとしている。
「アテルイ様、大和の帝が第一次蝦夷征討を決定しました。まずは、東海道、東山道、坂東の各国に動員命令を下し、来年、それらの兵を多賀城に集結させ、一気に蝦夷軍を叩くつもりです」
「ご苦労。まずはゆっくり休んでくれ」
「いえ、都にすぐ戻ります。また何か異変がありましたなら、すぐ、お知らせいたします」
 大和の人々は蝦夷の人々を誤解している。いや、知ろうともしないと言った方が正しいのかもしれない。大和の国が朝鮮半島と交易しているように、日高見の国も朝鮮半島と交易している。
 その交易を通して、アテルイは中国で生まれた兵法というものを知ることができた。そこで、学んだことは「情報」ということの重要性だった。蝦夷の将来の為に、大和の都、多賀城、周辺の国々などに、かなりの数の諜報員を配置し、少しでも異変があれば、アテルイのところに集まるシステムを作り上げていた。
 七八九年、年が明けると、次々に、密偵がアテルイの元に報告に来る。、アテルイは、密偵のすべてに会い、今後の動きを漏らすことなく伝えた。
 多賀城方面では、「蝦夷の兵は強い」とか「蝦夷は、大軍で大和軍を待ち受けている」といった噂を流すことを指示した。
 また、大和の都方面では、逆に「蝦夷の兵は弱い」とか「蝦夷軍は大将がいないため、統率されていない」などの噂を流すことを指示した。
 情報操作が功を奏したのか、第一次蝦夷征討軍の大将は、アテルイの予想雨通り、紀古佐美(きのこさみ)が任命された。多賀城の兵の動員予定数は五万二千八百余名であった。それに対して、蝦夷軍が動員できる兵は、わずか千五百余名である。この兵数の差をどう補えばいいのか、戦術をどのように工夫していけばいいのか。アテルイは、モレを含めた蝦夷の各集落の族長たちと何度も軍議を重ねた。根気強く、アテルイは自分の考えた戦術をみんなに説明した。最終的に、全員の了解を得ることができた。
 大和の兵を分散させること、次に囮を用いて、自分たちのホームグラウンドに大和の兵をおびき寄せて戦うこと、そして、蝦夷の兵を実際よりも多く見せるために、騎馬隊を最大限に活用することの三つである。
 すぐ、多賀城の密偵の長に密使を出す。この使いは、並みのものではつとまらない。アテルイは熟慮し、人任せにせず、自らが多賀城に行くことにした。
 モレは当然のように反対した。五尺足らずのモレが、六尺を超えるアテルイよりもさらに大きく感じるほどモレの怒りは凄い。磐余の大巫女であるモレが発する怒りのエネルギーはとてつもない。モレはアテルイの目を凝視しつつ激しく話し始めた。
「アテルイ、何を考えているの。あなたは、蝦夷軍の大将よ。大将に万が一のことがあったら、どうするの。あなたが自分で行ってはいけないの。ダメよ。誰か他のものに行かせて。お願い・・・」
 気の強いモレが泣き出した。アテルイは、そっとモレの肩を抱きしめながら答えた。
「モレ、お前の心配はわかる。俺に何かあったら、お前が蝦夷軍の大将になればいい。俺はこの戦いで大和軍を完膚なきまでに叩き潰したいんだ。そうすれば、次の戦いまでの猶予期間ができる。そうしてその猶予期間に、蝦夷の自然を守る最良の道を探したいんだ。頼む、俺を信じてくれ」
「わかったわ。では、これだけは約束して。必ず帰ってきてね。警護の兵は手練れの兵を連れていってね」
「当然だ」
 その日のうちに、アテルイは、柵の農民に変装して、多賀城に潜入した。多賀城は蝦夷との戦いの準備でにぎわっていた。見張りの兵も、蝦夷の大将が侵入してくるとは思わず、アテルイは簡単に入ることができた。辺りを警戒しながら、密偵の長と連絡を取り合う。その日の深夜、人気のいないところで会うことになった。それまでは、全てにおいて目立つことのないように気を配り、時間をつぶした。
 深夜、打ち合わせの場所に行くと、密偵の長は、すでに来ていた。いつの間にか、アテルイを尾行していた二人が密偵の長に報告している。
