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解説―2.「紫式部日記」貴族社会の情報

解説―2.「紫式部日記」貴族社会の情報

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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貴族社会の情報

  もう一つ、この日記を読むために欠かせないのは、紫式部を含めた登場人物たちの、日記記事時点に至るまでの家の歴史、個々の経歴、現時点での地位・階級・人間関係といった情報である。

  「紫式部日記」には、紫式部以外に、呼び名が明記されるだけでも総勢百四十人余りの人物が登場する。「詳しく見知らぬ人々なれば、ひがごと(僻事(ひがごと):道理や事実に合わないこと)も侍らむかし」と記される箇所もあるので、彼らのすべてについて紫式部が熟知していたわけではない。だが大方の人々については、筆者は詳細な情報を背景にしてその人を記しているのである。

  例えば寛弘五(1008)年大晦日の記事、内裏に盗賊が入り、紫式部は自らの弟である兵部の丞藤原惟規を呼ぶ。だが惟規は帰宅していて既に殿上の間にはおらず、一人駆け付けたのは式部の丞、藤原資業(すけなり)であった。読者はこう記されただけで、紫式部および惟規の父親である藤原為時と、資業の父親である有国との関係に思い至らなくてはならない。
  二人は、時期は少しずれるが、同じくかつて菅原文時を師とし、文章道に学んだ友人だった。しかし二人の官人としての歩みは対照的だった。為時は、祖父は中納言ながら父の代から受領に没落した家柄、本人の気性は偏屈に近く、官人としては低迷したとしか言えない。

  いっぽう有国は、下級貴族の家から、文人として培った能力と優れた処世術によって参議にまで達した。そうした父たちの遺伝子をそのまま受け継いだような息子たちの有りようを、為時の娘であり惟規の姉である紫式部の身になって見つめて初めて、彼女の「つらきこと限りなし」と歯噛みする思いが理解されるのだ。

  敦平親王(あつひらしんのう:三条天皇の第三皇子)の誕生当日に、御乳付け(ちつけ:生児に初めて乳をつけること)を橘の三位、御乳母を大左衛門(おおさえもん)のおもとが務め、御湯殿の儀で漢籍を読む役人を蔵人の弁広業(ひろなり)が務めたとの記事も同様だ。
  橘の三位は一条天皇の乳母を務め、その功績によって女性ながら従三位の位を得て、隠然とした力を持つ典侍(ないしのすけ)。加えて有国の現在の妻、先出の資業の実母なのである。大左衛門のおもとは彼女と同じ橘氏出身で、広業の妻である。そして広業は、有国の前妻の息子である。(図の系図参照)。

  平安官人社会は、家族を含めても狭い。こうした情報は、おそらく詳細に至るまで、同時代人ならば多くが共有したものであったろう。
  本書は現代の読者に少しでもこれらの情報を提供するために、巻末に主要登場人物紹介を設けたが、同時代読者が普通にもつ情報にさえ、とても及ばないはずだ。紫式部は、そうした情報を前提として、人々の名前と一々の行動を記しているのである。

つづく
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