N響アーカイブス講究

N響の演奏を中心に資料を紹介します。

クシシュトフ・ペンデレツキ死去

2020-03-30 21:10:46 | 指揮者
ポーランドの作曲家、指揮者のクシシュトフ・ペンデレツキ氏が、2020年3月29日に死去しました。享年86。
N響には2003年5月の定期公演と2004年年末第九公演に客演しました。

ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125「合唱つき」
大倉由紀枝(sop.)
永井和子(alt.)
市原多朗(ten.)
福島明也(br.)
国立音楽大学(chor)
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:クシシュトフ・ペンデレツキ
2004年12月23日~NHKホール


私の記憶に残る名演奏 横川晴児

2020-03-28 00:00:00 | N響・ザ・レジェンド
私の記憶に残る名演奏 横川晴児(2020年3月28日放送)

シューマン作曲「交響曲第3番 変ホ長調 作品97「ライン」」
(指揮)ウォルフガング・サヴァリッシュ
(管弦楽)NHK交響楽団
(1986年9月24日 第999回定期公演 NHKホール)



















Vn.Ⅰ徳永二男 山口裕之
Vn.Ⅱ堀江悟 村上和邦
Vla.菅沼準二 川崎和憲
Vc.木越洋 小野崎純
Cb.小野崎充 西田直文
Fl.小出信也(大友太郎)
Ob.北島章 浜道晁
Cl.横川晴児 内山洋
Fg.霧生吉秀 近藤寿行
Hr.田中正大 大野良雄 一色隆雄 安原正幸 田村宏
Trp.津堅直弘 北村源三
Trb.神谷敏 伊藤清 秋山鴻市
Timp.?



ベートーヴェン作曲「交響曲第7番 イ長調 作品92」
(指揮)ホルスト・シュタイン
(管弦楽)NHK交響楽団
(1989年2月3日 第1073回定期公演 NHKホール)



































Vn.Ⅰ山口裕之 武藤伸二
Vn.Ⅱ村上和邦 堀伝
Vla.菅沼準二 大久保淑人
Vc.木越洋 小野崎純
Cb.小野崎充 志賀信雄
Fl.中野富雄 植村泰一
Ob.北島章 浜道晁
Cl.横川晴児 (?)
Fg.霧生吉秀 森田格
Hr.樋口哲生 渡辺克 山本真 (?)
Trp.(?)(?)北村源三
Timp.今村三明



「横川晴児さんにお会いしました」
(「フィルハーモニー」1988年2月号)







N響を育てた指揮者 クルト・ウェス(資料追加)

2020-03-25 20:40:42 | N響・ザ・レジェンド
N響を育てた指揮者 クルト・ウェス(2020年3月14日放送)


(N響LP輝ける60年の軌跡 付随冊子から)

「1951年より10年間のN響の思い出」より
1953年に特筆すべき事は、有名なワルター・ギーゼキングとの共演であった。これこそ本当の大家という感じで、すばらしい記憶に残る名演奏であった。ブラームスのコンツェルトに長いチェロのソロがあり、小生、その打合せに演奏前に楽屋に行った時、若い指揮者のウェスが、すっかり緊張してあがっているようで、盛んにギーゼキングから「落ちついて落ちついて」といわれているのが大変面白く印象に残っている。さすがあれほどの大家になると、ソリストの方が指揮者より格段上だなと感心した。今までのローゼンシュトックは絶対の権威を持って、 どんな独奏者にもいろいろ注文をつけ、意見が合わないとしばしば争いになり、独奏者をおろした経験を見てきた私には興味深かった。

(N響チェロ奏者 常松之俊著。N響LP輝ける60年の軌跡 付随冊子から)

