映画的ネットワーク(映画評ブログ)

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岡田斗司夫の「アオイホノオ」第3話のツイッターがひどい

2014-08-09 06:19:44 | ドラマ

 

 

実は、もう「アオイホノオ」を見るのはやめようかな、と思った原因の1つに、

岡田斗司夫のツイッターがひどい(突っ込み所が多いが、そのつっこみを

理路整然と書こうとすると、すごく疲れる)、というのがあったのですが、

 

改めて、1回からツイッターを読み返してみると、1話、2話は特に問題なく、

どうも、福田アレンジのひどい「第3話」に、

問題発言が集中しているようで、

ということは、この時、岡田斗司夫は疲れていたんだな、

疲れて、思考力が落ちて、雑な書き込みをしていたんだな、という結論に達しました。

 

第4回分は、普通に戻ってますし。

 

第1話

 

第2話

 

第3話

 

ということで、第三話のツイッターにのみ、突っ込んでみようと思います。

 

ちなみにこの回のツイッターで最も有益だったのは、庵野監督の情報源の話。

これは、原作でも謎だったので、そういうことだったのか、と。

 

さて、とりあえずこの回は、岡田斗司夫は、バタバタしながら見ているようです

(だから、検証や発言が雑なのでしょう)。

 

>・寝転んで、机に向かって、また寝転ぶモユル
 妄想だけで仕事しないモユル。モユルは自分と庵野たちの差がよくわかっていない。才能ではなく作業時間の違いだ。パラパラマンガも、モユルの作品より庵野の作品が10倍以上も時間を要する。

>・モユルが落ち込むべきは、「自分が口と妄想のみ達者な怠け者だ」という事実なのである。

 

ここら辺の書き込みが、何を指しているものなのか分からなかったので、

作品全体への批判か?と思い、

ここ3日ほど、ホノオモユルは、ダメ人間だけど、それほど駄目ではない

という理屈を考えていたのですが、

 

何のことはない、改めてドラマを見返すと、これは福田オリジナルアレンジによる、

原作には存在しない場面でした(分かりにくいよ、岡田斗司夫)。

この場面は、ホノオがアニメ用の画材を買いそろえ、アニメは2日で描ける、と

豪語して、ベッドに寝っ転がっているシーンでした。

この場面のひどさについては、第3話の感想エントリーで書いています。

で、そもそも原作のホノオではない(キャラが違う)訳です。

驚いたことに、岡田斗司夫は、この文句を島本和彦のツイッターに直接言っています。

 

>モユルが悩むたびに「お前が悩んでる間にも、庵野は手を動かしてるぞ!わかってるのかよ!?」と叫びたくなります。

リンク

 

そんな、ドラマ版で、勝手に足された要素のことで、文句を言われても、

島本和彦も困るだろうに。

大体、モユルの作品より、庵野の作品の方が10倍、手がかかる、と書いているが、

モユルは作品なんか、作ってないのだ。

何と比較して10倍なのか、さっぱり分からない。

この、脳内補完が暴走している感じは、疲れている証拠ではないでしょうか?

(岡田斗司夫は、わりと、存在しない場面を語りがちな人なので)。

 

さらに続いて、福田アレンジ場面から

 

>・ライリー8ミリホームムービー
 当時、まだ生き残っていた8ミリ映画。「大阪万博」「鉄腕アトム」などのシリーズが有名。ビデオやDVDの手軽さは無いけど、部屋を真っ暗にして8ミリ映写機がカタカタと音をたてながら、白い壁面に「映画」を上映するのはイベント性抜群だった

これ、80年代オタク男子の「女子ナンパ術」の典型でもある。つまりこのシーン、モユルは完全に津田さんを墜とす気マンマンなのである。

 

原作では、2巻7章で、トンコさんと、宇宙戦艦ヤマトの8ミリを見る場面

(各巻12分)を、なぜかトンコさんから、津田ヒロミに置き換えた場面。

原作の意図は、トンコさんを口説きたくても口説けないホノオで、明白ですが

(「こんな・・・ 8ミリライブラリーをトンコさんと夜に一緒に観たって・・・

 別に村上先輩に勝ったわけでもなんでもないってのに・・・

 なんだかわからない大きなところで何かがズレている気がする・・・」)、

はっきり言って、ドラマ版では、福田アレンジのせいで、意図不明になっています。

ただ単に、演出の方向性がぶれているだけで、

落とす気マンマンとは、別に思いませんが(そんな心理描写は、一切無いし)。

ここも、そもそも、原作とドラマと変わっていることに気付いていない気がします。、

疲れていたのでしょう。

 

