投資家の目線

投資家の目線813(逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想)

 近年、中国海軍の拡充が話題になっている。尖閣諸島における日中のせめぎあいも、従来の棚上げ論を否定し、胡錦涛主席の警告を無視して行った日本政府による尖閣三島の国有化宣言だけでなく、海警局および中国海軍増強も関係あるのだろう。ロバート・ゲーツ元国防長官の著書「イラク・アフガン戦争の真実 ゲーツ元国防長官の回顧録」(井口耕三、熊谷玲美、寺町朋子訳 朝日新聞出版 p548)には、ゲーツ長官訪中時に中国が新型ステルス戦闘機をお披露目したことを「人民解放軍があらかじめ胡主席に知らせず、これ見よがしの政治的スタンドプレイをしようとしたのは、少なくとも憂慮すべき事態だった。」と記している。山田朗著「昭和天皇の軍事思想と戦略」(校倉書房 p131)には、「満洲事変の勃発の際も、熱河作戦の時も、日中戦争が拡大した時も、天皇は当初は反対した。しかし、現実的な戦果が挙がり、勢力圏拡張が達成されると、事態を事後承認し、独断専行者たちを賞賛するというやり方を繰り返した。」と書かれている。昭和天皇がこのようなやり方をとれば、軍の自重など期待できない。しかし若き天皇側から見れば、はるか年長者がトップにいる軍を抑えるのはなかなか難しいということもあるのだろう。張作霖爆殺事件の処理に関連して田中義一首相に辞表を出させたときは、周辺から大いに反発を食らったようだ。

 「逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想」(小林一三著 講談社学術文庫 p27~28)には、日清戦争に関する記述がある。明治『二十六年の秋頃から二十七年にかけて金融は大緩慢、交換所の日歩は五厘を上下した。無日歩で借り手の無い時もあった。五分利整理公債の市価が百七、八円に騰った。(中略)三井銀行本店から「これ以上に預金が殖えては困るから、丁寧に預金をお断りするようにせよ」という、今考えると虚言のような命令がきた。(中略)この金融情勢による経済界の好況が、日清戦争開始の決意を断行せしめたのである。それは明治二十四、五年から芽ばえた勤倹貯蓄の国民的運動の効果である。その原因は清国の日本に対する脅威に自覚したからである。清国北洋艦隊のデモンストレーションが日本の近海を横行し、横浜港外に定遠、鎮遠の酷S艦ほか数隻が威風堂々と碇泊し、提督丁汝昌の新橋月メに大もての光景が、三面記事として新聞紙を賑わした連日のニュースは、いかに我々をして憤慨せしめたことであろう。酷S艦を持たない我国の貧弱さを眼前に見せつけられて、海軍大拡張は国民の輿論となった。海防費献金は全国の富豪をして、よしそれが勲章との取引であったにせよ、津々浦々に行き渡った。政府の官吏は俸給の何分の一を喜んで犠牲にした。かくして我国にも艦隊らしい艦隊なるものが出来上りつつあったのである。』と、当時から日本は超大国中国に対する対抗意識が強かったようだ。好況とは言えないが、超金融緩和という経済状況も当時の日本と似ている。

 小林は日清戦争を「日本は断じて侵略戦争を起したもので無く、やむにやまれず、売られた喧嘩を買わざるを得なかった事情は、すでに世界周知の決定版である。」(p28)という。しかし、日清戦争の原因となったのは甲午農民戦争(昔風に言えば東学党の乱)で朝鮮が清国に援軍要請したことに対抗し、日本が居留民保護を口実にした朝鮮へ出兵したことである。日清戦争時に一番被害が大きかったのは朝鮮の人々と言われるが、小林は朝鮮のことについて何も触れていない。

 同書には「私の大臣落第記等々」(p240)という記述もある。「泡沫の三十五年 日米交渉秘史」(来栖三郎著、中公文庫、p214~p216)には、『果せるかなこの度の戦争前、わが国が小林一三氏や芳沢大使を蘭印に派して、日蘭交渉を行った際にも、自分がその交渉に関った石沢総領事に確かめたところによると、オランダ側は石油の輸入量についても新油田の開発についても、日本の要求を全部容認したのであって、すなわち外務大臣の自分に対する口約を立派に果したのである。ただあの時、日蘭交渉が成立しなかったのは、ある種の物資に対する日本の要求が日本自身の所要推定量を超えているので、蘭印側としては当時オランダ本国を占領している敵国ドイツに転送されることを恐れて、その物資について日本自身の合理的所要推算量以上の輸出を拒んだためであると聞いている。もしあの当時、石油についてだけでも、日蘭協定が成立していたのなら、米国は自身の石油の売り止めはできても、蘭印石油の輸出まで止めさせるわけにはゆかなかったはずで、蘭印石油輸入年額数百万トンに関する限りは、「ジリ貧」は日本自身が招いた事態といわなければなるまいと思う。』と書かれている。第二次日蘭会商使節団の初代代表は、「日本は三国同盟の有無に拘らず、万一、ドイツ側に敗色濃厚なる時は、之が援助に赴かざるべからず」と述べて蘭印との交渉を暗礁に乗り上げさせ(「戦争と石油(3) 『日蘭会商』から石油禁輸へ =v 岩間敏 石油・天然ガスレビュー 2010.3 Vol.44 No.2 p75)、交代させられた小林一三商工大臣である。ABCD包囲網ができた責任は小林にもある。

 今の日本は、当時と同じく世界情勢と日本の実力を見誤っていないだろうか?石射猪太郎は著書「外交官の一生」(中公文庫 p412)で、「まだ太平洋戦争に間のあった頃、ドイツ人を乗せたわが商船を、イギリス軍艦が房州沖で臨検し、それが日本・イギリス間の問題となったことは、世人の記憶に新たなところであろう。イギリス軍艦としては、国際法上認められた権利を行使したまでのことであったが、日本の強硬論者が騒ぎ立てた。たとえ領海外の臨検であっても、いやしくも富士山の見ゆるところでのこの権利行使は、許しておけないと怒号し、合理的に問題を解決しようとする政府の態度を軟弱外交だとして責めた。今日、富士山の見ゆるところは愚か、皇居前の広場で、進駐軍の閲兵式が行なわれるようになったのは、こうした強硬論の集積した結果に外ならない。」と書いている。日本の都市には防空壕はなく、山陽本線が寸断されれば西日本の輸送量が激減する。強硬論を採用しても日本は防御力が弱く、戦闘継続能力がないのだ。太平洋戦争前、対米戦争で勝ち目のないことは日本の上層部では常識であった。またそれを繰り返すつもりなのだろうか?
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事