怒鳴られたウェス
そのクルト・ウェスに、 1年目はみんなびっくりしたが、2年目になると、ウィーンの田舎指揮者の地がわかってきた。
52年8月、木管の強化のために、外国の演奏者をむかえることになった。ウェスのコネで、ウィーンからそろって23歳の若手であるクラリネットのロルフ・アイヒラー、オーボエのユルク・シェフトライン、ハープのヨゼフ・モルナールが客演奏者としてやってきた。おなじとき、コンサートマスターに、パウル・クリングも招かれた。
4人は、それぞれ、日本の学生や若手に近代的な奏法を教えた。いまの現役の演奏者で、かれらに師事した人は多い。そのなかでもモルナールは、契約が切れても帰国せず、日本に残った。いまは、日本ハープ協会の会長で、まだ、室内楽などで弾いている。
ウェス来日1周年の演奏会は、ストラビンスキーの「ペトルーシュカ」だった。冒頭の有名なメロデイは、基本的には2拍子だ。それを、ウェスは4つに振った。
オーケストラでは、木管のオーボエとクラリネットは、第ニバイオリンとヴィオラのうしろ、指揮者の正面にすわっている。ウェスの棒をみると、アイヒラーはクラリネットをたたきつけて怒鳴った。「それで指揮者か。ウイーンにかえれ」。日本人の全員がドイツ語を理解したわけではないが、ウェスの失敗はわかった。それまでの権威はすっかり失われた。

(「オーケストラの人々」原田三朗著 筑摩書房から)

「追悼 クルト・ウェスさん」
クルト・ウェス死去に因んで「フィルハーモニー」1988年2月号に掲載された追悼記事







戦後クラシック界を支えた日本人演奏家たち 山田一雄

2020-03-21 00:00:00 | N響・ザ・レジェンド
「戦後クラシック界を支えた日本人演奏家たち 山田一雄」(2020年3月21日放送)

ベートーヴェン作曲「交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱つき」から第2楽章」
(管弦楽)日本交響楽団
(指揮)山田和男
(1943年1月5日放送~1942年12月26/27日 日比谷公会堂)

1942年の日本交響楽団メンバー




マーラー/交響曲 第8番 変ホ長調 「一千人の交響曲」から
(1949年12月8日 第312回定期公演 日比谷公会堂)











当時の山田一雄のエピソード
「N響80年全記録」(佐野之彦著 文藝春秋刊より)

そして、その激しい指揮ぶりが珍事件を引き起こす。演奏中、なんとステージから転げ落ちてしまったのである。
西村初夫は、指揮者が消えた瞬間を目の当たりにした。そのときの驚きを話す。
「たしか昭和25(1950)年の名古屋公演。ベートーヴェンの交響曲でした。オケがよく鳴って、振っていて気分がよくなると、山田さんはだんだん後ろに下がる癖があるんです。その日も下がり始めたので、乗ってるなと思っていたら、あっという間に指揮台どころかステージからも転げ落ちていた。目の前から指揮者が突然いなくなったんだから、びっくりしましたね。それから急いで駆け上がってこられるのかと思ったら、袖の階段をゆっくりと棒を振りながら上がってきたんです。その姿を見て、もっと驚きました(笑)」
指揮に没頭する山田は、転落などお構いなしに振り続けた。その気迫に聴衆はもちろん、楽員たちもただ圧倒され、″山田和男の世界″に引きずり込まれるのだった。ちなみに本人は中学時代、陸上短距離選手だったこともあって運動神経に長けており、かすり傷ひとつ負わなかった、というのは山田自らが後々人に語った″自慢話″である。


