柳田 功ニュース

政治結社 皇嵐社の運営するブログです。
日本で今起きていることや歴史のことなどを独断と偏見で日々綴っています。

ばんえい競馬廃止決定。

2006年11月30日 | Weblog
北海道のばんえい競馬が廃止される事になったという。毎年必ずニュースにはそのユーモラスなレース光景が放送されていたが来年からはもうその姿を見ることもないだろう。ずいぶん前から赤字経営が続き地域ごとに撤退をしていたらしいが今回最後の砦ともいう帯広市が市民の願いとどかず廃止に踏み切ったとのことだ。ばんえい競馬とは北海道独特の輓馬(ばんば)というそりを引く馬で競争するものである。しかも重石を載せて段差を走るその姿は農耕馬の力強さを見せ、走るその姿を見ているとこっちまで力が入りそうな感じである。車社会が発達した現在では馬が働く姿などそれこそ競馬以外では見ることが出来ない。しかし日本ではある時期農耕はもとより輸送手段のほとんどをこの馬たちが働いていてくれた。私が物心付いた頃の横浜や東京でも荷馬車は普通に走っていたし、道路にはその馬たちが落としていった馬の糞があっちこっちに転がっていたものである。また時には馬に蹴られたなどというニュースが新聞に載ったとか載らないとかの話を大人たちから聞いた事もあった。郊外に行けば田んぼや畑にはそれを耕すのは馬か牛が常識であった。そんな時代を知っている私にはこの働く馬「輓馬」のレース姿はどこかしら懐かしいものさえ感じられた。時代が遡る事はない。だが古い伝統を残す事はできる。せめて形だけでも、開拓農民の伝統文化保存の為にも「ばんえい競馬」を残してくれという願いに、帯広市は馬文化の継承をする努力は惜しまないといっている。ひょっとすると観光的な形での存続は期待してもいいのかもしれない。働く「輓馬」を心から応援したい。さて、いよいよ明日からは師走だ。早いものだ。年々月日の経つのが早く感じられるようになった。こんなに早く時間が経ってしまうとちょっと怖いような気がする。年末になったら少しでも気を引き締めてかからねばなるまい。皆さんもどうか年の瀬を控えて事故などを起こさぬようにお気をつけてください。


   渋谷歌壇  弓月の 雲居に凍てし 光かな
           月光の 鮮やかなりし 雲居の間
           小春日に 背中温もる 散歩かな
           初冬に 月も私も ただ一人
           何事も 考えんとや 月明かり           
                           狂竜

遠のくまぐろ

2006年11月29日 | Weblog
我々日本人の大好きなマグロ。その最高級種クロマグロの漁獲枠が2割削減された。これで寿司の値段に大きな影響が出るだろうし、缶詰やキャットフードなども値上がりをするだろう。資源確保の為には仕方がないことであろう。日本人ほどマグロを食う人種はいないそうだ。斯く言う私もマグロの赤身が大好きで、すし屋に行けば必ず注文するものの3本指に入る。日本人がいつの頃からマグロを食い始めたのかは知らぬが、江戸の頃はかつおなどに比べてはるかに格の下にあったのは間違いのない事実だ。値段も今に比べれば信じられないほどの値段で、トロの部分などは下の下とされておりずいぶん安かったようだ。すしを書いた小説はたくさんあり私は池波正太郎氏と志賀直哉氏のものが印象に残っている。いずれにしても今では日本人の食卓に、またすし屋のネタにマグロは欠かさせないものとなった。そのマグロが更に高級になってしまっては我々庶民の口にはますます入りにくくなってしまう。それとは逆に鯨の量が増えているという。つい先般鯨漁を再開した国があったが、鯨の数が増えたなら獲って美味しくいただいてもいいのではないだろうか。私たちの子供の頃は食卓に鯨のベーコンなどは丼に入って出されたものだが今では松坂牛よりはるかに高い値段で売られている。資源の確保は大切だがかわいいから、愛すべく動物だからという理由で捕獲禁止などというのは、古くから鯨文化をもつ我々日本人にはとても理解できないし容認できない事だ。一日も早く鯨が安価で食べられる日が来るの事とマグロが減ることを心待ちする次第だ。
日本漁業鯨漁

   渋谷歌壇  荒くれの 勇魚に向かう 銛の先
           三の酉 背中まるめて 熊手背負い
           これでまた 来年会おう 酉の市
           歳時記の 残り少なく お酉様
           霜月の 布団抜けれぬ 寒さかな
                             狂竜

