白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

月夜のピアノ・マン (その1)

2020年02月17日 20時25分04秒 | 星の杜観察日記
 桜さんと初めて会った時のことは今でも鮮やかに覚えている。
 あの時、降りしきる桜の花びらの下で、私は天女を拾った。いや、拾われた。

 あの頃、私はずっと怒っていた気がする。あの日も私は怒っていた。私たちの施設を見下ろす土手の桜並木を見ながら、満開の桜が綺麗だと思う心の余裕も無く怒っていた。子どもの暮らす施設をどうしてこんな大きな川の横に作るのよ。決壊したらどうする気。親のいない子なんか、流されて溺れてもしょうがないってこと。そうよね。そうしたらその分、助成金節約できるもんね。11歳になってもらい手も見つからない自分なんか、将来たいして貢献する見込みもないのに、税金無駄とか思われてるわよね。などと、ブツブツ心の中でつぶやきながら静かに怒っていた。でもさ、私は確かに出来悪いかもしれないけどさ、この子はいい子よ? 頭いいし、優しいし、聞き分け良すぎて可哀想なぐらいだし、と鉄棒で1年坊主の智の補助をしながら、ムラムラ怒りが湧き上がって来た。私はいいわよ。下手くそだけど何とか25m泳げるし。でもこの子も2年生の優奈も、もし洪水にでもなったら。
 そこまで考えて、冷たい水に流されるちび達を想像して涙ぐみそうになってしまった。いや。そうなったら、私が飛び込んで、何とかこの子達だけは土手に押し上げよう。うん。大丈夫。あんたは絶対助けてあげるからね。
 こんなことをぐるぐる考えて百面相している私を、智は大きな瞳でじっと見上げている。
「瑠那姉ちゃん。お腹いたい? お腹すいた? クッキーあげようか?」
 いい子じゃないか。私はまた泣きそうになった。


 要するに、私はその頃、絶賛情緒不安定だったわけだ。

 私のいた桜林ホームは就学齢の児童が暮らす施設だ。物心つく前の子どもの方がもらわれて行きやすい。それでもホームで8、9歳ぐらいまでの子はもらい手が見つかることもある。10歳越えると難しくなる。特に私みたいな可愛げのない子どもは。
 参観日や運動会でも、見に来た大人に値踏みされているようで、媚びてると思われるのがイヤで、わざと突っ張ったアピールをしてしまう。セリにでもかけられている気分で、だんだんイライラして来てしまうのだ。いいのよ、もう、自分は。それよりも智はどう? いい子よ? 優奈もおっとりしてるけど、じっくり考えるタイプなだけで理科得意だし、3年生の隼人と綾音もホームの先生のお手伝いしてちびの面倒よく見るし。とか考えてちび達を売り込もうとしていると、今度は自分が女衒か何かになったような気がしてげんなりする。学校の同級生の誰もが当たり前に生まれつき持っているものを、私たちは持っていない。そんな理不尽にイラだったりため息をついたりしてしまう。そうして、こんなこと考えてると、ますますもらい手つかないだろうな、とまたため息が出る。

 私が浮かない顔をしているので、智は「待ってて。今、クッキー持って来る」とホームの方にとてとて走って行った。別にお腹すいてるわけじゃないのに。
 もう一度ため息をついて、土手の方に目を向けた。その時、桜の下に立っている女の人に気づいて息を飲んだ。

 その人は朧月夜の空のようなグレーの生地に、裾と肩にしだれ桜を描いた着物を着て、桜の花びらを散らした淡いピンクの日傘を挿していた。腰まで届く真っ直ぐな黒い髪。日傘に隠れて顔は見えないけれど、優雅に降りしきる桜の下を歩く、桜の着物の女の人は天女みたいに見えた。

