鳥取暮らし

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本音。

2012年04月10日 | 日記


もくれんもすっかり開いてしまいました。



堀端の桜もほぼ満開。

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考えてみれば、おれは人と話すとき、ある意味で大義名分しかしゃべらないいやみな人間なのかもしれない。妻としゃべるときでも、とにかくオレは立派なことしか言わんようになった。いや、それ以外の話がでけんようになっている。
もし相手が本音を漏らすような人なら、お説ごもっとも!としか言いようのない話しかできない。
長いことこういうことを繰り返して生きているうちに、何の面白みもない男になってしまったらしい。

こういう傾向は、教育を受けたまじめな人間が陥るのだ。
自分自身が何をどう感じ、どう思うかではなく、正しい、一般的な正解はどう答えることかを考えてしまう。それはえてして誰の意見でもなく、ただの一般論になってしまう。正しいかもしれないし、誰も反論は出来ないけれど、それがどうしたというようなもの。
だがオレにとっては、それ以外のものの考え方ができないのだからしょうがない。
おれ独自のものの考え方。感じ方。判断のつけ方というものがどういうことなのか、もう今はわからない。それはわからないけれど、とにかく自分が考える意見、おれができる話というのはそういうものでしかないことはわかる。

本音で話す、という言い方がある。酒を飲んで、自分の本音をさらすというあれである。
それはいったいなんなのか。
人はしらふで自制心が働くうちは、当たりさわりのないことしか言わない。
それが酔いが深くなるにつれ、そのつっかいぼうが外れて本音が出てくる。

そこで出てくる本音とはなにか。

普段人には隠して見せない部分が誰にでもある。それは人には隠しておきたい、見せたくない、見せれば恥ずかしいと自分が感じる部分である。
あるいは言っても無理な願望。
幼い自分。
いぎたない自分。
自分勝手な考え方。
そういうものを人は本音と呼ぶのだろうか。

だとしたら、そんなものをそれらしく話の中にちらつかせるぐらいは簡単なことだが。

たとえば、差別はいけないことは誰でもわかっている。だが、俺はあいつが嫌いだということがあるとき、差別するわけじゃないけどね、と前置きをつけてそれを声高にいうなどということがある。それはしかし卑怯な言い方だ。
言ってはいけないことはわかっている。しかし自分の言いたいことだけははっきり言う。

たとえば東北の瓦礫処理の引き受けの話。いってはいけないけど、引き受けるのは絶対反対。

しかし、そんなことを口にすることが自分らしいといえるのだろうか。
本音を言わず、建前しか口にしないといって人をいやみなやつだとけなす前に、いったい本音を平気で口にすることがどれほどのことなのか。ただ、知性に欠ける、つまらない人間であることをひけらかすことがどれほど重要なのか。そのほうをオレは疑う。

おれはただの常識人かも知らん。面白みに欠ける、小さな人間かも知らん。それでも両親があんなに苦労してオレにつけさせた教育のいくらかの成果がオレにあるとしたら、決してそんなことは口にしたくない。何が正しいのか。何を考えなればならないのか。それが大事なことであって、自分の都合を上手に主張し、自分が損しないよう、自分が得するような道筋をつけたいと言い張るような行動など、絶対にとりたくない。

おもしろみなどなくて結構。
オレはまともな常識的な人間であるほうを選びたい。常識的な判断をずっと考えていられる人間でありたい。

せめてそれが、オレが両親に対してできる感謝である。

幼いままの人間であることを彼らは望まなかっただろう。
ちゃんとした大人に成長することを望んだはずだ。
恥ずかしい人間ではだめだと考えただろう。
どこまでも動物的な欲望を色濃く引きずって生きてほしくはなかったはずである。
本音をさらして自分の主張ばかりする人間にはなってほしくなかったはずである。
他人の痛みの分かる人間になれと考えていたはずである。
彼らは自身教育など受けなかったけれど、少なくとも彼らはそういう人ではなかったと、今はわかる。

今日は母の命日である。


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