国粋青年隊八代和剣総裁を囲む会に出席。

2006年11月28日 | Weblog
私の民族運動の先輩でもあり、個人的にも親しくさせていただいている政治結社・国粋青年隊総裁の八代和剣氏の、戦線復帰を祝う宴席が設けられそれに出席をしてきた。矢代氏は古くから民族運動に身を挺されていたが、ちょっとした事件で囹圄にあり社会を留守にしていた。ちょうど私とその時期が同じで、東京拘置所の出廷のときにワッパにつながれたお互いを確認しあって以来である。そのときは私も先輩もまさかそのような場所で顔を合わせるとは夢思わず、お互いの顔を見合わせて驚いたものであった。その後1~2度手紙のやり取りをしたが1月に八代先輩の執行で長きの無沙汰になっていた。今日お会いして驚いたのは病魔との闘いの中でかなりお痩せになったことである。服役中に肝臓癌に侵されて八王子医療刑務所に移監されたとは聞いていたが奇跡的にも社会復帰をされた。何故奇跡的なのかというと懲役のあいだでは八王子に移監されたものは生きては帰れないというのが定説であるからだ。これは本人の生命力の強さの賜物であろう。私の知人友人も八王子で亡くなったものが多くいた。そんな中からの生還は奇跡といってもいい。奇跡の生還を果たした矢代氏が再び奇跡を起こし癌の克服をされん事を祈って終わりたい。


    渋谷歌壇  弓月の 凍てし光の 冴え渡る
            久々の 知友と交わす 祝い酒
            会席の 美味し肴に うまし友
            雨やみて 初冬の空に 弓の月
            凍てし雨 猫うずくまる 軒の下
                             狂竜

密告奨励?

2006年11月27日 | Weblog
政府の教育再生会議はいじめ問題で概略以下のような方針を打ち出した。

<教育再生会議>いじめた側の児童・生徒「出席停止」を提言
 出席停止は学校教育法の規定。他の子どもの学習権を保障するため、小中学校を運営する市町村教委が適用を判断する。02年1月の法改正で「他の児童の心身に苦痛を与える行為」など基準が明確になったが、02~05年度の適用は全国で25~42人。精神的ないじめはわずかにとどまっている。

 再生会議は「運用が遠慮がちで効果が上がっていない」と分析し、積極的な適用を提言する。

 地方公務員法などに基づく教員の懲戒処分は、これまで不法行為や体罰が中心だった。一部の市町村教委はいじめを助長したり加担することも処分対象にしており、再生会議はこうした措置を呼びかけ、学校現場でのいじめの早期発見を促す。

いじめた側の生徒を出席停止処分にする。これでいいのだろうか。学校や教育者達がこの問題に真剣に取り組んでこなかった事、また隠蔽の体質がここまでことを大きくしたわけである。それを今更出席停止などで改善できるのだろうか。いじめ問題で一番の問題はいじめられる子どもたちに強い精神力を持たせることではないだろうか。いじめに立ち向かう。いじめられても自殺などという逃げに走らせないような強い精神力を持った子供達を育てることが先決ではないのだろうか。いじめが起きたことを隠蔽しようとする学校側のその悪しき体質を改善する事が先ではないのか。さらにいじめに加担するような、生徒におもねる馬鹿教師の再教育をすることが真っ先の問題ではないのか。私はこの問題で一番に考えなくてはならないのはこの3点であると断言する。いじめを受ける子どもは弱い、こう決め付けてそれをなおそうとしないのはいかがなものだろうか。精神的強さというのは鍛えればある程度は作り上げる事ができる。知的障害者や身体に障害を持つ者へのいじめは論外である。こうしたいじめは即刑事問題にする事も視野に入れねばなるまい。何故ならばそれは犯罪だからだ。勿論厳密に言えば通常のいじめにしても刑事罰の対象ではあるが、これはある程度の猶予もあってしかるべきであろう。 後者はなおせばなおす事ができるからだ。さて今回教育再生会議の提言した事は危険を秘めている事をご承知だろうか。いじめた本人が学校や親に相談するのはいいだろう。それが問題の解決につながるわけだから。ところが関係のない第三者がこれを悪用する事も考えられる。またいじめを受けてもいないものが自分かわいさでいじめてもいないものを密告する、こういったことも考えられるだろう。密告社会の怖さは魔女狩りやスパイ狩りといった恐ろしい結果を生じているのは周知の事実である。我が国の学校教育の現場がそうした魔女狩りの場にならなければと危惧するものである。


