あさひがのぼり今日がはじまる

あさひやファミリーblog

みなさんよんでください。

2011-09-03 21:54:21 | Weblog
フクシマの方のこえです。

わたしはこの文章を読んで、いまいちど考え想いなおしました。

原発問題、これからもつづく未来のはなし。
わたしたちは、本当のことを見つめるめを養わなければならない。

より多くの人に友人のページより拡散させていただきます。



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福島の春は、凍っていた土が解け、全てがうごめき始める季節。
たくさんの鳥は囀り、梅や桜や桃は一斉に咲き乱れる。
福島の夏は緑が深まり、ほたるが舞う。
ヒグラシが昼と夜の移り変わりを教え、涼しい風が吹く。
福島の秋はコオロギの声が響き渡り、
色々な実りが輝き、山々が鮮やかに色づく。
福島の冬は、木々の葉は落ち、森は静まりかえる。
うっすらと白くなり、一年で一番空気が透き通る季節。
福島は自然が豊かで美しい所だ。

福島の人はやわらかい。
福島の人は情が深い。
福島の人は義理が厚い。
福島の人は優しかった。
福島の人にたくさんの愛情をもらって、今の自分がある。

私は福島が好きだった。
福島の人たちを愛していた。
そんな福島に骨を埋めようと思っていた。
それなのに、福島をどうして離れなければならないのか?
私から福島と福島の人たちを引き離すのは誰?

あの日、私の中では現代文明が終わった。
平和な夢から、いきなり叩き起こされた。
今までの便利、快適な世界は全て夢だったと知った。
幸せな世界は儚い夢だった。
現実は、命の危機に絶えず怯え続けなければならない
みじめな世界だった。
子どもたちも怯え、泣いていた。
ひどく当惑した。
大好きだったふるさとへの愛着…。
それを振り切って別れなければならないのは悲しいこと。
でも、私には幼い子どもたちがいる。
そして、幼い子どもたちを連れ家族で福島を去る決断をした。
そして避難した。
必死に避難した。

すると、そこは
まだ夢の中にとどまっている世界だった。
私はひどく混乱した。
どっちが本当なの? と。
命の危機に絶えず怯える世界と、
便利と快適とになんとなく浸かっていられる世界。
二つの世界は互いに相容れない。
夢の中の住人達は自分の平和を享受し続けるばかりだった。
再び夢の中に舞い込んだ自分は迷子になった。

*

津波の被災地は助け合って復興を模索している。
マスコミはそのような物語が大好きだ。
大変な苦労があるが、そこには「明日」がある。
マスコミを賑わすのはそんな「明日」ばかりだ。

一方、フクシマはマスコミからは抹殺されている。
放射能に対する当惑、混乱、悲しみ、怒りは、
今、メディアに流すことが固く禁じられている。
放射能被害地の住民による国会議事堂前座り込みだとか、
反原発の大規模デモなどメディアで報道することはもってのほかなのだ。
だからメディアに表れている福島県民の声は、
編集され、選別された当り障りの無い発言だけだ。
福島の人はみんなそれに気付いている。
だから、日本からの疎外感さえ感じている。
自分達の存在そのものが日本から抹殺されていくのではないか?
自分達はこのまま封印され忘れられていくのではないか?
この不安は、放射能よりも恐ろしい不安なのだ。

そうして、メディアに出る声は操作されたものばかりだ。

夢の中の住人達はそれを見て、
フクシマの人間のことをホントに呑気で無頓着な人間だ、
と思うのだろうか?
本当は、放射能汚染を、福島の人間は怒っているのだ。
そして、悲しみをこらえているのに…。

*

フクシマには「明日」が見えない。

「ただちに健康に影響はない」
これほど人を馬鹿にしている言葉は無い。
「がんばろう福島」
これほど偽善的な言葉は無い。

フクシマには「明日」が見えない。
本当は「明日」は無いということを
福島にとどまっている人間もうすうす気付いているのだ。
でも、それを認めてしまったら絶望するしかない。
それが悲しすぎるから、もがいているのだ。
少しでも希望をつなぎ留めるために…。

フクシマは本当は嘆いている。
しかし、その嘆きはメディアでは抹殺される。
それは、なぜか?
フクシマの嘆きは国家批判に直結するからだ。
それは、なぜか?
国家が加害者だからだ。
そう、フクシマは犯罪の被害者なのだ。
そして加害者は、被害者の訴えを封じ込めることに必死だ。
東電も政府も直接告訴されることを避けるために姑息だ。
マスゴミはいまや加害者の情報兵器に成り果てた。
その完全な証明が今も毎日続けられている。

「風評被害」などというものはない。
「風評被害」ではなく「放射能被害」なのだ。
「風評被害」とは、
加害者を国家から市民にすり換えるための欺瞞だ。
本当の加害者は誰?