 私は見とれながら、ちょっと心配になった。この桜並木には怖い話がたくさんある。横の大きな川に橋を架ける時、人柱にした子どもたちの墓標代わりに子どもの数だけ桜を植えたとか。その子どもが新月の日に木の影から手招きするとか。その声に答えちゃうと首括りたくなるとか、川に入りたくなっちゃうとか。ついでにその子どもが満月の日にホームの運動場で遊ぶとか。
 というわけで、私たちのホームはもちろん近隣の小学校でお化け屋敷扱い。ホームの子どもは人柱、人柱と囃される。伝説はかなり詳細に培われていて、例えば今ちょうど着物の人が通りかかったホームの池から正面の木ではこれまで5人、首吊り自殺したとか。

 その木の下に着た瞬間、つむじ風が起こって桜色の日傘が飛ばされた。女の人の髪が吹き上げられて、身体がなぶられている。

 私が慌てて土手を駆け上がって走り寄ろうとした時、天女は花吹雪の中で倒れた。


  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇  ◇ ◇ ◇


 降りしきる桜の下で、桜の着物を着た美しい女の人が倒れている。地面に広がった長い髪さえ綺麗だ。浜辺に打ち上がった人魚姫みたい。

 私は駆け寄ったものの、女の人の一歩手前で固まってしまった。この人は本物の人間だろうか。綺麗過ぎる。綺麗な鬼か幽霊じゃないだろうか。触って大丈夫なのかな。


「その人、死んでるの?」
 いつの間にか後ろに智が立っていた。手にクッキーを握り締めている。顔は真っ青で、身体が震えているのがわかる。
 そうだ。智は目の前で母親を亡くしたのだった。シングルマザーで過労だった母親が心筋梗塞を起こして、当時6歳だった智はひとりで救急車を呼んで病院まで付き添った。そのまま数時間後、母親は亡くなったそうだ。智の父親も、祖父母も来ず、たったひとりで見送ったのだ。
 智の大きく見開いた目を見て、私は我に返った。

 女の人の横に膝をついて、そっと首を触ってみる。冷たい。ケードウミャクってどこ? 昨日、TVドラマで見たばかりなのに、実際に触ってみるとわからない。
「脈、あるわ。あると思う。生きてる。大丈夫」
 ええと。気道の確保、だっけ。ライフセーバーのドラマでは軽々と溺れた人を抱えていたけど、大人の身体の向きを変えるのは大変だ。仰向けにして、頭を反らせて、のどを開く。
「息、してる。大丈夫」
 でも意識がない。ええと。手を握って、呼びかける。頭を振ったらいけないんだっけ。上半身を支えて、手を握って。うわあ、重い。
「しっかりしてください。大丈夫ですか」
 青白い顔がすごく綺麗だ。綺麗過ぎて、生きてる人と思えない。人間じゃないみたい。
「しっかりして。すぐ救急車呼びますから!」

「その人、死んじゃうの?」
 智の声が震えている。お母さんのことを思い出して、パニックになるかもしれない。

「智、お水、持って来て! コップに! それから人を呼んで来て! 図書室に優奈と新里先生がいたわ。先生に救急車呼んでもらって。優奈に、毛布持って来てって頼んで」
「でも。でも、その人、死んじゃうかも」
「大丈夫! 智、お水よ。それと毛布と救急車! しっかりしなさい! この人は大丈夫だから!」
 智を正気に引きとめようと思って大きな声を出している私の手を、冷たい手がぎゅっと握り返した。長いまつげが開いて、女の人がこちらを見ている。その瞳は緑色だった。溺れている人みたいに、痛いぐらいぎゅっと私の手を掴んで、途切れ途切れに苦しそうに声を出した。
「キュウ……救急車ハ。ダメ。デンワ、ココ。ココニ。スグ、クルカラ。ムカエ、タノンデ」
 女の人は何とか身体を少し起こして、袂から紙を出した。電話番号と住所。

 ”住吉神社。織居葵”

「わかった。ここに電話すればいいのね? 智! この紙を新里先生に見せて! 電話してもらうのよ。それと、お水。毛布も!」
「う、うん。お水、毛布、電話、だね。わかった」
 智はしっかりした足取りで走っていった。良かった。大丈夫みたい。

 ひとりで女の人と桜並木の下に残っていると、本当のことと思えなかった。智は瞳の色を見なかったようだ。緑の目。この人は本当に鬼かもしれない。あるいは宇宙人?