   渋谷歌壇  古峰ヶ原 燃えし紅葉の 赤映えて
           古峰の 紅葉に鳥居 燃えし午後
           目を閉じて ぬる湯に浸る 冬の午後
           荒魂の 国を憂いて 野分かな
           国憂う 御霊もゆれし 野分かな
                              狂竜

三浦和義・ライブ・トークショー

2006年11月27日 | Weblog
2006年12月4日(月)本日

三浦和義・ライブ・トークショー
「痛快・現代人別帳」Vol.5
【出演】三浦和義 河村シゲル
【ゲスト】テレンス リー(元傭兵)

       ゲスト紹介  
         ▼
テレンス・リー【職業/エグゼクティブコーディネーター】
1960年代、横浜生まれ。幼少より、あらゆる武術を修練。中学生の頃から独学で古今東西の兵法・軍学を研究。大学は史学科に進学するも、日本の大学制度に疑問を感じ出奔。単身、渡欧して傭兵の世界に身を投ずる。中米・南米・アフリカ諸国で様々なオペレーションに参加。当時使用されていたコードネームこそが“テレンス・リー”であった。傭兵を引退した後、戦友の誘いでプロボディガードに転身。米国・アジアを中心に、俳優・スポーツ選手・資産家など、多数のV.I.P.を警護。2000年、Terence Lee Personal Protection Serviceを設立。実戦経験から導き出された、独自の理論に基づく危機管理マニュアルを確立した。クライアントには一流企業の役員など重要人物ばかりが揃う。また、ストーカー被害者の救済にも情熱を注ぐ。軍事格闘技・護身術・銃火器・爆薬の取り扱いに精通し、兵法や歴史学・国際政治に至るまで造詣が深く、話術にも長け、各方面から講演依頼が殺到している。傭兵時代に培われた人脈から得られる情報には定評があり、国際謀略の暗部を知る数少ない日本人の一人。また、女性の背中を被写体とするカメラマンでもあり、その腕前は賞を獲るほどという意外な一面も持ち合わせている。


数奇と云う言葉ではあまりにも簡単すぎる運命に翻弄された男が、この時代だからこそ時の流れに棹をさして突き進む。
事実は小説よりも完全に奇なるこの時代、どれほどITが科学が発達しようが、人の心はますます読めない。だれも本当の心を見せようとはしない。高度な情報化社会は地球の隅々の出来事は伝えても、自分の町の出来事は伝えない。隣人の名前さえわからない。マスコミやジャーナルの報道が
正しいとは限らない。けれどそれだけしか頼る判断材料がない。今、私たちが知りたいのは、出来事の本質である。人間らしい言葉である。

人間たちの裸の声である。

これは…
マスコミが伝えない…伝えられないもう一つの声…
三浦和義だから話せる、三浦和義だから聞ける…
今までなら世の中には流れ出てこない筈の声である。
その声を、密やかに、あるいは沈痛に聞くのではなく、
明るい東京・代官山のライブハウスで飲みながら、食べながら
みんなで楽しむトークショーです。
是非皆さん見に来てください。

【料金】 前売 ¥3000/当日¥3500(共に+1Drink¥500)
【開場】 19:00 
【開演】 19:30
【会場】 豆風ライブハウス
     daikanyama
     晴れたら空に豆まいて
     http://www.mameromantic.com/
     東横線代官山駅正面口出て、
     八幡通りにぶつかった右角の地下2階。
     駅から徒歩30秒。
     1階はDroga(家具&カフェ)
     地下1階はレストラン58
     〒150-0034 
     渋谷区代官山町20-20モンシェリー代官山B2
     TEL:03-5456-8880

                         転載責任 柳田功

三島・森田両烈士の命日

2006年11月25日 | Weblog
本日は三島由紀夫・森田必勝両烈士が昭和45年11月25日の今日、東京市谷の陸上自衛隊東部方面総監部において割腹自決を遂げた日である。
お二人の自決に関して、また盾の会のかかわりについては多くの学者や識者が数多くの文献を残しているところなので、小生のような無学の徒が語ることは何もない。
しかし一言述べるならば当時佐藤栄作をはじめ作家など、多くの無知なものは三島を気違い扱いにした。
しかし、小林秀雄など知識人は三島・森田の自決は歴史であると評価した。
いま彼等の死は当然の如く歴史として評価されている。
これ以上の多くを語る必要があるだろうか?
三島は
「君たちに命以上の価値を見せてあげよう」
という言葉を残した。
私はこの言葉を後年
野村秋介師の自決で師が立証したと思っている。