1950年9月21日、22日、第219回定期で、「春の祭典」の日本初演を行なうことになった。拍子がめまぐるしく変わり周期性もないので、リズムを合わせにくく極めて難しい曲だ。
(中略)
翌月の大阪公演では、ファゴットが出どころを誤り、それがきっかけでオーケストラは迷路に入り込んだ。
西村初夫がその顛末を語る。
「ヤマカズ(山田和男)さんもまた曲の中で行方不明になっちゃいまして、明らかに慌てふためいている。しかし、指揮をしながら『いま、どこだ?』つて尋ねる声が聞こえたときにはさすがに青くなりました。聞きたいのはこっちなんですから。このままではいつまでたっても終わらない、と思っていたら、トランペットの中村鉱次郎がキッカケの音を出してくれたので助かった。それが道しるべになってようやく全員揃うことができたんです」
発展途上の青年期にあるオーケストラが、練習に長時間をさくことのできない状況でトライすること自体、無謀な話だったのだ。いずれにせよ、東京と大阪で日本人が初めて聴いた『春の祭典』が、現代のわれわれが知る曲とはかけ離れたものであったことは間違いない。
ちなみに、「僕があのとき吹かなかったら、日響は一晩中『ハルサイ(春の祭典)をやっていたよ」とは、中村の後日談である。




モーツァルト/交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
(1990年11月26日 山田一雄楽壇生活50周年記念 サントリーホール)














指揮:山田一雄

Vn.Ⅰ徳永二男 山口裕之
Vn.Ⅱ堀江悟 堀伝
Vla.菅沼準二 小野富士
Vc.徳永兼一郎 三谷広樹
Cb.小野崎充 今野京
Fl.小出信也
Ob.北島章 小島葉子
Fg.岡崎耕治 井上俊次
Hr.松崎裕 山本真
Trp.? 栃本浩規
Timp.?

N響を育てた指揮者 クルト・ウェス

2020-03-14 00:00:00 | N響・ザ・レジェンド
N響を育てた指揮者 クルト・ウェス(2020年3月14日放送)


(N響LP輝ける60年の軌跡 付随冊子から)

「1951年より10年間のN響の思い出」より
1953年に特筆すべき事は、有名なワルター・ギーゼキングとの共演であった。これこそ本当の大家という感じで、すばらしい記憶に残る名演奏であった。ブラームスのコンツェルトに長いチェロのソロがあり、小生、その打合せに演奏前に楽屋に行った時、若い指揮者のウェスが、すっかり緊張してあがっているようで、盛んにギーゼキングから「落ちついて落ちついて」といわれているのが大変面白く印象に残っている。さすがあれほどの大家になると、ソリストの方が指揮者より格段上だなと感心した。今までのローゼンシュトックは絶対の権威を持って、 どんな独奏者にもいろいろ注文をつけ、意見が合わないとしばしば争いになり、独奏者をおろした経験を見てきた私には興味深かった。

(N響チェロ奏者 常松之俊著。N響LP輝ける60年の軌跡 付随冊子から)

怒鳴られたウェス
そのクルト・ウェスに、 1年目はみんなびっくりしたが、2年目になると、ウィーンの田舎指揮者の地がわかってきた。
52年8月、木管の強化のために、外国の演奏者をむかえることになった。ウェスのコネで、ウィーンからそろって23歳の若手であるクラリネットのロルフ・アイヒラー、オーボエのユルク・シェフトライン、ハープのヨゼフ・モルナールが客演奏者としてやってきた。おなじとき、コンサートマスターに、パウル・クリングも招かれた。
4人は、それぞれ、日本の学生や若手に近代的な奏法を教えた。いまの現役の演奏者で、かれらに師事した人は多い。そのなかでもモルナールは、契約が切れても帰国せず、日本に残った。いまは、日本ハープ協会の会長で、まだ、室内楽などで弾いている。
ウェス来日1周年の演奏会は、ストラビンスキーの「ペトルーシュカ」だった。冒頭の有名なメロデイは、基本的には2拍子だ。それを、ウェスは4つに振った。
オーケストラでは、木管のオーボエとクラリネットは、第ニバイオリンとヴィオラのうしろ、指揮者の正面にすわっている。ウェスの棒をみると、アイヒラーはクラリネットをたたきつけて怒鳴った。「それで指揮者か。ウイーンにかえれ」。日本人の全員がドイツ語を理解したわけではないが、ウェスの失敗はわかった。それまでの権威はすっかり失われた。

(「オーケストラの人々」原田三朗著 筑摩書房から)