「アテルイ様、尾行はありませんでした。しかし、思い切ったことをなさる。アテルイ様の警護のために、作戦が変更になるかもしれませんでしたぞ。最悪、我々の正体がばれる可能性もありました」
「申し訳ない。多賀城の雰囲気を自分で感じたかったんだ。それと、お前に作戦をきちんと伝えておきたかった」
「わかりました。時間がありませんから、手短にお願いします」
 アテルイは、蝦夷の各集落の族長たちとの軍議の結果を密偵の長に伝えた。それは、大和の兵を分散させること、次に囮を用いて、自分たちのホームグラウンドに敵をおびき寄せて戦うこと、そして、蝦夷の兵を実際よりも多く見せるために、騎馬隊を最大限に活用することの三つである。
最後に、この作戦を有利に動くために、多賀城の密偵チームは、独自の判断で動いていいという許可をアテルイは与えた。
 密偵の長はニコリともせずに、黙礼をして暗闇の中に去っていった。アテルイたちも、翌朝早く、柵の農民に紛れ込んで、多賀城を脱出した。
 三月になると、多賀城内が慌ただしくなった。武具の支給、携行食の支給、軍ごとの動きの確認など、出征の準備が仕上げの段階にはいっていった。九日、華々しく装った紀古佐美を大将とする大和軍五万二千八百余名の兵は、多賀城を出発した。紀古佐美は、蝦夷連合軍との戦いを有利に持って行くため、軍を、前軍・中軍・後軍の三つに分け、それぞれ日高見国に向けて北進させた。
 蝦夷連合軍は、作戦通り、小騎馬隊を使った巧みなゲリラ戦法で、大和軍の進軍を悩まし続けた。まさに、虚々実々の戦いを展開した。そのため、二十日と言う日数をかけて、衣川付近まで進軍した大和軍は将軍たちも兵士たちも疲れ切っていた。
 衣川周辺は平野である。広く周囲を見渡せる。敵のゲリラが攻めてきても防御の陣を取りやすい。結局、ここで、一ヵ月という長期にわたり、大和軍は宿営することになる。一ヵ月の休養は、肉体の療養にプラスになったが、精神の高揚には程遠く、逆に緊張感のない兵の集まりになってしまった。周囲の山々に隠れながら、大和軍の様子をうかがっていたアテルイは、そのだれている様子を見て、チャンス到来だ、と思った。早急に都の密偵に使いを出し、事実が大和の帝に伝わるように指示する。大和の帝は、使者を発して紀古佐美を叱責した。
突然の帝の叱責に驚き怪しみながら、三軍に分かれた蝦夷征討軍は衣川を出発し、北上川を西岸から東岸に渡るために進軍する。
大和軍の前軍との戦いを担当したのはモレだった。モレの仕事は大和軍の前軍が北上川を渡河させないようにすることである。つまり、戦いの場から外れてもらうのである。そのために、騎馬隊を最大限に活用した執拗な戦いを挑んだ。モレの作戦は成功し、大和軍の前軍の北上川渡河を阻止することができた。
大和軍の中軍と後軍は、それぞれ北上川を渡河してもらう。そのあたりに、アテルイ率いる三百の蝦夷軍を配置し、囮となってホームグラウンド巣伏村辺りまで誘い込む。
最初、囮をアテルイ自らが引き受けることを発表した時、蝦夷連合軍の誰もが反対した。それは、囮は最も危険な役割だったからだ。
「アテルイ殿、自ら囮になる必要はありません。私が囮になります」
「いや、私が」
「みんな、待ってくれ。囮役は危険な仕事だ。でも、今回の囮は重要な役割なんだ。この作戦は、囮の働きにかかっているといってもいい。危険な仕事はリーダーの俺がやる。それが俺の戦い方だ。頼む、俺にやらせてくれ」
 アテルイの言葉に、誰も反論する者はいなかった。三百の兵もアテルイが選抜する。選抜した兵にアテルイは話した。兵たちは、アテルイを力強い眼差しで見つめている。
「お前たちの命を、俺に力をくれ。でも、俺は一人も失わずにこの戦を戦い抜くつもりだ。この戦いは、すべてお前たちの働きにかかっている。俺たちは、数の戦いでは大和と十回戦って十回負ける。しかし、この胆沢の土地で、胆沢を知り尽くしたこの俺が作戦を立てて、俺を信じているお前たちが力を発揮してくれるならば、十回戦って一回は勝つことができる。その一回が今回の戦いだ」