三島由紀夫の辞世の句
 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐へて今日の初霜
 散るをいとふ世にも人にもさきがける 散るこそ花と咲く小夜嵐

森田必勝の辞世の句
 今日にかけてかねて誓ひし我か胸の 思ひを知るは野分のみかは 

以下は盾の会義挙の激である。


              激


楯の会隊長 三島由紀夫


われわれ楯の会は自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。
その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。
かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。

われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。
教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。
しかもなほ敢えてこの挙に出たのは何故であるか。
たとえ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見ていなければならなかった。

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来ているのを見た。
もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。
自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。
自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。
憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。
楯の会の根本理念はひとへに自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために命を捨てようといふ決心にあった。

憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。
国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来てはじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。
日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。
国のねじ曲がった大本を正すといふ使命のためわれわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こったか。
総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わった。
その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。
その日に何が起こったか、政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になった。

政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。

これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。
名を捨てて実をとる!
政治家にとってはそれでよからう。
しかし自衛隊にとっては致命傷であることに政治家は気づかない筈はない。
そこで、ふたたび前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

銘記せよ!
実はこの昭和四十五年(注、四十四年の誤りか)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。
創立以来二十年に亘って憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。
論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。
これ以上のパラドックスがあらうか。

われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。
われわれが夢みていたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。
自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。
我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば決然起ち上がるのが男であり武士である。
われわれはひたすら耳をすました。
しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえてはこなかった。

かくなる上は自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤやうに黙ったままだった。

われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。
諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。
しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。
しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。
日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐ったのか。
武士の魂はどこへ行ったのだ。
魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たっては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。
沖縄返還とは何か?
本土の防衛責任とは何か?
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。
あと二年の内に自主権を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。

われわれは四年待った。
最後の一年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。
共に起って義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ、生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

それは自由でも民主主義でもない。
日本だ。
われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
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二烈士のご冥福を祈りたい。


今日の俳句・川柳

2006年11月24日 | Weblog
渋谷歌壇
      意を決し 厠に走る 野分かな
      窓を打ち 起こすをやめよ 小夜嵐
      破れ傘 時雨に濡れし 肩の浸み
      暦には 小雪とある 温き昼
      小雪の 文字が寒への 一里塚
      新嘗の 祭りの宵の 飯一膳
      
 以下獄中句
      破れ壁に 遅き蚊這いし 獄舎かな(ひとやかな)
      夕映えに 照る山紅葉 鄙の獄
      野分刺す 薄縁床の 獄(ひとや)かな
      早みたび 巡りし冬の 夜長かな
      夢ならば せめて獄舎の 外の事
      目覚めれば 宵の時雨に 身を縮め
      辛抱の 文字と同居の 獄暮らし
      侘び助と 我に名付けし 獄暮らし     

今日は何の日?

2006年11月23日 | Weblog
いわずと知れた「勤労感謝の日」ですね。その昔は新嘗祭といって宮中儀式の一つでした。天皇様が新穀を神々に供え、ご自身も食されます。
因みに天皇即位後初めてされるものは大嘗祭といいます。
今日も皇居では天皇様がこの儀式を厳かに執り行われているはずです。こうした祈りのもと私達国民の安寧を願ってくださっているのです。ありがたくも勿体ないことです。このことを素直に感謝のできる国民でなければなりません。
皇居と同時に心ある各地の神社や個人、また団体などでも今日を祝う儀式を何らかの形で執り行っているようです。政治結社大行社でも護皇連合などが古くからこのお祝いをやっているようです。私も家庭で一人祝いたいと思います。
さて、勤労感謝の今日は他に手袋の日・外食の日・ゲームの日・いい兄さんの日・いい夫妻の日・いい家族の日でもあります。
何で今日が手袋の日なのか、外食の日なのかよく判りませんがいろいろな記念日を作るものです。
これほどいろいろな記念日を作ってもこれが何かに活用されているのかどうかはわかりません。
果たして意味のない記念日って必要なんでしょうかね?
昨日は「いい夫婦の日」で今日が「いい夫妻の日」ってどう違うんだろう?
本来祝うべき記念日がある日に余計な記念日を作らないでほしい。
これは明らかにこの本来の記念すべき日をぼやけさせようと言う意図が見え見栄でしょ?
国家の記念すべき日を愚弄するものとしか思えません。
私は今日のこの日をただただ天皇様に感謝を捧げる日としておきたいのです。