>・マジンガーZオープニング
 当時のアニメファンと、庵野や赤井達との差は「アニメを読み取る読解力」の差であった。モユルが「ど迫力」などという抽象表現で自分を納得させているのに対して、赤井や庵野は「なぜこのシーンはど迫力なのか?」という疑問を持って見ている。

 

劇中、「この迫力」と言っているのは、赤井です。

さらに、このシーンは原作とほぼ変わっていませんが、

要は、作中に出てくるアニメ分析というのは、すべて島本和彦の分析なので、

庵野のセリフとして語られている部分も、島本和彦の分析であって、

実際の庵野や赤井のそれではありません。

ということは、庵野とホノオの分析力の差など、描き分けられていないのですが、

岡田斗司夫は脳内補完で、分析できていないホノオと、

分析できている庵野、赤井(そんな場面はないのに)とに、分けているのです。

 

もちろん、この場面は、後にホノオが(「じょうぶなタイヤ」を見て)、ずっこける場面への、

伏線なのですが、

岡田斗司夫の言っていることは、ただホノオの悪口が言いたいだけの、

言いがかりレベルの発言です(劇中では、赤井だって、同心円に広がって、どうしたこうした、

という分析などしていません)

 

>たとえばマジンガーが光子力ビームを撃つシーン。本編では直線的な光線なのに、OPでは同心円状の効果で「光が集中してチカラになる」という光線兵器の本質を表現している。

 

原作では、「この光子力ビームのカット!」と赤井が言い、

ホノオ、庵野、赤井の3人が、じ~ん・・・としているだけです

(ドラマでは、リアクションはフォローされていない)。

そして、続く庵野の解説は、ホノオのそれと、まったく変わらない

(別に技術的な話はしておらず、演出上の話をしているだけです)。

 

>・グレートとゲッター
 庵野や赤井が「グレートもいい」「ゲッターもいい」と言っているのは、作画演出を含めて「アニメとしてのメカニック、SF表現の新しさ」を切り開いたから。

 

これも、やはり、劇中では(原作でもドラマでも)触れられていないことで、

脳内補完が過ぎるというか、

ホノオに、イチャモンがつけたいだけじゃねえの?という気がします。

まあ、疲れていたのでしょう。

 

>対してモユルがグレートやゲッター(ロボ)の評価が低いのは、マジンガーほどのオリジナル性がない、と感じているから。
 つまり、実はモユルの方がアニメファン的なのに対して、庵野・赤井はすでに「作り手の目」で作品を見ているのだ。

 

オリジナル性がない、と感じているからって断言されても、やはりそんなシーンはないのですが。

そしてまあ、途中の理屈はどうでも、最後はホノオへの悪口で落とす。

わたしはこの点の、ホノオに関しては弁護できます

(面倒くさいけど。面倒くさいので、もうこんなドラマ見なくてもいいか、と思うけど)。

 

>・「こいつらは俺より先を行ってるかもしれません。でも俺より上を行ってるわけじゃない」
 出た!これが島本マンガの魅力である「屁理屈と詭弁」!

>「先を行く」というのはあくまで抽象的な喩えなのに、そこに「上ではない」という別の抽象概念を持ってきて、その語感のみで優劣や勝った負けたをこじつけようとしている。

 

これはもう、本気で言っているのなら、岡田斗司夫は、この程度の読み取りが、

マジで出来ない人なのか?と呆れてしまうのですが、まあ、疲れていたのでしょう、多分。

 

>・「他人の能力が自分より上でも、けっして認めない」
 この矢野健太郎の言うことは徹底的に正しい。他者を認めるとか、客観的になる、というのはクリエイターにとって別に必要な才能ではないからだ。

 

なんか、この人、1話目での南雅彦も正しいと言っていますが、

ホノオ以外の人間が言ったことは、全部正しいと言っているだけではないでしょうか?

そもそも、このセリフ、本来はナレーションなので(ドラマでは、対立するセリフのように

描かれていますが)、

実際はホノオの心の声を代弁しているようなものなのだということは、

分かっているのでしょうか?

仮に、このセリフをホノオ自身が口にしていたら、

岡田斗司夫は批判しているんじゃないでしょうか?

ホノオが言えば←お前は間違っている

ホノオ以外の人間が、ホノオに説教すれば←徹底的に正しい

と、脊髄反射でしゃべっているだけではないだしょうか?