 こうしている間に、この人は死んでしまうかもしれない。もしかして、消えてしまうかも。怖い。早く誰か来て。
「しっかりしてください。すぐお水、持って来てくれます。お名前は? 織居さん? あなたも織居さんなんですか? お名前、教えてください。しっかりして。眠らないで」
 長いまつげが今にも閉じそうだ。閉じたら。そのまま消えてしまいそう。
「しっかり。お名前は? 名前、教えてください!」
 まつげが震えて、大きな緑の目がこちらを見た。しばらく彷徨った挙句、しっかり焦点があったと思うと、ひとこと、言葉を発した。

「サクラ」

 桜? この降りしきる花が?

 手が冷たい。身体が重い。こんなに重いんだから、幽霊のはずがない。でも目を閉じた時、一瞬、ふうっと軽くなった。輪郭がぼやけて、溶けそうになった。
「消えちゃダメ! しっかりして。私の声を聞いて! 織居さん! 死んじゃダメよ!」
 
 怖くて。心細くて。泣きたくなった。でも泣いたらダメだ。呼び戻さないと。

「死なないで! ここにいなきゃダメよ! 消えちゃダメ! しっかりしなさい!」
 自分の身体が震えているのがわかる。今にもパニックに落ちてしまいそう。


「桜!」

 川の方から男の人が駆け寄って来た。背の高い、ほっそりした男の人だ。
「桜! ひとりでうろうろするなって言ったろう! こんなところに飛んで来て! 何かに絡まれたな? 昨日、倒れたばかりじゃないか。おまえは防御力無いくせに!」
 女の人を叱りつけるくせに、手を取ろうとも、身体を支えようともしない。私はムカムカ腹が立って来た。せっかく大人の人が来てくれたと思ったのに。この人は助けてくれないの?

「あんた、何よ。病人に何、えらそうに言ってるのよ! 病人、放ったらかして、どこ行ってたのよ!」

 怒鳴っているうちに、我慢出来なくて涙がこぼれてしまった。身体が熱くなる。ふうふう、肩で息をしながら、ぎゅうっと女の人の手を握った。
 男の人は、きょとん、と虚をつかれたような表情をした。と、思う。何というか、その人も、女の人と同じぐらい現実感の無い、人間ぽくない透明さがあった。でも、一瞬後に、ふっと笑った。笑った、と思う。笑うと急に人間臭くなって、私はちょっと安心した。

「急に倒れたのよ! つむじ風にまかれて! 手が冷たくて! 目を覚まさなくて。もう、死んじゃうかも。消えちゃうかもって思った……なのに、あなた、どこ行ってたの!」

 私は安心した分、涙をボロボロこぼしながら怒りをぶつけた。不思議だ。初対面の男の人に、こんな風に八つ当たりするなんて。こんなこと、したことなかった。初めて会ったのに、私はこの人を信用して、甘えていたのだ。
「すまない。桜が薬を持たずに出たので、取りに戻って追いかけたのだ。おまえがいてくれて助かった。おまえは空間の歪みを中和する力があるな。桜を引き込まれずに済んだ」
 男の人が何を言っているのかわからなかったけど、とりあえず微笑みかけてくれたので、私は安心した。
「ありがとう。もう大丈夫だ。桜は消えない」

 智が駆け寄って来たので、私は慌てて涙を拭った。男の人が差し出したお薬を、智の汲んで来たお水で飲ませた。薬さえ飲んだらすぐに元気になるかと思ったのに、女の人の顔は真っ白なままだった。それでも、重さは帰って来たし、輪郭がしっかりして人間ぽくなった。
 先生が走って来て、一緒に女の人を支えてくれた。重いので、先生に任せてしまおうと思ったが、女の人は私の手を離そうとしない。
「瑠那、がんばったわね。電話したわ。すぐ迎えに来るって。もう大丈夫。大丈夫よ」
 優奈が、先生と私ごと、毛布をかけてくれた。手を伸ばして何とか女の人の足の方まで毛布をかけようとしたが、こういう時も、付き添いらしい男の人は手を貸してくれない。何でだろう。