    渋谷歌壇   新嘗の 祈りに感謝 たてまつらむ
             初霜の ニュースに吾も 膝抱え
             窓のそと 街を縁取る 丹沢山
             遅々として 明けぬ霜月 今朝の闇
             新嘗の 祭り独りで 祝う夜
                                狂竜

動物の命の重さ

2006年11月22日 | Weblog
■ネコ殺害映像をネット公開した20歳男を書類送検(読売新聞 - 11月20日 20:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=119731&media_id=20
自宅の浴室でネコを殺したとして、埼玉県警生活環境2課と新座署は20日、水戸市の無職男(20)を、動物愛護法違反の疑いで、さいたま地検に書類送検した。

 男はネコを殺害後、インターネットの掲示板に、ネコの死がいの写真を公開。全国やカナダ、ドイツなどから、捜査を求める電子メールや手紙計243通が県警に届いていた。

 調べによると、男は4月15日午後3時半ごろ、当時住んでいた東京都江戸川区の自宅アパートの浴室で、公園で拾ったネコの頭部を踏みつけるなどして殺害した疑い。男は「猫は小動物に危害を与える。正義感から殺害した」と話しているという。
一部転載 転載責任 柳田功
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この男のニュースはネット社会でも大きく取り上げられ問題になった。
この事件は書類送検だけで結果は罰金となるだろう。
動物を虐殺して逮捕されないなんて先進国では我が国だけではなかろうか。
殺したシーンをネットで流す事自体健常な精神の人間のすることではないし、この男エスカレートして人間の子どもにだってこのようなことをしかねない。
猫や犬の命を大切にする。こうした大事なことを教えるには犯した罪と同じだけの重さで罰せねばならない。
たかが犬猫とその命を侮ってはいけない。過去どれだけ人間が犬や猫に心癒されてきたのか。動物嫌いの人もいるだろう。だからといって動物を殺していいとは言えないことは誰だって知っている事だ。これが通れば人間嫌いの人が殺人を犯すことを認めなくてはならなくなるだろう。
厳罰に処すべき!
一方今日のニュースで急峻な崖の防護壁に犬が取り残され、それを必死になって救助しようとする人間達がいた。
みずからの危険を顧みず救助するその姿の美しさは誰もが賞賛するだろう。
このニュースを見ていて「そんなもの放っておけ」という人がいるだろうか?
もしいたとしたらその人の心は曲がっている。
その犬を自分の子どもに置き換えて見るがいい。
命の尊厳は犬猫も人間もない。
命を大切に。
自殺なんてとんでもない。
子ども達よ
もう死なないで。
もう誰も自らの手で死を選択しないで!
命を大切に!


   渋谷歌壇  ちょこまかと 小春日和の 雀かな
           小紅葉を 一葉浮かせ 手酌酒
           大都会 枝切り落とし 冬支度
           澄み渡る 空に一本 飛行雲
           ひとはけの 千切れ雲行く 小春月
                               狂竜

極刑判決にブログで支援

2006年11月21日 | Weblog
今日のネット配信のニュースに広島女児殺害事件の犯人ホセ・マヌエル・トレス・ヤギに対する極刑を求める支援の動きがブログで始まったと出ていた。
以下がその概要である。