 兵たちは、アテルイの言葉に大きく頷く。
「蝦夷の自然は俺たちで守る」
「おぅーっ」
 大和軍の中軍と後軍が北上川を渡って、蝦夷の土地に攻め込んでくる。アテルイ率いる三百の兵は、大和軍の勢いにかなわないというポーズをして逃げる。追いつけそうで追いつけない距離を微妙に保ちながら蝦夷軍は巧みに逃げる。とうとう、巣伏村の辺りまで、アテルイ率いる三百の兵は大和軍の中軍と後軍を引っ張ってきた。
 すると、アテルイ率いる三百の兵はすっと山中に姿を隠した。追うものの姿を見失い、大和軍が一瞬エアポケットに入った時、大和軍の前軍が進軍してくる予定の方向から進んでくる軍が見える。紀古佐美は隣の副将軍入間広成(いるまのひろなり)に話しかける。
「入間副将軍、前軍があそこに。作戦通りおの進軍だ。これで我々の勝利は間違いないな」
 大和軍の兵士たちは、味方の軍を見て勢いづく。ところが、兵士の姿がはっきりと見え始めた時、入間副将軍が甲高い声で叫んだ。
「紀将軍。あれは蝦夷軍です」
 大和軍の中から、悲鳴のような声が上がる。蝦夷軍を味方だと勘違いし、一端、気の緩んだ大和軍に、八百名の蝦夷軍が攻めかかった。大和軍の混乱は目を覆うほどである。入間副将軍が声を枯らして、なんとか陣を立て直そうと試みるが、効果はほとんどない。とにかく、周りの兵を何とか集結させた。しかし、そこに、北東の山から、新手の四百の蝦夷軍が攻めてかかってきた時、大和軍は押し寄せてくる津波に流されたように崩壊した。兵たちの戦う意識はぶっ飛び、一気に逃走モードのスイッチが入る。大和軍は、北上川を目指して、我先にと重なり合うようにして逃げた。
 後に、紀古佐美が大和の帝に提出した報告書によると、大和軍の戦死者は二百七十名、溺死者は千三十六名、ちなみに蝦夷軍の戦死者は八十九名であった。
戦いは、蝦夷連合軍の圧勝に終わった。
 戦いの後、蝦夷連合軍の首脳たちは集まった。みんな上気した顔をしている。
「なんだ、大和軍って、こんなものか」
「俺らの方が強いぞ」
 みんなの威勢のいい言葉を聞いて、アテルイが発言した。
「みんな、聞いてくれ。今回の戦いは上手くいった。でも、戦いはいつも勝つとは限らない。忘れてはだめだ。大和は、ここで負けても帰るところがある。俺たちはここで負けたら、帰るところがなくなるんだ」
みんなはシーンとなる。
「そうだ。アテルイ殿のおっしゃる通りだ。喜んでばかりいないで、次の戦いに向けての準備も始めよう」
「でも、今日だけは騒ごうぜ」
 今夜だけの、蝦夷の宴は夜を徹して行われた。

 戦いのない平和な生活をアテルイは願っていた。しかし。その願いは、当然、叶うことはなかった。大和の帝の命令で、既に、第二次蝦夷征討の計画が進んでいた。征夷大使は大伴弟麻呂、征夷副使は坂上田村麻呂、百済王俊哲らが命じられた。
 七九〇年には革の甲二千領、七九一年には征矢三万四千五百本など、着々と準備は進められていた。
 七九五年、大和軍は十万の兵を動員し、蝦夷に攻め込んだ。征夷副使である田村麻呂を中心とした軍編成で、大和軍は蝦夷軍に挑んできた。
 第一次蝦夷征討の時とは異なり、討ち取った蝦夷四百五十七名、捕虜になった蝦夷百五十名、捕獲した馬八十五匹、焼いた村七十五など、大和軍の勝利と言える内容だった。
 今回の戦いでも、アテルイは情報収集に取り組んだ。しかし、征夷副使の坂上田村麻呂が蝦夷側の動きの先を読み、対応してくるので、思い切った作戦をとることができない。さらに、田村麻呂に密偵の存在が暴かれそうになり、密偵の一部を引き揚げさせるなど、すべてにおいて後手に回ることが多かった。アテルイにとって、田村麻呂は強敵であると同時に、なにか気になる存在だった。
 アテルイは、田村麻呂に関する情報を得ることを、都に忍ばせている密偵に指示した。数日後、都の密偵の長がアテルイのもとに報告に訪れた。
