白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

月夜のピアノ・マン (その5)

2020年04月01日 00時18分45秒 | 星の杜観察日記

 土蔵の地下のスタンウェイを見た日から、急にやたら忙しくなった。

 光(みつる)さんはライブのことが私にバレてずいぶん残念がっていたそうだ。
「驚かそうと思ってたのに」
「どっちにしろ秘密にしとくの無理だろ。これから人が出入りするのに」
「うーん。そうだよね。でもびっくりして喜ぶ顔がちょっと見たかったなあ」
 子供みたいにすねてきーちゃんにたしなめられている。可愛いとちょっと思ってしまった。


「人が出入りするって?」
「リハーサル始めるからね」
 床や壁の改装、配線工事、照明器具の設置なんかで、これまでは神社の外にスタジオを借りて練習していたそうだ。
「そこ、手狭でさ。ちょっと遠いからサクヤもあまり来れなくて」
 ピアノを見せてもらった日から、きーちゃんがよく話しかけてくるようになった。慣れてみると、それまでいつも無口で仏頂面で取っ付き難い、と思ってたのが意外と話しやすいヤツだとわかった。向こうもそう思って距離を置いてたのかもしれない。
 
 その日はミキサーさんや照明の人も来てかなり本格的なリハーサルだった。サクヤさんはホントに着物でジャズ・ピアノを弾いていた。自分も着るようになってわかったけど、着物ってけっこう機動力あるのだ。そりゃそうだ。昔の日本人は道路工事も洗濯も着物でやってたんだもんね。着物でジャズっていうより、サクヤさんがジャズって方が違和感すごかった。光さんが説明してくれたけど、ジャズって楽譜があってないようなものらしい。つまりその日の思いつきで曲が出来るそうなのだ。
「こんなヘンなうちだし、身体弱くて友達も少ないし、即興演奏で発散できればってこのコの父親が3歳ぐらいからピアノ教えてねえ」
 それは確かにいい話だが、やっぱり違和感ある。そんなこと言ったら、ハイジのおんじみたいな光さんがサックス吹いてるのも、いつもジト目のきーちゃんがカッコ良くドラムを叩いているのも、歴史ある神社のひと隅で赤だの青だののスポットライトが回ってるのも違和感ありまくりだ。あさぎの袴の神主姿しか見たことがない山本さんが、ジャケットなんか着てベース弾いてるのもすごいギャップがある。とにかく私は興奮して拍手しまくっていた。ジャズなんかあまり知らないと思っていたが、プログラムのほとんどはどこか聞いたことのある曲だった。ディズニーの映画だったり、コマーシャルソングだった曲をアレンジしてあるそうだ。
 こんなに本格的なスタジオを作ってしまって改装費用だってバカにならないだろうに、と余計なお世話の心配をしていたら、今後は有料で貸し出すそうだ。神社なんて閉鎖的なところかと思っていたけど、住吉神社は桂月庵といいこのスタジオといい、積極的に外の人を迎え入れているようだ。

 のん太は裏方担当だけど、時々トライアングル叩いたり鈴鳴らしたりして手伝うらしい。
「なんだ、バレたのか。じゃ、瑠那も出ればいいのに」
 のん太がとんでもないことを言い出した。
「そりゃいいアイデアだ。もともと瑠那の歓迎とご近所さんに紹介するためのライブなんだし」
 光さんが乗ってしまった。ひええええええ。のん太、あんた何ちゅうことを言い出すのよ。というか私の歓迎ライブって何。そんなのもったいな過ぎる。私は頭がぐるぐるしてしまって声が出ない。
「瑠那、何がええかなあ? ピアノはどう? こないだ一緒にちょっと弾いたやろ?」
 ぶんぶんぶん。サクヤさんに聞かれても頭をぶんぶん左右に振るしかない。
「トライアングル、譲ってやろうか?」
 ぶんぶんぶん。
「マリンバどうですか? ほら、木琴ですよ」
 山本さんの提案にも、ぶんぶんぶん。
「じゃあ、歌で決まりだね」
 ひええええええええ。光さん、そんな恐ろしいことそんないい笑顔で言わないでええええ。