◎父親、「支援励みに」=全国でブログ、署名-広島女児殺害からあすで1年
(時事通信社 - 11月21日 07:10)
 広島市安芸区で昨年11月、小学1年木下あいりちゃん=当時(7つ)=が殺害された事件から22日で丸1年となるのを前に、父親の建一さん(39)が取材に応じた。全国で極刑を求める遺族を支援する動きが出ていることを挙げ、「励みになっている」と心境を語った。
 公判で「極刑を望みます」と述べた建一さん。今年7月、求刑死刑のホセ・マヌエル・トレス・ヤギ被告(34)に対する広島地裁判決に唇をかんだ。その後、「無期懲役に納得がいかない」とする人々の支援の輪が自然と広がった。
 在米の女性は「小さな風」というブログを立ち上げ、「検察の求刑内容を支持します」とはがきに書いて、広島高検に送るよう呼び掛ける。また、京都府内に住む女性は電子署名を集める運動を始めた。
 「果たして自分は何かをやってきたのだろうか…」。建一さんは、顔も知らない人に背中を押され、「これが運命だと思って、遺族にしかできない弱者を守る活動をしなければ」との思いに駆られたという。 
                            [時事通信社]
転載責任 柳田功 
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このブログを立ち上げたのは在米の女性とか。この方が日本人かアメリカ人かは報じていないがいずれにしてもブログでこうした問題を呼びかける事に私は異質なものを感じた。
たしかにあの事件の判決でホセ被告に無期懲役の判決が出されたとき、私は軽すぎると感じこのブログでもそういう趣旨の記事を書いた。しかしながら私はこのネットで今後の問題提起はしたものの、判決を覆せとは言ってもいないしそんな大それたことを思いもしなかった。
裁判とは神聖なものであり、その判決が社会の動きで変わることなどあってはならないとも思っている。
私はネット社会はある意味社会のオピニオンリーダーになりつつある。こうも以前書いているが今回のような、こと裁判に関する問題、特に判決を覆そうなどという事には口を挟むべきではないと感じている。
ネット社会の怖さはその広がりが無限であり、また無責任に進む可能性が高い。その無責任・無限の連鎖で裁判の判決が覆されるようであれば一種危険な存在になりうるといえるだろう。
ネットの社会は井戸端会議的な部分があって、その会話には責任が生じない。とくに2ちゃんねるなどはその典型であろうと考えている。
ネットでその輪を広げて裁判の判決を覆そうなどというのは思い上がりも甚だしいのではないだろうか。
今後裁判員制度の導入を3年後に控えた我が国の裁判において、もっとも危惧すべきはこのネット社会の風説であると感じている。
こんな危険な存在のネットには警告を発するべきと痛切に感じたし、裁判員制度化では裁判開始まではネットでその求刑や判決が出るまではそれを取り上げるべきではないとも感じた。
そんな今日のこのニュースであった。




    渋谷歌壇   縁側の 猫丸まって 小春月
             小春日が 青に染たる 空ありて
             小春日も 一瞬にして 夕とばり 
             大空の 藍深くする 夕間暮れ
             焼き鳥の 煙り吸い込み のれん押し
             焼き鳥の 匂い誘いし 浜の夜
                               狂竜                           

メールで原稿!

2006年11月20日 | Weblog
先日「右翼民族派鼎談」と題して横浜の二十一世紀書院で行われた対談のテープ起こしの原稿が届いた。とどいたといっても宅急便や郵便ではなく電子メールだ。私のパソコンに届いたのだがまったく驚いたシステムである。毎日パソコンをいじっている私だが、今更ながらにこの電脳箱の優秀さに呆れている。私がパソコンをここまで操作できるようになってまだ半年経っていないのである。ブログの開局がこの7月の後半だから正味4~5ヶ月である。それまでは原稿を書くのにワードが多少困らない程度に出来ていた。しかし、インターネットに関してはまったくの素人といっても過言ではないほどであった。それが今では自分のHPやブログをもつまでになり、ネットを活用してちょっとした遊びまで出来るようになった。またメールのやり取りも国内にとどまらず遠くイギリスやオーストラリアにまでそのネットワークを広げている。こんな自分が信じられないほど私はアナログ人間であったのだ。でもこの電脳箱時々面白いことをやってくれる。仮にこのブログの編集画面を開いたりすると、ところどころばってんのマークがつくことがある。そこにはいつもなら入っている絵柄や文字が消えているのだ。恐らくどこかに忘れてきているのだろうが、これって一体どこに忘れてくるんだろうか?などと考え一人悦に入っているときもある。その面白い電脳箱にメールで原稿が届いたのだ。早速プリントアウトして読んで見たが、一昔前には自分で印刷する事さへ想像も出来なかった事だ。便利な時代だ。その分不便になったことはこの電脳箱がへそを曲げたときや、自分でその操作を誤ったときである。このシステムを熟知している人には何でもないことが私たち素人にはとんでもなく難しいのである。これを一人前に操作できるまでにどのくらいの時間がかかるのかは判らないが、恐らくその頃にはまた別の機能やらソフト  が出来ていて私たちおじさんには益々遠い存在となてしまうのであろう。さて今日は私がつい先日覚えてはまっている遊びを最後に披露してみたい。
http://2next.net/swf/R3_temp.swf?inputStr=%8E%84%82%BD%82%BF%83I%83%84%83W%82%C9%82%CD%83p%83%5C%83R%83%93%82%E2%0D%0A%83C%83%93%83%5E%81%5B%83l%83b%83g%82%CD%93%EF%82%B5%82%A2%82%C5%82%B7%81I%81I%81I%0D%0A%82%C5%82%E0%8A%E6%92%A3%82%E8%82%DC%82%B7%81I%0D%0A
どうぞクリックしてみてください。


    渋谷歌壇  鶴来る ニュースに知るや 風物詩
            時雨やみ 行きつ戻りつ 鴉かな
            空染し グラデーションの 絵の具かな
            何となく 日の暮れてゆく 昨日今日
            紺碧が 目に入りきれぬ 秋の空
                                 狂竜

健全な肉体には!