所詮マス・ゴミ。
マスゴミは、マスなゴミ情報を流すばかり。
それは、何のために?
それは、鋭い光を放つ宝石を排除するため。
それは、何のために?
真実を隠蔽するため。
それは、何のために?
羊の群を統率するため。
政治家とはただの番犬だ。
番犬はその特権にしがみつく。
本当は羊なのに犬のお面かぶって!
人類全体への裏切り者だ。

*

今、福島の人は耐えている。
不安に駆られながら。
できることなら避難したいのだ。
しかし、抱えているものが多い人ほど簡単には動けない。
なかなか動けずに、命を諦めてしまってもいる。
生存権が踏みにじられている。

フクシマの声を広く伝えていくために、
本当は、「フクシマ」を軸に団結をしたいのに、
元気な人達は遠くへ避難して、散り散りバラバラになってしまった。
そして、避難した人は、
慣れない避難先で新たな困難に直面して余力がない。
だから、加害者である国家へのフクシマの訴えをなかなか広げられない。

日本国内に、原発の名称に立地市町村名を付けずに、
県名を付けた原子力発電所は他にない。
原発の名称に県名を付けていたがために、
「福島」県全域に「フクシマ」という汚名を着せられることになった。
「ヒロシマ」も「ナガサキ」も広島市と長崎市を思い浮かべるが
「フクシマ」は福島県全体に漠然と結びつく。
その理由は「福島原発」が福島市にあるわけではないからだろうか。
まして、福島県全域にあるわけでもないのに。
福島第一原発はどうして「大熊原発」ではなかったのだろう?
福島第二原発はどうして「富岡楢葉原発」ではなかったのだろう?
そうして、「フクシマ」という言葉によって福島県全域が
放射能汚染のブランドになってしまったのだ。
そして、この「フクシマ」の汚名がために、
今あちこちで福島県民に対する新しい差別が始まっている。

日本の中でも面積が広い県である福島県内には、
放射線量が高い所もあれば低い所もある。
低い所は、他県の放射線量が高い所よりも線量が低い。
なのに、「福島」というだけで無条件の差別をされたりする。

それは、放射能の高い所と低い所との調査もせずに、
マスゴミが「フクシマ」を連呼したお陰で成就された。

福島の人は県外の食堂で入店拒否をされなければならないの?
福島の人は県外の宿泊施設から断わられなければならないの?
福島の車は県外の駐車場で避けられなければならないの?
福島の車は駐車場で傷を付けられなければならないの?
福島の車は駐車場でイタズラ書きをされなければならないの?

福島県の周囲の県ではいろいろな事が起きています。
福島の子供たちもそれを知っています。
福島県外の大人たちのそういう行動を見て、
福島の子どもたちは何を思うでしょうか?

福島の人は福島県から外に出ちゃいけないの?
福島の人は避難もしちゃいけないの?
福島の人は県外に引越しちゃいけないの?

福島県外の人は福島から人や物が移動してくることを
必ずしも喜んではいないようです。
福島から出ることは悪いことですか?
福島の人に近付きたくないですか?
福島の人は汚れているのですか?
放射能は感染するのですか?
福島の人は特別ですか?
福島の人も、何も変わらない同じ人間です。

福島の人は結婚しちゃいけないのですか?
福島の人は子供を産んではいけないのですか?
福島の人は流産するのですか?
福島の人からは奇形児が生まれるのですか?

福島の子どもたちは癌で死ななければならないのですか?
福島の子ども達には「明日」はあるのですか?
いつになったら「明日」はくるのでしょうか?

福島の女性はすでに卵子に損傷を受けているかもしれません。
だから、福島の女性は妊娠をしても流産するかもしれません。
健全な赤ちゃんを産むことができないかもしれません。
だから、福島の女性は子供を産むな、というヒドイ暴言まであります。
そして、福島の女性はすでに結婚差別をされています。
しかし、そのようなことが許されていいものでしょうか?
フクシマにだけリスクを押し付けていいのですか?
原発を許してきた日本人に、
福島の女性を差別する資格があるでしょうか?

福島を差別するのは、
はなはだ利己的な態度ではないでしょうか?
原発を許してきた日本人には、
この痛みと苦しみを分かち合う責任があると思います。
それこそが、原発を許してきた人類にとって、
原発との共存、あるいは放射能と共存する
という本当の意味ではないでしょうか?

私たちは、すでに抱えてしまったダメージとリスクとを
隠すべきではありません。
隠したら、多くの人が疑心暗鬼の闇に迷い込んでしまいます。
私たちは真実に向かい合い、それを見つめなければなりません。
いくら辛くても、その苦しい現実に正面から向かい合い、
その問題から目を逸らさずに取り組まなければなりません。
そうしなければ、道は開きません。

*

原発は、
合法的殺人の平時への適用です。
原発によって人間は合法的に殺されていきます。
原発労働者は命を貢ぐ特攻隊です。
原発立地地域住民は、初めから死んでも仕方ない生き物扱いなのです。
田舎の住民の命の値段は初めから安く計算されています。
だから原発は都会に作らず田舎に作られます。
原発は、立地の時点ですでに田舎差別が原理として働いています。

原発は仕方が無いという人は差別肯定者です。
原発は必要悪だ、などという人間は殺人加担者です。
戦争は必要悪だと言うのと全く同じです。
たとえ原発を自分の裏庭に誘致したとしても許されるものではありません。
その原発から出る放射能で
地球上全ての生命にダメージを与えるのですから。

*

私は福島を忘れない。
忘れることができるはずがありません。

国家はマスゴミを使って福島の人間を切り捨てようと企んでいますが、
私たちは決して福島の人を忘れてはならなりません。
フクシマを見殺しにすることは、人類の未来を見殺しにすることと同じです。
福島の人を見守り、見つめていかなければなりません。
そして、フクシマに愛をずっと注いでいかなければならなりません。

そうしなかったら、人類に未来はありません。






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2 コメント

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Unknown (牛嫁)
2011-09-04 12:35:29
目をそむけないで、ちゃんと向き合っていかなきゃ駄目だよね。ありがとう。
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Unknown (りえこ)
2011-09-09 11:53:16
ほんとうにそうだよね。
ありがとう。
子供たちにも正しく伝えていきたい。
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