 数分の会話で数年分消耗した気がする。この神社にもらわれてラッキーだったと思っていたが、とんでもないところに連れて来られたのかもしれない。

 リハーサルの中休みで、ちょっと我に返って気がついた。
「ね、そういえば鷹史さんはライブに出ないの? 何でも上手くこなしそうなのに」
 こそっときーちゃんにだけ聞いたつもりだったのに、ステージの方にいた光さんもサクヤさんも、のん太も振り向いた。その表情を見て、自分は何か失敗したのだと気づいた。
「タカ兄ぃは出ないよ。夏祭りは神主業の方で忙しいし」
 一瞬の沈黙の後、きーちゃんが答えた。
「光さんがこっちでサボってるからな。婿養子が接待しないと」
 のん太が茶々を入れる。
「いいんだよ。お客さんはみんなタカちゃんを見に来るんだから、私なんかいなくても」
 光さんまでらしくない軽口を挟んでいる。うーむ。これは深刻だ。どうやら私は聞いてはいけないことを聞いてしまったらしい。

「あ、タカちゃん」
 全員がギクッとして振り向いた。階段に飲み物のトレイを持った鷹史さんが立っていた。何というタイミング。
「そなんよ。瑠那にバレたし、ほな、一緒に出んかって話しよったんよ」
 サクヤさんが何事も無かったように鷹史さんとおしゃべりを始める。鷹史さんの話すことは、相変わらず私には聞こえない。
「え、それ、アンコールのやつだっけ?」
「いいかも。あんまり高い音無いし」
 私のわからないところで話が進んでいる。
「何。何の曲がいいって?」
 光さんは鷹史さんの言葉が聞こえないらしい。
「そやね。瑠那の歌が終わってからアレンジ展開すれば」
「じゃ、決まり」
 今度は全員が私の方を振り向いて、鷹史さんのような笑顔でにこおおーっと微笑んだ。何なの。何に決まったの。綺麗な笑顔が凶悪に見えて来た。


 というわけで、夏祭りまであと一ヶ月ちょっと。浴衣を仕上げつつ、英語の歌詞を覚えて歌の練習に励む羽目になってしまった。ライブが心配で、クラスに馴染めなかったことや住吉のあれこれや鷹史さんの事情についてもやもやしていたことが全部ふっ飛んでしまった。

 それでも、エアポケットのようにぽかっと我に返る瞬間がある。そしてふいに気づくのだ。桜さんと初めて会った日、桜の下で桜さんの側にいたあの男の人は誰だったんだろう。この神社の関係者か、桜さんの親戚か家族かと思っていた。そのうち会えたら、あの日にぶしつけな口を聞いたことを謝ろうとずっと思っていた。不思議な人だったな。そして不思議なことに、私はあの人の顔も声もはっきり思い出せないのだ。敢えて言えば、雰囲気が鷹史さんに似てる。あの、サンゴ礁の海みたいな宇宙みたいな夢の中でおしゃべりした鷹史さんに。
 そしてもうひとつ、私は気づいた。住吉に来て2ヶ月が過ぎようとしているのに、私は葵さんとろくに話したことがない。桜さんと会った日、駆けつけて来た葵さん。あれから施設に送ってくれたのも、いろんな手続きをしに通って来たのも、迎えに来てくれたのも葵さんなのに。
 家事や桂月庵のお手伝いで、一緒に過ごす時間が長い咲さんやサクヤさんとはよく話す。桜さんもしょっちゅう私を呼んではいろいろ話しかけたり、用事を頼んで来たりする。のん太はとにかくいつもちょっかい出して来る。光さんや鷹史さんは、たいていこのメンバーといると混ざって来る。
 そうだ。きーちゃんと葵さんはこの輪に入って来ない。きーちゃんはちょっと人見知りっぽいし、部活とか相撲で忙しいせいもある。塾にも行っているらしい。葵さんは大学の研究者なので、帰りが遅いことがしょっちゅうだ。研究や学会で留守も多い。それでもけっこうな頻度で一緒に食卓を囲んでいるのに。
 和やか過ぎるほどに和やかな。ホームドラマのような絵に描いたような団欒の輪の中に、葵さんときーちゃんは入ってこない。輪のちょっと外にいて、きーちゃんはジト目で見ているし、葵さんはちょっと悲しそうな表情をしている。弟さんやダンナさんを失くした悲しみが癒えないのかな、とも思ったけれど、でも何だか不安そうというか、怯えているように見える。この2人の眼差しのせいで、大家族の団欒が隠しているものに気づいてしまう。

