ベネチア、サン・マルコ広場にある有名カフェ「FLORIAN」。
広場にあるカフェではどの店も生バンドの演奏があります。
外のテーブルはパイプいすを並べただけのざっくばらんなものですが、店内をのぞくと、相当格調高い雰囲気です。
カフェの話。
カフェは、単にコーヒーなどを飲む場所ではない。特にパリのカフェは、人々が仕事の合間や昼休みに一息いれるという生活と切り離せない場所であるばかりでなく、旅行者がパリの雰囲気を味わう空間であり、歴史的にはしばしば文学論議や政治論議が盛んに交わされた社交場でもあった。カフェのないパリを想像するのは難しい。(「カフェはパリの風物詩」児玉しおり)
私の生活においてもカフェがいる。
大阪にいたときは、天王寺などに出てスタバをはじめあちこちのカフェで座るのが好きだった。今も県庁のそばに新しくできたカフェや、時には駅まで出かけてドトールのカウンター席に座ってみる。
喫茶店には、はじめはコーヒーが好きででかけたものだが、機械出しのコーヒーを出す店が増えて、最近ではコーヒーの味はどうでもよくなり、それよりもそこに座り、人々が行きかうのを眺め、話し声が聞こえるガチャガチャとさわがしい雰囲気の中で、本でもよんだり、ぼんやり考えごとをしているのが好きというふうに変わってきた。
だから私にとっては、カフェは何よりそのロケーションが重要であり、座った場所から見える風景や様子、店の広さや空間デザインや配置、店員の気分のよい対応などということが重要なことになっている。
客がそのように変化してしまっている現在、コーヒーを出す側にいる人たちは大変である。
鳥取にもかつては街中に数多くの喫茶店があった。
大阪で知る人ぞ知る「マルフク」の本店は鳥取である。
だがコーヒーの味にこだわり、本格的といわれる味を追求しても始まらないだろう。若い人の中にはコーヒーが飲めない人が多い。
コーヒーというのは元来そういう飲み物だった。
わたしの経験でも、コーヒーは大人になるための儀式のようなものだった。あの当時はすでに、高校生は喫茶店に出入りすること自体禁止されていたわけではなかったけれど、けっして気安く入れる店ではなかったのだ。そこに入り浸ることが、それまでの子どもから脱して、大人になるという気配があった。
コーヒーの味などわかるわけもなく、苦いコーヒーをブラックでのどに流し込むというのみ方から入ったのだから、いまどきの若い人たちのように口当たりのよい、おいしい飲み物しか口にしない傾向があれば、飲めるようにはならないはずである。
だから街中の小さな喫茶店はほとんど姿を消した。
それも時代の流れであれば仕方がないか。
それでも喫茶店が少し姿を変えたカフェという名前で、若い人にもなじめる飲み物を出すことで復活してきたのはうれしいことである。
そんな店がいごこちのよい場所を提供してくれて、この町が気分のよい場所になれば幸いである。
先の文章の結びに、
パリのカフェの軒数は定かでないが、サンドイッチ店などに押されてかなり減っていることは確かだ。しかし、冬のつかの間に陽だまりの中、テラスで一息つくのは何ものにも代えがたいパリのカフェの楽しみだ。
パリには、まだそういう場所が残っている。