たとえば、ホノオが「認めん、俺は認めんぞ!」みたいなセリフで言っていたら、

岡田は、ホノオの言っていることは徹底的に正しい、と擁護するでしょうか?しないと思うのですが。

 

まあ、この、他人の能力に気付いても、気付かないふりをする、というのは、

後に島本和彦が、インタビューで反省している点でもあります

(庵野や赤井に聞く道もあった、プライドが邪魔をした、と)。

 

で、

>モユルが悩むたびに「お前が悩んでる間にも、庵野は手を動かしてるぞ!わかってるのかよ!?」と叫びたくなります。
今日、フラッシュさんが取材に来たので、見てる人へのメッセージとして
「焔モユルみたいには、絶対になるな!」
と断言してしまいました(笑)

 

という締めなのですが、

この第3話は、福田雄一が、大幅にアレンジした、

福田版のホノオモユルなのだが、分かってんのか、岡田?

原作とは、別物です。そんなことも分からないくらい、疲れていたのだろうか?

怒りは、ホノオにではなく、ちゃんと福田にぶつけてほしいものです。

もしも、原作のホノオに対しても文句を言っているのなら、

それは大きな読み間違いとしか言いようがないですが。

まあ、その弁護に関しては面倒くさいので、あまりしたくないのですが、

 

たとえば、ホノオモユルという人は(モデルが島本和彦なら)、

在学中に漫画家デビューして、中退してしまう人なのです。

つまり、全然、口だけではない、

ビッグマウスなだけだと思ったら、本当に天才だった、というパターンの人なのです

(「スラムダンク」の桜木花道とか、「バタアシ金魚」の花園薫のように)。

もうその時点で、大きく読み間違ってる気がします。

そして、「アオイホノオ」という作品全体の構成からいえば、

まずダメなところから始まり、駄目な人が立ち上がるからこそ、感動的なのです

(これ、「王立宇宙軍」も同じ構成です)。

そういう、作劇上の意図としての、ダメなのです。

とかまあ、色々あるけど、この辺で。

 

 

さて、最後に2点

 

>対してモユルがグレートやゲッター(ロボ)の評価が低いのは、マジンガーほどのオリジナル性がない、と感じているから。
 つまり、実はモユルの方がアニメファン的なのに対して、庵野・赤井はすでに「作り手の目」で作品を見ているのだ。

 

これはもう、ホント、ホノオの悪口を言いたいだけとしか思えないのですが、

要は、最高のものだけ見るホノオと、それ以外のものも見る庵野・赤井に分けることができます。

これに対し岡田は、庵野・赤井こそ、「作り手の目」と誉めているのですが、

果たしてそうか?

たしかにクリエイターは、幅広くものを見たほうがいい。何にだって学ぶ部分はある。

また、古今東西の名作と言われるものは、興味が無くても、古典で退屈でも、

触れたほうがいいし、学ぶこともある。これが理想的な理屈です。

しかし、この理屈には、大きな穴があります。実際にそれを実行した場合、

どうなるかというと、感性が腐るのです。

感性が腐るというのは、

「ふと気付くと、何が面白くて、何がつまらないのかすら、判断できなくっている」状態に

なることです。

これは、クリエイターにとっては、考え得る限り、最悪の状態の1つと言っていいです

(アイデアが出ないとかよりも、はるかにひどいです。この状態になると、

どこに進んでいいのかすら分からなくなる、もっとも危険な状態です)。

たとえば、先端の面白い漫画を読み続ければ、感性は磨かれていきます、

やや古いたとえですが、「ドラゴンヘッド」「カイジ」「ピンポン」「七夕の国」「イニシャルD」

(97年ごろの先端漫画の例)を楽しんで読んでいる分には、面白さなど、見失いようが無いです。

自分が最高に面白いと思うものだけを読んでいるからです。

つまらないものを見ても、こうすれば面白くなるのに、と自信を持って言えます。

面白さの軸がぶれていないのです。

しかし、もっと幅広く、とか、古典も、とか、自分があまり面白いと思っていないもの

手を広げて、我慢して、それらを読んだり観たりし続けると(シェイクスピアとか、タルコフスキーとか、

ギリシャ悲劇とか、太宰治とか、ドストエフスキーとか、黒澤とか、ゴダールとか、

あるいは様々な無名な漫画や、ヒットしているから、みたいな理由で漫画を読んだりすると)、

ふと気付くと「何が面白いのか分からない」「どの方向に向かえば分からない」という、

状態になります。これが感性が腐っている状態です。

面白くないものに触れ続けすぎると、自分を見失うのです。

だから、自分にとって最高だと思うものにだけ触れ続けるというのは、

別に間違った選択ではありません。

プロとしてのロスを考えた場合、自分を見失っている時間は、時間の無駄だからです。

幅広く、知識を吸収するというのは、理想的な話ですが、そういうことをしながら、

己の中の「面白さの軸」をキープし続けるのは、意外と難しいのです。

純粋な受け手なら、見失っても(仕事ではないので)特に問題はないですが、

プロなら困ります。

面白さの軸を見失うくらいなら、変なものには出来るだけ触れない、というのは、

立派な「作り手の目」の1つなのです(作り手としての防衛本能の1つです)。

 