 そう。例えば鷹史さんとサクヤさんだ。
 お内裏様とお雛様みたいな、綺麗で仲睦まじいカップル。鷹史さんを見つけるとサクヤさんはこの上なく幸せそうに微笑む。こちらまで幸せになるような。しかし、こんな純度100%の幸せなんかあるものだろうか。いくら生まれた時から相思相愛のいとこ同士で、もうすぐ子供も生まれて人生で一番ハッピーな時とはいえ。
「ウソ臭いだろ?」
 耳元で急に言われてギクッとした。慌てて振り返るときーちゃんがいつものジト目で、寄り添う兄夫婦の方にあごをくいっと動かした。
「う、ウソ臭いって、だって、今さ、一番幸せな時でしょ。いいじゃないの。微笑ましいじゃないの」
 でも私も思っていた。妬みや僻みと言われそうで表に出せなかったけれど。
「妊婦ってもっとイライラしたりオロオロしたりするもんじゃねーの。だいたいサクヤは元々すっげーイジケ虫で根暗なのに、何あの、能天気な浮かれぶり」
 ちょ、ちょっとあんたそれ、僻みってもんじゃないの。そしてここで初めて気づいた。新婚夫婦を囲む家族団欒にきーちゃんが加わらないわけ。繊細なお年頃の中学生男子の心理ってやつかと思ってたけど。そうか。そうだったのか。私もつくづく鈍いなあ。
「あいつ、ずっと悩んでた。俺が”タカ兄ィと結婚すんのか?”って聞いたら、”タカちゃんのことは好きだけど、子供産むの怖い。住吉の運命に巻き込むのが怖い”って、泣いてた。それがケロッと妊娠して出来ちゃった婚で、それはいいけど、あの能天気。まるで別人だ」
 別人。それってどういうこと。結婚生活が幸せで悩みを忘れたとかそういうことじゃなくて?
「絶対あいつが何かしてる」
「な、何かって鷹史さんがサクヤさんに? そんなことできるの?」

 催眠術とか人格操作とか? どうしよう。急に何もかも胡散臭く見えて来た。絵梨香のママさんの話してたことを急に生々しく思い出してしまった。
 怖いと泣いてた姫を操って後継ぎを産ませて? 生贄を囲んで儀式をする黒魔術の集団に思えて来た。
「あいつはそんなのお手の物だ」
 きーちゃんの眼差しは怒りを通り越して憎さ100倍って感じだ。そんなきーちゃんに気づいて、鷹史さんがこちらに手をひらひらと振った。そしてあの天使のようなキラキラした微笑み。

 どうしよう。天使じゃなくて悪魔だったの? 桜さんは天女じゃなくて子供を拐う雪の女王だったの? 咲さんも? のん太は? のん太もサクヤさんが小さい頃から知ってるって言ってた。サクヤさんの変化に気づいてないの?

 どうしよう。葵さんと話さなきゃ。

 

◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇    


 葵さんと話さなきゃ、と思い立って数日が過ぎた。


 葵さんが捕まらない。夕食後も食器を片付けたり、明日の朝ごはんの仕込みを手伝っているうちにいつの間にか食堂からいなくなっている。かと言って、葵さんの書斎を訪ねて行くにはなかなか勇気がいる。さりげなく話しかける機会は無いものか。
 チャンスをうかがって葵さんをこっそり観察しているうちに気づいたことがある。葵さんは咲(えみ)さんやきーちゃんとはけっこう話しているようなのだ。光(みつる)さんと縁側の籐椅子で語らっているところも目撃した。桜さんの前では表情が硬い。萎縮している感じ。サクヤさんとは何だかおっかなびっくり話している。そして誰よりも。葵さんがはっきり怯えている相手は、鷹史さんなのだ。これはどういうわけだろう。天才で宇宙人でイケメンの娘婿を怖がる理由って何だろう。うーむ。宇宙人だからだろうか。まあ、普通に考えたら誰でも怯えそうなものだけど。
 逆に、葵さんが一番一緒に話している相手はノン太だった。同じ分野の研究者で、同門で同僚なので、まあ共通の話題も多いだろう。何より、ノン太はまるでハイジの後ろをついて回るヨーゼフのように葵さんを護衛しているようなのだ。

 ある日、学校の理科当番で少し遅くなって神社の石段を急いで上がって来ると、最初の山門を入ったところに鹿がいた。
 鹿? まじまじと見てしまったが、確かに鹿だ。それもたくさん。鹿って人を襲わないんだっけ? 社殿や母屋の方に行くにはどうしても鹿の群れの横を通らないといけない。山門の影に隠れて様子をうかがっていると、小さな悲鳴が聞こえた。葵さん? 飛び出そうとすると、続いて笑い声が聞こえた。