「アテルイ様、田村麻呂様はなかなかの人物でございます。アテルイ様もご存じのとおり、田村麻呂様は、戦いよりも民の生活に配慮なさる方でございます。蝦夷との戦いにしても、膨大な兵士を動員して、がむしゃらに攻めてくることはいたしません。民の生活を安定することを第一に考えていらっしゃいますので、動員にも配慮がございます。また、我々蝦夷に対しても、一方的に敵視するだけではなく、最後まで抵抗する蝦夷に対しては、断固として容赦のない態度で臨みますが、帰順してくる者に対しては後々の生活を保証して下さいます。そういう方ですから、部下の信望を多く集めていらっしゃいます」
「そうか」
「アテルイ様、大変失礼なことを申しますが、そういう面で、アテルイ様と田村麻呂様は似ているところがございます。一度、お会いするという選択肢もございます。その際には、我々が命をかけて、アテルイ様をお守り申し上げます」
「そうか、田村麻呂とはそのような人物か」
「密偵の一人がこんなことも申しておりました。確かに懐の広い方ですが、したたかな部分もあると申すのです。ですから、常に、一手先を読み、対応してくる。絶対、油断はなさらない方がよいと。自分の思い通りにならないと思えば、潰しにかかる方だとも申しておりました。ご参考までに」
 都の密偵の長と話をして、アテルイは、田村麻呂に会うという選択肢の可能性を考え始めた。どこまでわかりあえるかわからないが、自分の思いを伝えることはできる。その場で暗殺される可能性もないわけではないが、田村麻呂はそういうことはしないという確信があった。
 坂上田村麻呂は、第二次蝦夷征討の功が認められ、七九六年十月二七日、近衛少将に兼ねて鎮守将軍を命ぜられる。さらに、七九七年十一月五日には、征夷大将軍に任じられた。名実ともに征討の総責任者となったわけである。このとき、田村麻呂は四十歳である。八〇一年閏正月十四日には節刀が下賜され、第三次蝦夷征討が始まった。今回の動員兵数は四万名である。
 第三次蝦夷征討の情報が、各地の密偵からアテルイに入ってきた。しかも、今回の大和軍の総大将は坂上田村麻呂である。アテルイは、以前から考えていたことを実行することにした。
モレに使いを出すと、モレはすぐ駆けつけてくれた。
「モレ、大事な相談がある」
「田村麻呂に会いに行くの?ダメだと言っても、どうせ行くんでしょう。止めないわ」
「モレ・・・」
「アテルイ、私はあなたの隣よ」
 アテルイは多賀城内の帰順した蝦夷に話を通し、田村麻呂との会見の設定を頼んだ。その蝦夷の報告では、田村麻呂もアテルイに会うことを了承したらしい。アテルイは念のために、多賀城と都の密偵の長にも田村麻呂との会見のことを伝えた。
 会見の日、アテルイは、戦いの準備のための雑多な人ごみに紛れて、多賀城内に潜入した。会見の時間まで、大和に帰順しつつもアテルイに心を許してくれている蝦夷の家に潜んでいた。
日が落ちて、人の顔がぼんやりとしか判断できなくなった頃、その蝦夷に伴われて、アテルイは田村麻呂との会見の場にむかった。部屋に入ると、一人の男が部屋の上座に座っている。部屋に入るアテルイを見て、その男は何とも言えない笑顔を見せた。それは十年来会っていない友に見せるような懐かしい笑顔だった。
「アテルイ殿ですね。田村麻呂です」
「はい、お初にお目にかかります。アテルイと申します」
「あなたとお会いしたかった」
「私もあなたとお会いできて嬉しいです」
 二人は、しばらくの間、言葉を交わさずに、見つめ合っていた。その互いの眼差しを通じて、二人は互いの人柄を見極めた。会見で交わした言葉は最低限の言葉だったが、一定のラインの合意を得ることができた。でも、打ち合わせの途中、田村麻呂が一瞬口ごもったのをアテルイは聞き逃さなかった。田村麻呂の中に、潔い武人ではない、したたかな政治家としてのもう一人の田村麻呂がいることにアテルイは気付いた。しかし、追求はしなかった。秘密裏ではあるが、蝦夷軍と大和軍が手を握る歴史的瞬間を作ることに会見の意義を見出していた。
