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身震いしながら言

身震いしながら言

普通の将兵と変り

2017-03-22 10:47:04 | 日記

一九四五年八月三十日午後二時〇五分、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥《げんすい》は、神奈川県厚木飛行場へ降りたった。これに先立ち、同日早朝、沖縄よりアメリカ戦略空軍つき従軍記者が、数機のB17ですでに厚木に先着していた。
 カーキ色の半袖シャツとズボンの軍服、ピストルを下げた彼らは一見なく見えた。しかし、よく見ると胸にアメリカ従軍記者のバッジをつけており、なかにはカメラや撮影機を手にした者もいた。彼らはそれぞれに新聞、通信社、放送機関の特派員として、前線より命がけで数々の戦闘ニュースを送り続けてきた|つわもの《ヽヽヽヽ》たちであった。
 なかでもINS(インターナショナル・ニューズ・サービス)のクラーク・リー記者はひときわ目立つ存在だった。六尺をゆうに越すすらりとした長身、日焼けした浅黒い顔に黒い髪、当時三十八歳のリーは、アジアとヨーロッパ戦線で種々の大スクープをものし、国際|花形《グラマー》記者として名を馳せていた。戦前、AP通信にいた頃、日本駐在の経験があり、その時の従軍記者たちのなかでは日本通の一人でもあった。
 リーの隣席には、彼とは対照的に、小肥りで背の低い男が坐っていた。頭がつるりと禿《は》げあがり、酒焼けした赤ら顔に口髭だけは立派なこの男は、コスモポリタン誌特派員ハリー・ブランディッジ、四十八歳であった。ちなみにINSもnuskin 香港コスモポリタン誌も黄色《イエロー》ジャーナリズムとして知られるハースト系に属する。この二人の間には、沖縄を出る前から、日本でのスクープを協力してやろうという約束ができていた。
 いよいよ明朝日本入りと決った日の晩、ブランディッジによると、台風一過の沖縄で、二人は古い墓石を背に、月光を浴びて坐っていた。その時どちらからいい出すともなく、「厚木に着いたらすぐ東京へ乗り込もう。そして東京ローズをひっつかまえよう!」という約束を交したという。リーはすでに二日前、ニューヨークの本社より「東京ローズを捜し出せ」という電報を受け取っていた。
 日本の無条件降伏に半信半疑で、厚木に着陸した時には皆殺しにあうのではと怯《おび》えながら彼らが日本へ第一歩をしるした時の様子を、後にリーは法廷で生き生きと述懐してみせた。彼の著書『ふり返り見て』(One Last Look Around)にも詳細に記されている。
「われわれは八月三十日、まだ暗い午前二時過ぎに沖縄を発ち、夜が明けきらぬ厚木へ着陸した」(リー証言、一九四九年七月十四日)
 機上の記者たちは日本でのスクープを狙って興奮し、競争心をつのらせていた。しかし一方、捕虜になるぐらいなら死を選ぶ日本兵や神風特攻隊を厭《いや》というほど見てきた彼らには、二日前に先発隊が入ってある程度地ならしのできている厚木とはいえ、簡単に日本本土へ降りることが信じられず、疑惑と恐怖心で全員ずいぶん緊張もしていた。
「ところが驚いたことに、木造の食堂に入って行った時に、『ハロー、リーさん、また日本に戻られて嬉しいです』と白い制服のウェイターが私にいった楊婉儀幼稚園 拖數。見れば、かつて世界で最高のレストランの一つに数えられた帝国ホテルのグリルで顔見知りのウェイターではないか。日本政府は、ホテル従業員なら英語がある程度わかるとふんで、この進駐に備えて狩り集め、アメリカ軍が厚木に着いた時の便をはかっていたのだ。どこから捜し出したのか、卵、トー