「ほら、そこ危ない。葵さん、こっちに上がって」
「だってこのコが」
「お前も、葵さんに甘え過ぎ」
「角が痒いんでしょう。おいで、かいてあげる」

 大きな鹿数頭と葵さんとノン太がじゃれている。頭突きされる度に葵さんがよろけて、それをノン太が腕や肩を支えて助けている。
 私は呆気に取られて、鹿を警戒するのを忘れて参道につっ立っていた。そして葵さんに見つかってしまった。
「瑠那ちゃん。お帰り」
 パッと明るい顔で笑う葵さんを見て、少なからずほっとした。私が避けられているわけではないらしい。
「びっくりした? いつもは夜来るのよ。ここで鹿見るの初めて?」
「鹿って奈良にいるもんだと思ってました」
 葵さんはくすくす笑っている。こちらをバカにしている感じじゃなくて、心から楽しそう。そういえば猫ともこんな風にじゃれて笑ってたなあ。動物が好きなんだろうか。こんなに晴れ晴れと明るい表情は、もしかして初めて見たかも。
 一方、ノン太は私を見つけて、明らかに『まずいところを見られた』という顔をした。私から視線を逸らせてそっぽ向いている。やましい気持ちがあるのが見え見えである。あんた、何やってんの、未亡人相手に。

「これって野生なんですか?」
「そうよ。場所によっては増えすぎて駆除されているけど、ここは住宅街に近いし、神域の森だから安全なの。夜に良く来ているのよ。声、聞いたことない?」
 道理で。裏庭の菜園が、やけに頑丈な柵に囲まれているはずだ。ほとんど塀のような高い柵に囲われていて、木戸を開けないと入れない作りになっている。
「こいつらのお陰で参道とか境内の草取りしないで済んでるんだ」
 ノン太が観念したのか、会話に入って来たが、まだイマイチ表情が不自然である。あんた、なにやってんの、自分の親友のお姑さんで仕事の上司相手に。
「ニワトリが草取りしてるのかと思ってました」
「小さいうちはニワトリが食べてくれるけど、シカの方が大きいし数も多いし、助かってるの」
 ふえええええ。ニワトリと鹿が手入れする神域。さすがである。そういえば、今までも時々何か丸くて黒いものがコロコロ落ちてたっけ。あれは鹿の落し物だったのか。

 とにかく、やっと葵さんを捕まえた。チャンス到来。
「あの。葵さん、宿題手伝ってもらえますか?」
 一生懸命練った戦略を展開する。
「自由研究なんですけど、海外の知らない土地のことを調べて発表するんです。入賞したら、旅行券もらえたり、表彰されたり、あの、その国の大使に招待されて外国に連れて行ってもらった子もいるんですって」
「へええ、面白そう」
「葵さん、いろんなところに研究で行ってるでしょ。写真とか地図とか、見せてください。どこのことを調べるか、決めたいんです」
「もちろんいいわよ。いつでも私の部屋にいらっしゃい。パソコンもあるし」
「ありがとうございます!」
 あっけないぐらい簡単に、私の作戦は成功した。なんだ、もっと早く頼んだら良かった。
 鹿達も、私のことを警戒しなくて平気と踏んだのか、今度は私に頭突きしたりすりすり寄って来たりし始めた。牡の鹿はちょっとおっかないけど、小鹿は本当に可愛い。バンビってフィクションじゃなかったんだ。濡れたような真っ黒い目に惹き込まれそうになった。こんな目をマジマジと見つめていると、自分の心の奥の見たくないものまで覗かれてしまいそうだ。

「でも、ひとつ条件があるわ」
「え」
 ぎくっとした。条件て。
 私がよっぽど途方にくれた顔をしていたのだろう。葵さんが笑い出した。
「とにかく、そんなに遠慮したり、緊張したりしないで。私に敬語なんか使わなくていいのよ。うちは名前で呼び合うルールだけど、私は瑠那ちゃんの義母なわけだから。お義母さんって呼んでくれるとうれしいな」
「お」
「お義母さん、ありがとう、って言ってもらえたら何でも協力しちゃう」
「お。えと、あの。お、おか」
 真っ赤になってモゴモゴ言ってる私を、ノン太がニヤニヤ見ている。あんた、何やってんの。
「私も仕事にかまけて、あんまり瑠那ちゃんと話せなくて、あの。ごめんなさい」
「いえ、あの、そんな、だいじょうぶです。私」
 大丈夫。びっくりするぐらい、私はほっとして涙が出そうになった。みんな親切だけど、みんな可愛がってくれるけれど、本当はずっと葵さんと話したかった。サクヤさんのため、とかじゃなくって、私が。
 そんな私を小鹿がじっと見ている。お願い、見ないで。私、こんなに寂しかったなんて。気付かなかった。気付かないようにしてた。
「ごめんなさい。条件なんか出しちゃって。私、ダメね。こんなだから、瑠那ちゃん、遠慮しちゃうのよね」
「違う。違うんです。でも、私」
「本当は私から話しかけなくちゃいけなかったのに。私、こういうの、本当にダメで」
「いえいえいえいえ、本当に。私」
 大丈夫、と言いかけてボタボタ涙が落ちて来た。うわあ、どうしよう。でも止まらない。
「ごめんなさい。私、なんか、どうしよう」
「ごめんなさい。瑠那ちゃん、私こそごめんなさい」