 三枝先生が、マットを持って土手を走って来た。何とか女の人をマットに寝かせたが、やっぱり私の手をぎゅうっと握って離さない。目を閉じていたが、とりあえずもう幽霊に見えない。でも苦しそうだ。

「お母さん!」
 並木道の端の車止めの方から、女の人が走って来た。明るい栗色のふわふわした長い髪を後ろでひとつに縛った、メガネをかけた人だ。それにしても、メガネの人の方が倒れている女の人より年上に見える。お母さん?
「お母さん、どうしてこんなところに! いつの間に、お布団抜け出したの。ああ。すみません。母がお世話をおかけしました。お電話いただいた織居葵です。ありがとうございます」
 葵さんはオロオロして泣きそうになっている。私とあまり背が変わらないぐらいの小柄な人だ。動転しているように見えて、三枝先生や新里先生にもきちんとお礼を言って、テキパキ、女の人を運ぶ算段を始めた。背をかがめて、智と優奈にもお礼を言った。そして私にも。
「ありがとう。すごく助かったわ。あなた達がいてくれてよかった」
 智は一生懸命、説明してくれた。
「瑠那だよ、瑠那が一番に走って来て、起こして、声かけて、僕にお水持って来いって。それから、先生呼んで来てって。それから優奈も呼んで毛布持って来てって。瑠那が助けたんだよ」

 葵さんは私の方をまっすぐ見た。
「瑠那ちゃん? ありがとう。あなたは母の恩人だわ。あなたが見つけてくれて、本当に良かった。あなたが手を握って呼んでくれたから、母は帰って来たんだわ」

 桜さんがどうしても私の手を離してくれないので、マットと毛布でくるんだ桜さんと一緒に、私も葵さんのゴルフに乗ることになってしまった。
「すみません。家についたら、すぐこちらにお電話して状況をお知らせします。瑠那ちゃんは責任持って送って来ますから」
 運転席で、葵さんは恐縮しながら先生達に謝っていた。男の人は助手席に、私を桜さんは後ろの座席に。
「瑠那姉ちゃん。その人、助けてあげてね。一緒にいてあげてね」
 智は真剣な顔で私の空いている方の手をぎゅうっと握った。
「うん。行ってくるね」
「瑠那ちゃん。お夕飯、取っておくね。みかんゼリーも。明達に取られないように隠しておくから」
 優奈がおっとり微笑みかける。その笑顔をみたら、私の緊張がちょっと解けて、深呼吸できた。
「ありがと。宿題は修一に見てもらいなさい」

 神社に着くと、ゴルフはあっという間にたくさんの人に囲まれた。みんな一斉にわあわあ話しながら、桜さんを家に運んでお布団に寝かせた。やっぱり私の手を離してくれないので、私も一緒に桜さんの部屋に入って、お布団の隣に座った。
 静かになって、ふうと一息ついていると葵さんがお茶と豆もちを持って来てくれた。
「瑠那ちゃん。ちょっと休憩して。母はもう大丈夫よ。落ち着いたら、瑠那ちゃんの手を離すと思うわ。今、人を呼んだから。すぐに来るから」
 お医者さんを呼んだんだろうか。握られている右手がだんだんしびれて来たが、とりあえずお茶を飲んでお餅をかじる。ふう。人心地ついた。改めて見回すと、立派な部屋だなあ、と感心する。純和風。でも何というか圧迫感がない。居心地のいいおうちだ。緑がいっぱい。日当たりもいい。

