1.米英は1853年のペリー来航以前に、日本と日本人を恐るべき精度で把握。今回三浦按針の情報1回目
1852年7月、ペリー出港の4カ月前にニューヨークで出版された本書は、アメリカの日本開国計画の成否を固唾をのんで見つめていた米英知識人のニーズに応え、大英帝国の一流の歴史・地誌学者が書いた「日本の履歴書」だ。著者に鎖国日本への訪日経験はない。スペイン、ポルトガル、オランダ人の記録をはじめとする玉石とりまぜた文献・情報をもとに日本の歴史、地理から日本人のルーツや民族性まで網羅し解説しているのだが、天皇と将軍の権威の並立をはっきりと認識するなど、その分析力は驚くほど適確だ。死を覚悟して戦い、勤勉で社交的な日本人の資質も高く評価。米英はすでに1853年のペリー来航以前に、日本および日本人について恐るべき精度で把握していたのだとわかる。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 1回目
イギリスは布教については全く関与していないのだが、オランダ人が初めてこの国にやって来ることができたのは、イギリス人航海士アダムス(三浦按針)の技能と科学知識のおかげであった。エリザベス朝期の半ばに生まれたこの男の興味深い逸話は数多く残されている。残された手紙を引用する。
「私はケント地方の町、ジリンガムに生まれた。ここはエリザベス一世の時代に造船所が設立された。十二歳の頃には、船長の資格を持つ人の見習いとして十二年間を過ごした。オランダの船がインドに向けて頻繁にむかうようになると、自分の技量を試したくなった」
「1598年、五隻のオランダの船団が東インドに向かうことになり一隻のチーフパイロットとして雇われた」
船団がオランダを出帆したのは1598年6月24日。エリザベス一世治世の晩年のころである。
当時は何事もなくうまくいく航海などはほとんどなかった。航海中に壊血病が蔓延し、アフリカのギニア沿岸に錨を下した。指揮官は既に死亡し、ここでも相当数が死んだ。1599年4月初め、ようやくマゼラン海峡(南米南端)まで達した。
「南米のこの地は、既に冬となっていて雪も激しく、寒さと飢えで仲間の多くが衰弱していった」
当時、この海峡を抜けるヨーロッパの船はほとんどなく、海図もなく、アダムスはたとえ倍の時間がかかろうともケープ岬(アフリカ南端)沖をぬけたかったようだ。
「南から吹きこむ風や冷たい雨と雪で越冬せざるを得なかった。4月6日から9月24日までの長期間この地に釘付けになり、食料も尽きて、多くの仲間が飢えで死んでいった」
やっとのことで海峡を抜けたものの、船団は離れ離れとなり、アダムスの乗る船はチリの沿岸で僚船を9日間待ち続けたが、仲間たちは現れない。そこでモカ島(チリ南部太平洋岸の島)に向かった。
「沿岸には気性の穏やかな原住民が住んでいて、羊やジャガイモを小さな鐘やナイフと交換してくれた。ところが、この地域はスペインの支配下にあり、彼らは接触をやめてしまった」
南アメリカの沿岸はどこにいっても、スペイン人かポルトガル人が支配していて、彼らの激しい敵愾心と警戒心に悩まされた。
「11月1日、南緯38度に位置するモカ島に近づいた。しかし風が強すぎて錨が下せない。しかたなくサンタマリア島(サンチャゴ南方二百キロ、コロネル川河口沖の島)を目指した。この島についての情報は全くなかった。少人数の先発隊を上陸させたら、島民との小競り合いで八、九人が負傷した。しかし島民は親切にもてなしてくれた。翌日、船長は二、三十人の部下を連れ、食料を求めて島に向かった。数人の島民が親しげにボートに近づいてくると、酒と芋のようなものを見せながら上陸を促した。羊も牛もいるようだった。船長はこの誘いに乗って部下と共に上陸した。ところがこれは彼らの策略だった。どこかに隠れていた、千人を超す原住民が一斉に船長たちに襲いかかったのだ。虐殺された仲間の中に私の弟トーマス・アダムスもいた。あまりに多くの同僚を失い、錨を上げるのも難しくなるほどだった」
この惨劇から二、三日して見失った僚船の一隻と再会できたのだが、彼らも同様の手口で、モカ島で船長と二十七人の仲間を殺されていた。
参考
本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳書名「日本 1852」