たとえば、このドラマ「アオイホノオ」もそうで、こういうものを義務感だけで

我慢して見続けると、感性が腐る、と思い始めていたり・・・。そういう感じです。

これはもう本当に、普通に腐ります。

学ぼうと思えば学べるところはあっても、マイナス影響の方が大きいということはあるのです。

 

もう1点、

 

>・「こいつらは俺より先を行ってるかもしれません。でも俺より上を行ってるわけじゃない」
 出た!これが島本マンガの魅力である「屁理屈と詭弁」!

>「先を行く」というのはあくまで抽象的な喩えなのに、そこに「上ではない」という別の抽象概念を持ってきて、その語感のみで優劣や勝った負けたをこじつけようとしている。

 

なんか、抽象概念とか、そういう用語で、頭よさそうにまとめていますが、

外していますね。

 

まず、エントリーでも書きましたが、この場面は、原作では「先輩方の作ったライダー」です、

ドラマだと意味合いが変わっているのですが、

とりあえず、原作通り「先輩の作ったライダー」として説明します。

 

先には行っているけど、上には行っていない、というのはどういうことか?

ズバリ、このドラマのことです。

というのは、先走り過ぎているので、まずライダーの話。

ライダーのフィルムについて、ホノオは、完全にすべてが分かっているのです。

では、自分と先輩の作ったライダーとの間にあるものは何か?それは、

「金」と「環境」です。いうなれば、それだけです。

「金」と「環境」さえあれば、つまり、自分が監督になれば、自分にも同じものが作れる、なんなら、

もっと上手く作れる。これが、先には行っているけど、上には行っていない状態です。

 

では、たとえば、「ガンダム」と同じ予算をもらい、富野「ガンダム」に匹敵するものを

作れと言われた場合(つまり、富野監督と自分のポジションが入れ替わった場合)、

自分にそれは作れるか?大抵の人は作れないでしょう。これが先に行っているだけでなく、

上に行っている状態です。つまり富野監督は、先に行っているだけでなく、

(真似できない)上に行っているのです。

宮崎駿のアクションはできるか?今敏の絵コンテはかけるか?

押井守の語りは書けるか?実写であれば、

山田洋次の演出、原田眞人の演出、中島哲也や、石井克人の映像、

一流の人々は、ただ先に進んでも、たぶん、そこまで辿りつけそうにない、という

上にいる感があるのです。同じポジションになり、金と環境があった所で真似できません。

逆に、一昔前のディズニーアニメとか、金はすごいかかっている(先に行っている)けど、

上には行っていない(宮崎駿が同じ環境で監督をすれば、もっといいものを作れそう)、

とか、すごいCGで金はかかっているけど、頭の悪いハリウッド映画とかが、

べつに上に行っていない、という例でしょう。

 

さて、先輩ライダーは「金」と「環境」の力で作っていますが、

自分と同じ「金」と「環境」で作られたもので、しかも自分より先に行っていて、

そして、認めたくは無いけれど、はるかに上に行っている気がする作品が

上映されます。それが「じょうぶなタイヤ」なのです。

もう、何の言い訳もきかない上に、恐ろしいことに、自分がこの先、どれだけ前に進もうと、

その高さには到達できないんじゃないか?という残酷な現実を

目の前に突きつけられる、その衝撃。

それが、先と、上の話です。

 

ちなみに、このドラマ「アオイホノオ」も、全然、上には行ってません。

また、こんなドラマを繰り返し見ていたら、マジで感性が腐ります。

感性を腐らせないためには、脚色作品として、よりすばらしい作品、

バズ・ラーマンの「華麗なるギャッツビー」や、原田眞人の「突入せよ!あさま山荘事件」、

「ゴールデンスランバー」や、中島哲也の「告白」などの、

あの原作から、どうすればこんな映像化ができるのか、という作品を見たほうが、

参考になりますし、感性を磨いてくれます。

漫画からの脚色作品なら、「毎日が夏休み」「バタアシ金魚」「ファンシイダンス」あたりの

脚色が素晴らしい、お手本です。

近年なら、原作よりまとまっている「デスノート」や、原作に並ぶ面白さの

「ライアーゲーム ファイナル」などが最高です。

 

ということで、エントリーは終りです。

岡田斗司夫も、たまたま疲れていだけだ、と信じたいものです。

 

 

 

 

 

 


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