 その後、大和軍と蝦夷軍との間で、戦いらしい戦いはなかった。それは、兵をむやみに死なせたくないという思いが、田村麻呂もアテルイも強かったからだ。
 九月二十七日、田村麻呂は朝廷に蝦夷を討ち平らげたという虚偽の報告をする。二人の会見後、蝦夷は、アテルイの指示でおとなしくしているから、その報告はある意味正しい。田村麻呂は帰京し、十月二十八日、桓武帝に節刀を返した。
八〇二年、胆沢城築城のため、田村麻呂は再び東国に派遣される。そして、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の国から、四千人の人々を胆沢城に移住させた。
 大和の帝は、田村麻呂に、今後の陸奥国のことを考え、少しでもマイナスの可能性の芽を摘むべきだと主張した。そして、アテルイの抹殺を指示した。アテルイレベルの指導者はそうそういない。アテルイを抹殺できれば、蝦夷軍は烏合の衆となってしまう。
 そこで、田村麻呂は、降伏か、蝦夷の山の焼却かのどちらかをアテルイに選ばせることにした。
 田村麻呂は、すぐアテルイに密使を送った。密使は、元胆沢村の蝦夷チロンヌプという男だった。
 チロンヌプは無事に使いを果たして帰ってきた。その時の状況をチロンヌプに問いただすと、アテルイは取り乱すことなく、平然としていたらしい。それを聞いて、田村麻呂は、アテルイの指導者としての器の大きさを知り、アテルイの恐ろしさをひしひしと感じ、自分の気持ちを固めた。
 翌朝、チロンヌプを、もう一度、アテルイのもとに送った。アテルイとモレの二人が五百名の兵と共に大和軍に降伏することを、チロンヌプは報告してきた。
六月十日、田村麻呂はアテルイとモレを従えて帰京する。田村麻呂の表情は能面のようで、そこからは何も読み取ることはできない。
田村麻呂は、降伏してきたアテルイに、自分の手柄に代えても、助命を言上すると約束した。しかし、その本心は別のところにある。武人としての田村麻呂は、アテルイとモレの二人の潔さを可としていた。しかし、政治家としてのしたたかな田村麻呂はアテルイの大きさを怖さを知っていた。
二人の助命をすることで、二人の信頼を得ることができる。また、他の蝦夷たちの信頼も得ることができる。ただ、今後の陸奥国の運営を考えると、蝦夷の中に力のある指導者はいない方が、自分にとって、ひいては大和にとって好都合だ。
政治家としての田村麻呂は非情な道を選択した。田村麻呂は自らアテルイとモレの助命をする。しかし、裏では公卿たちに次のような反論をするように指示した。
「野性の獣の心は、いつそむくかわかりません。たまたま朝廷の威光によってこの二人をとらえたのです。もし、田村麻呂様の申請の通りに陸奥国に放還すれば、虎を養って患いを残すようなものです」
さらに、田村麻呂は宮廷工作を続ける。次のようなことを公卿たち一人ひとりに巧妙に説く。
アテルイとモレの助命は、大和の国に帰属していない蝦夷を服属させるために必要なことである。しかし、蝦夷征討には莫大な犠牲を払っており、降伏してきた蝦夷の族長二人を生かして故郷に帰すことは、大和という国家の威信に関わることである。つまり、二人が処刑されることによって、蝦夷征討という行為は初めて正当化される。そして、最も大事なことは、アテルイとモレの処刑は今上天皇のご意向である。
田村麻呂の宮廷工作が実を結び、アテルイとモレの二人を八月十三日河内国の杜山で処刑することが決定した。
処刑のその日、牢から外に出たアテルイとモレは、微笑みながら共に青い空を見上げた。その青い空の向こうに、青々とした蝦夷の自然があった。その時、二人の処刑の場を一陣の突風が吹き荒れた。その風は、蝦夷の山の香りに満ちあふれた風だった。