 すらっと襖が開いて、背の高い女の人が入って来た。
「お母さん、お祖母さまに湯たんぽ。それと生姜湯、飲めるかしら」
「大丈夫。すぐノンちゃん来るから。そしたら飲めるわ。それより、さっちゃん、大丈夫なの? 身体はしんどくない? 朝も昼もほとんど食べてないでしょ?」
 そうか。この人、妊婦さんなんだ。お腹は大きくないけど、かばうように手をお腹に当てている。着物、苦しくないのかな?
 さっちゃんと呼ばれた女の人は、咲也という名前らしい。自己紹介して、私にお礼を言ってくれた。大学生ぐらいの年に見えるのに、若いお母さんだなあ。

 それよりも、咲也さんと桜さんがすごく似ているのにびっくりした。腰までとどく真っ黒な髪。ほっそりした白い顔。長いまつ毛。伏せ気味の切れ長な目。でも咲也さんの目は緑色じゃなくて黒い。咲也さんと葵さんと桜さんで、三代のはずなのに、葵さんが一番年上に見える。咲也さんの祖母であるはずの桜さんは、咲也さんと双子のようにそっくりなのだ。

 その時、和室の外の廊下で、ダダン、と大きな音がした。人間が、木の廊下にどこか高いところから落っこちたような音。

「鷹史、お前、飛ぶ時は前もって言えって言ったろう! 俺は慣れてないんだから! いきなり手を離すなよ。俺はお前みたいに浮けないんだぞ!」
 男の人の慌てたような怒ったような声がして、廊下から立ち上がる気配。
「それで? 桜さんが倒れたって? それでどうして俺が呼ばれるんだ? 荷物、全部研究室に置いて来ちまった。桜さんは昨日倒れて、安静にしてるんだろ。容態悪いのか?」
 男の人はひとりでしゃべっているようだ。続いて、襖が開いて、男の人が2人入って来た。

 その2人を見て、私はポカンと口を開いてしまった。
 王子様が2人。ひとりはキラキラ光る銀色の髪をして金色の目をして、女の人みたいに綺麗な顔をしていた。私を見て、5歳児みたいにニコオーッと笑った。
 もうひとりは金色の目の人より、ちょっと背が高くて肩幅が広くて、肩に届く髪を後ろにくくっていた。ちょっと奥二重気味だが、何というか女の人にモテそうな顔をしている。さっきから廊下でひとりでしゃべっていたのはこの人らしい。

「葵さん、鷹史に急に連れて来られたんだけど、桜さん、悪いのか? 光さんは?」
「ノンちゃん、ごめんね。まだゼミ終わってなかったんでしょ。父さんは今日、牧場行ってるのよ。今、こっちに向かっているわ」
「そっか。桜さん、顔色悪いなあ。さっちゃんも。顔白いぞ。医者は? 呼んで来ようか?」
 その時、金色の目の人が、何か言った。言ったと思う。でも声は聞こえなかった。
「ああ。そうか。医者に見せてもしょうがないのか。キジローは? 学校から帰ってないのか?」
 ノンちゃんと呼ばれた長髪の男の人は、鷹史と呼ばれた人の言ったことがわかったかのように、勝手に納得している。
 鷹史さんは、また何か言った。でもやっぱり私にはひとことも聞こえない。すると、咲也さんがうなずいた。
「ホタル達が、これはきーちゃんの管轄じゃないって言うの。ノンちゃんが必要だって」
「俺が? 俺が何すればいいの?」
 鷹史さんがノンちゃんさんを引っ張って、私と反対側の布団の傍に座らせようとした。
「え? 手を? 桜さんの手を握るだけでいいのか?」
 ノンちゃんさんが体勢を立て直して、桜さんの横にドカッとあぐらをかいた。その隣に正座した鷹史さんは、また私を見てニコオーッと笑った。目がチカチカするぐらい眩しい笑顔だ。背中に羽が生えてんじゃないかというぐらい、キラキラした王子様。