2006年11月19日 | Weblog
私は今日横浜文化体育館で行われた「国際大山空手道選手権大会」に応援の為行ってきた。私の友人である野村秋介思想研究会会長藤巻強氏の子息龍馬君が中学一年の部に出場したからである。彼は前年アメリカで行われた試合でクラス優勝をしており、今回もかなり両親の期待を背にしょっての出場であった。私も何とか上位に入ってほしいの願いで応援にいったのだが、私の応援で本人張り切りすぎたのかいつもにない試合振りで残念ながら3位止まりであった。両親も悔しがっていたが当の本人はもっと悔しく納得がいかないようで、試合終了後も両親の座る席に戻らず悔し涙をどこかで流していたようである。いま世間ではいじめに泣く子供たちが大勢いる。そして文部科学省にその実態?を知らせる手紙などを書いて送っている。この試合会場にいる子供たちにはまったく関係のない世界である。私は今日この会場で感じたことはいじめを受けているという子供たちに、空手なり柔道なりの武道を習わせたらどうかということである。今日の会場には幼児から壮年まで幅広い年齢層の人たちが汗を流していた。中には本当に気の弱そうな子もいた。私は職業的に、本能的にそんな子どもを見分ける術が身に着いている。その気の弱そうな子どもも試合となると泣きそうな顔をして相手にかかっていく。いや、実際に泣きながら必死になって戦っている子どももいた。突きやけりが当たったといって泣き崩れる子供もいた。恐らくこの子達は空手というスポーツに出会っていなければいじめられっこだったかもしれない。それが空手をやることによって強靭な精神とまではいかなくても、弱くとも立ち向かっていく精神、逃げない精神は培われているはずであろう。いじめられて自殺をする子ども達は気が極端に弱いのだろう。文部科学省に救いを求める手紙を出す子ども達はもっと弱いのだろう。自殺は一種の逃げである。更に手紙で救いを求める事は誤解を恐れずに言うならば、逃げというよりもずるさであると私は思う。この子達の精神が健全であるかどうか?私はどう見ても健全であるとは言いがたい。健全な精神は健全な身体にしか宿らない。不健全な精神の子ども達の身体を健全なものにするためにも肉体は鍛えなくてはいけない。いじめを受けていると思しき子どもの親御さんにお願いする、子ども達の肉体を鍛えてやってほしい。そして精神をも鍛えてやってほしい。もう誰も死んでほしくないから・・・そして龍馬君来年こそ叔父さんにも、ご両親とお爺にも、君の優勝する姿を見せてほしい。それには練習だ!鍛錬だ!頑張れ龍馬君!


    渋谷歌壇  病葉は 枝を離れて 世を散りぬ
            初冬の 饂飩の湯気に ぬくもりぬ
            小夜時雨 軒打つ音に 寒予感
            暮れなずむ 浜の時雨に 網濡れて
            エイッヤーと 子等激突す 健やかく
                               狂竜

もう死なないで!

2006年11月18日 | Weblog
昨日また福岡と横浜で男子中学生と女子高校生の二人が自殺をした。
原因はまだ解明されていないが何故こうも簡単に自らの命を絶ってしまうのであろう。まだまだこれから先に希望が持てるこの年齢で・・・
伊吹文明文部科学大臣は子供達と教師や親地域社会に対して「文部科学大臣からのお願い」と題して、異例の呼びかけをした。
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未来のある君たちへ
弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたんだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。
。          。         。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぽっちじゃないんだよ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友だち、誰にでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。
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お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域の皆さんへ
このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないともいわれています。
一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子供たちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をしてください。
子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。
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上記の二文は昨日伊吹文明文部科学大臣が出した、いじめを受けている子ども、いじめをしている子ども、さらには親や家族・先生・地域社会にたいしてのお願いである。
人間というのは同じニュースが続くと「またか!」という意識の中でそれが慣れてきてしまうものだが、ことこのいじめ問題に関しては決して慣れてはいけない問題であろう。
私が自分の実体験の中で感じたいじめに対する考え方は、いじめる側が人の痛みを知らなすぎることがその多くの原因である。
今は学校でも家庭でも人の痛みというものについてあまりにも無責任な子どもを育てているように思う。
人を殴ることはいけない。これは誰でもが知っている事である。しかし何故殴ってはいけないのか?これを教えずして子ども達がそれを理解し得るであろうか。
戦後教育の弊害の最たるものがこの昨今のいじめ問題ではなかろうか。
教育基本法改正が叫ばれている現在、私はそんな事よりも先にやらねばならない問題が山ほどあるように思う。
それは社会的風潮の悪しき体質の是正。
教師・教員の再教育。
家庭教育の充実。
日本的精神の復興。
単なる逃避的自殺は罪悪である事の教育。
教育者の自殺はもっと罪悪である事の教育。
私は今後社会に