 参道の脇で、鹿に囲まれて2人して両手握り合ってボロボロ泣いてしまった。それをノン太がニヤニヤ見ている。あんたもう、何やってんのよ。腹立つ。でも、こうして手をつないでわかった。和気藹々とした家族の中で、葵さんがひとり、どれだけ孤独だったか。どれだけ不安だったか。私、知ってた。わかってたのに。もっと早く話しかけなくちゃいけなかったのに。ノン太がどうしてヨーゼフやってんのか、わかった。

 そこへ、桂月庵の裏手の駐車場からドヤドヤと一同が参道にやって来た。光さんに桜さん、サクヤさんと鷹史さん。
「相変わらず、いーちゃんは鹿に好かれてるねえ」
 光さんはニコニコしているが、今度は葵さんの方が『まずいところを見られた』という顔をしている。鹿達はあっという間にナラの森に散っていった。いーちゃんとは葵さんのことらしい。
「母さんの好きなソラマメ、たくさんもろて来たんよ」
 サクヤさんが話しかけても、葵さんはあやふやに笑って目をそらしている。
「井上先生はさっちゃんが来るといつもご機嫌やもんなあ。さっちゃんが触ると何でもよう育つて」
 桜さんもサクヤさんも珍しく洋服だ。しかもジーンズ。しかも似合っている。どうやらみんなで農作業を手伝って野菜をもらって来たらしい。
「引退した小児科の先生なんやけど、さっちゃんは小さい時からお世話になっとんのよね。今は畑作って悠々自適にしてはるけど」
 桜さんが私に説明してくれている間に、葵さんはジリジリ後退して母屋の方に逃げようとしている。
「じゃあ、私、仕事持ち帰ってるから……」
 そんな葵さんの肩をポンと叩いたのは鷹史さんだ。比喩ではなく、葵さんは”ひっ”と言った。ううむ。これはそうとう怯えているな。5歳児のようなイノセントな笑顔を向ける鷹史さんから、葵さんは飛び退くように離れた。
「大丈夫。別に疲れてないわ。ありがと。じゃ、私、仕事あるから」
 不自然な早足で、葵さんは去ってしまった。私が思い切りもの問いたげな顔で見上げると、のん太が肩をすくめた。ちょっと、どういうことよ。あんた何やってんのよ。

 夕食の後、意を決して葵さんの書斎を襲撃してみた。宿題を口実に入れてもらって、お茶とお菓子のトレイを畳に置いて座布団に座るなり、私はズバリと切り込んだ。

「どうして鷹史さんが怖いんですか?」
 葵さんがビクッとした。
「怖い? どうしてそんなこと。そんなはず……」
「見てたらわかります。どうして? 何されたの? 何か言われた?」
「何かって何も……」
 目をそらせて身体を震わせている。ううむ。これじゃ、のん太じゃなくたって守りたくなってしまうじゃないか。

「お義母さん。話して。私、お義母さんの味方になりたいの」
「味方……?」
 私は腕を伸ばして葵さんの手をぎゅっと握った。
「だって、お義母さん、辛そうだもの。私じゃ話せない? 私、何もできない?」
「そんな……瑠那ちゃん、私……」
 葵さんの手は氷のように冷たかった。私は追い詰めるのが可哀想になってきた。でもやっと話せたのだ。このままじゃ、葵さんはいつまでも家族の中でひとりだ。

「お義母さん」
 葵さんは手を震わせた。ずるいかもしれないが、私はお義母さんと連呼した。だって、私にはこれしか武器がない。天岩戸から出てきてもらわないと。
「タカちゃんが……」
「鷹史さんが?」
「言ったの。私に……」
 葵さんの目は涙でいっぱいだ。
「言ったって何を?」
「タカちゃんが……新さんを待っても無駄だって。帰って来ないって」
 私は絶句した。新さんて、サクヤさんが10歳の時に消えたっていう、葵さんのダンナさん? ジャズピアノ弾くって言ってた人?
「どうして鷹史さんがそんなこと」
 涙をボタボタ落としながら、葵さんが声を震わせた。
「タカちゃんが言うの。新さんを殺したのは俺だって」

 絶句。どういうことなの。のん太、あんた何やってんの。葵さんを守ってんじゃなかったの。あんたの親友、とんでもないわよ。


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