「桜さん、大丈夫か? うわ、手、冷たいな」
 ノンちゃんさんが、腕を伸ばして桜さんの手を取った。そして私と反対側の手をきゅっと握った瞬間。

 つむじ風。いや、風とちがう。水? 洗面台の栓を抜いて水を流したように、何かが桜さんを中心に渦をまいた。桜さんの身体がふわっと起き上がって、長い髪の毛が浮き上がった。辺りが明るくなった。桜さんは光に包まれて、そしてふうっと光が消えた時、ふわっとまた身体が布団に倒れた。頭を枕に休めた途端に、目が開いた。
 長いまつ毛。でも瞳は茶色だ。そして髪の色も、変わっていた。葵さんとよく似た明るい栗色。そしてふわふわ柔らかそうなウェーブがかかっている。顔も変わった。綺麗だけど、口元と目の下に線が入った、ちゃんと咲也さんのお祖母さんの顔になった。

 桜さんは頭を動かすと、私を見つけてニコッと微笑んだ。
「ありがと。瑠那ちゃん。面倒かけたわね」
「ううん。ううん、いいんです。そんなこと。もう大丈夫? 苦しくないですか?」
「大丈夫。楽になった。みんな、世話かけたね。ノンちゃん、ありがと。助かった」
 そうして、もう一度ぎゅっと私の手を握ると、手を離した。ずっと握られていて、痺れたようになって汗ばんでいたのが、いざ自由になると何だか寂しいような気がした。

 ノンちゃんさんと鷹史さん、イケメン2人に支えられて身体を起こすと、桜さんは少しずつ生姜湯を飲んだ。
 世にも不思議な光景を見た気がしたのだが、私以外の人はみな当たり前の顔をしている。ま、いいか。桜さんは元気になったみたいだし。
 中座していた葵さんが部屋に戻って来た。ホームに電話してくれたそうだ。智も安心したに違いない。私も。私も安心した。良かった。人魚姫みたいに泡になって溶けるかと思った。今はちゃんと人間に見える。良かった。ふううーっと長い息をついた。そうすると、じわっと鼻の奥が熱くなって、涙がこぼれそうになった。

「瑠那ちゃん、もうちょっとしたら送って行くわね。お夕飯に遅れないといいけど」
 葵さんがニッコリ笑った。何というか、この家の人たち、みんな笑顔が綺麗なのよね。葵さんも咲也さんも、ただ美人ってだけじゃなくて、穏やかで優しそうで。いいおうちのいい家族。大人数で和気藹々としてて。いいなあ。こういう家だと、いい子に育つんだろうなあ。私みたいのと違って。そう言えば、さっき帰って来た鷹史さんの弟さんは、ちょっと違う感じだった。ぶっきらぼうな三白眼。それでも、桜さんと咲也さんに声をかけて、ちゃんと寝てろといい、私に”飯食って行くのか?”と聞いた。ノンちゃんさんは、ここの下宿人らしい。ちょっと遠い親戚だと説明された。いいなあ。このおうちで下宿かあ。ホームも賑やかで温かいけど、でもいつも何か寂しいのだ。だって、自分の家じゃないから。先生は優しいけど、新里先生は私のお母さんじゃないし、三枝先生は私のお父さんじゃない。

 生姜湯を飲み終わって、足元に湯たんぽを入れると、桜さんはお布団に横になった。
 桜さんは私の顔をじいっと見ると、また私に向かって手を伸ばして来たので、思わずきゅっと握ってしまった。すると桜さんがニッコリ笑った。うーん。綺麗な笑顔だ。こんな顔で笑いかけられると、どんな無理難題でも聞いてあげたくなっちゃうだろうな。蓬莱の玉の枝とか燕の産んだ子安貝とか持って来いって言われても、聞いちゃいそうな気がする。

 桜さんは私の手をきゅっと握ると、かぐや姫みたいにまばゆい綺麗な笑顔で微笑んだ。

「ね、瑠那ちゃん。うちの子になってくれない? 瑠那ちゃんが来てくれたら、私、あと6年と17日ぐらいまで寿命延びるような気がするわ」

 何だ、その具体的な数字。



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