「もう死なないで!」

の運動を広げていきたい。

子ども達よ!そして教育者よ決してもう死なないでほしい。
逃げてはいけない!
現実に立ち向かってほしい。
こう切なる祈りを捧げたい。



   渋谷歌壇  はらはらと 吾子の手のよな 紅葉舞い
           子ども等の 純な心に 晴れし秋
           湯豆腐に 箸つきたてて 吾子笑ふ
           鍋囲む 団欒の子の 心読み
           身罷りし 子の心など 思う秋
                            狂竜

お詫び!

2006年11月17日 | Weblog
昨日は大変個人的な記事の更新で皆様にはお見苦しい点を見せてしまったこと、大変申し訳なく思っている。昨日は前半の部分を更新した直後あたりからその本人と思しきものからの嫌がらせメールが入った。送った本人は一生懸命書き込んだのであろうが、私自身痛くもかゆくもないのにアホな男で連続して入れてくる。文法も何も知らない、それこそ文章にもなっていない幼稚な脅迫文で逆に笑ってしまった。次に私の大事な人の携帯に私の誹謗中傷をメールで入れて、最後には脅迫文どころかコミックを読んでいるようで可笑しくって仕方がなかった。まったく卑劣な奴である。自分がやっていることがどれだけ馬鹿なことか、不毛の挑戦であるかわかっていないのだ。目に見えないところで、それも非通知でショートメールだ。某組織の名前を出して私に揺さぶりをかけたつもりだろうが、こんな乞食同様の馬鹿野郎を相手にするほどわたしも暇ではない。早々に携帯の電源を切ってしまった。ショートメールの場合は電源さへ切ってしまっていればメールは届かない。こんな馬鹿はいずれどこかでつかまえる事もできるが、こんなものを相手にするほど間抜けではない。何の意味があって私を脅迫?いや驚いていないのだから脅迫にはならないのかもしれないが、いずれにしても疲れる一日だった。明日からはまたきちんとした柳田功ニュースをお送りしする。謹んでお詫びを申し上げたい。


   渋谷歌壇   ジグソーの ように彩る 箱根山
            紅黄の べべに着換える 山の木々
            晩輝落つ 世の朱をみな 吸い込みて
            今朝も尚 一度を盗む 時雨かな
            散歩道 終日弱火 背にもらい
                            狂竜  

緊急報告!

2006年11月16日 | Weblog
極めて個人的なご報告ですが謹んで皆さんにお知らせいたします。
最近、皇嵐社・柳田功事務所・柳田組関係者と名乗り
八神烈こと宮崎忠人なるものが関係各位ならびに業界の方々にご迷惑をおかけしているとのことです。
八神烈こと宮崎忠人は私共皇嵐社・柳田功事務所ならびに柳田組とはまったく関係がありませんのでここに改めて皆様方にご報告をいたします。
尚、交流などにつきましてはくれぐれもご注意のほどお願いいたします。
先日も私のこのブログに書き込みをしてきましたがすぐに消去いたしました。
恐らくこれも私との関係を強調するためのものと思います。
本人には私に係るなときつく申し伝えているのに勝手に書き込んだものです。
本人にも再度この場を借りて申し伝える
「二度と私に係るな!」
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上記の更新をしたら本人と思しきものから嫌がらせのメールが入った。
まったく馬鹿な男である。
しかも非通知のショートメールで私ばかりではなく私の関係する女性にまで。
その内容たるや笑止千万な事実であった。
言いたい事があれば卑劣千万、幼稚な手を使うな!
いつでも私は逃げ隠れはしない。
話があれば堂々と自分から来て話をしろ!