<さくら>
教室の4月の画題、途中です。
墨の難しさを痛感しながら描いています。
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長いこと生きてきて、この世の中がそれほどこわい場所でもなく、太っ腹を気取って生きていてもたいした間違いではないことは知っている。
昔学生の頃、ほんの2年ばかりだが、ラグビー部に所属したことがあって、結構ハードなトレーニングに明け暮れていた。夏の10日間の合宿などは、OBがつききっりで、朝起きて、食事の時間を除けば、夕方までみっちりしごかれるので、足などパンパンにはれ上がって、次の練習のときは、靴に入らないようになる。
けれどもそれぐらい集中してやけくそでやる機会があると、1年生もやっと思い切ったタックルができるようになる。
だがそんなことをしていればこわいもの知らずな性格が出来上がるかというと、そういうものでもない。
クラブをやめて何年もたってからでも、たとえば町を歩いているときに、信号が変わって横断歩道を渡ろうとするとき、自分が一番先頭を歩き始めて、向こう側から一斉にやって来る人の列を見て、おびえる自分がいる。
考えてみれば、私のいたクラブは弱小のチームだったから、周りを見渡しても、全体に体も小さく、みんな気の小さい連中ばかりだったようだ。体のでかいのも、気の優しい男だった。
世界選手権などをテレビで見ていると、ラグビーという競技は、大きな外国人に太刀打ちできない日本人選手を歯がゆく思うけれど、力自慢の乱暴ものたちのする競技で、やわな気の優しい男が颯爽とスマートに見せてやるようなものではないことがわかる。モロに体のぶつけ合いの連続だから、ずっと怖さとの戦いである。こわさというのは、それになれるというよりむしろ、ますます募ってくることのほうが多い。一度そのこわさを知ってしまうと、想像することでかえって体が勝手にすくんでしまう。それは体の反応なので、自分で止めようがない。
世の中には、心底度胸満点のこわいもの知らず、太っ腹な人もいるのだろうが、人間というのは基本的にはこわがりな動物である。ものを考え、想像をめぐらすことができるということは、すなわち用心深く、細心である。それは同時に不安に駆られやすいということでもある。
ことに今の日本人は、ますますこわごわ生きているような感じを受ける。
人生を、採算を度外視して、思い切って、夢見たように生きてみるということはあまりないらしい。用心しいしい、想定ばかり重ね、それを超えてしまうと右往左往している。
昔、若い連中は無茶をするものと思われていたが、今は、海外雄飛などという言葉は死語にでもなったのか、出て行こうとする若者も減っているという。
だが、こわごわ生きていてろくなことはない。
こわごわ用心しながら暮らしていても、危ないことはやってくる。太っ腹を気取っていても、そのときどれだけのことができるかはまた別物だが、心配など何もないときからずっと不安な気持ちで生きているのではしょうがない。
この世の中は、危ないときには身を引き締めてかからねばならないが、穏やかなときもあるのだから、そのときは気を緩めて、何の心配もせずに、のほほんと生きていたいものである。
とはいえ、絵1枚書くのでもこわごわ描いています。
途中まで一生懸命描いてきて、最後に失敗してだめにするのは、やっぱりこわい。
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