白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

ピアノ図書館 (その2)

2021年02月26日 19時49分05秒 | 星の杜観察日記
 前編(その1)はこちらから。
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 宮本研究室を出たところで電話が鳴った。院生の小野くんだ。
「今、だいじょぶですか?」
「うん。もう実習終わったの?」
「はい。高山さん、大学に戻って来ます?」
「うん。そのつもりだけど」
 そう答えたところで、後ろの一団がどっと笑った。無責任に人を煽るばかりのオッサンどもめ。リューカだって絶対、俺と同い年なんかのはずはない。高野山で狩場明神が連れてた白い方の犬は、こいつだったんじゃないかと思ったりする。
 一同はこれからウルマスの姪がやっているとかいう嵯峨野のハンガリー料理店に行くらしい。同行してさらに魚にされるつもりなぞない。だいたい姪ったってどんな姪だかわかるものじゃない。興味はあるけれども。

「じゃあ、高山さんが来るまで、自分、待ってます」
「バイトあるとか言ってなかったか?」
「でも待ってます。あ、何かレモンかクエン酸の飲み物、買って来て欲しいって先生から伝言です」
「葵くんからかい?」
 カロ先生が何だかニヤニヤしてるように見えて、いちいち引っかかる。
「いえ。小野くんです。何か実習のことで話したいんでしょう。戻ります」
 さらにあれこれ言われないうちに、さっさとバイクで走り始めた。

 小野くんは修士の学生だ。どうやら何か見えてるらしい。見えてて頓着せず拘らず普通にしている辺り、”住吉向き”の人材と言える。
 注文の品を買ってカロ先生の研究室に戻ると、賑やかだった。
「何これ」
 俺には何も見えないが、とにかく喧しいのはわかる。音楽なのかわめき声なのか、すごいボリュームだ。これで両隣の研究室とか事務が文句言わないというころは、つまりこれはそういう音なのである。
「祀りの石像を見せてくださった家で、取材も終わって帰ろうとしてる時にお婆さんがあれ、持出して来て、もらってくださいって言われて」
 小野くんの指さしたゼミのテーブルの上に怪しい布包みがある。音はどうやらこの包みから出ているらしい。
「とにかくうるさくて先生参っちゃって。自分が運転して来たんです。他の学生は何も感じなかったみたいで、とにかくみんなは帰ったんですけど」
 古ぼけてあちこち擦り切れているが、座り心地だけはいいソファに葵さんが伸びていた。
「じゃ、自分帰ります。バイトに遅刻するんで。高山さん、後お願いします」
「ああ、サンキュ。じゃ、また月曜に」
「はい。失礼します」
「小野くん、ありがとう」
 葵さんが何とか身体を起こして手を振った。
「はい。お大事に」
 今時珍しい五分刈りでぬぼーっと背が高い小野くんがぺこっと頭を下げて出て行った。

 これで葵さんと二人切りだ。いや、そうじゃなく。
「葵さん、とにかくこれ飲んで」
「ありがと。ごめんね、のんちゃん」
「いいから飲んで。コーヒーも淹れましょうか?」
「ううん。大丈夫、何か酸っぱいものがあれば」
 寝ぼけ眼のようなぼおっとした顔で素直に健康飲料を飲み始めた。可愛い。いや、そうじゃなくて。葵さんの今日のファッションは、また父親の光さんのお下がりらしいカーキのシャツ。ぶかぶかで葵さんが2人入りそうだ。フィールドワーク用のトレッキングシューズに薄手のグレーのニットと細身のチノパン。誰かの東欧みやげのショールを巻いている。髪はくるくるねじって後ろでゆるくまとめている。可愛い。だから、そうじゃなくて。


「で、これ、どうしたんです?」
「あちらで持て余してるらしいの。無理言って石像見せていただいたし、いろいろ話していただいたので断れなくて。本当に困ってらっしゃるみたいだったし」
「だからって、そんな危ないもの」

 カップ2つに分けたクエン酸飲料の片方を、緑の髪の少女が飲み始めた。碧ちゃんだ。碧ちゃんが幽霊なのか妖怪なのか妖精なのか、俺には判然としない。とにかく葵さんの護衛役だ。葵さんとそっくりの顔をしている。ふわっと浮き上がるように近づいて来て、俺の回りを一周しながら匂いをクンクン嗅ぐのでちょっと動揺してしまった。
「うるさい黒い犬が来とるやろ」
「え。ウルマス来ていたの?」
 それでわかる葵さんもひどいが、碧ちゃんはとにかく口が悪くてイジワルだ。
「ほら、来年宮本先生が世話役のシンポジウムあるでしょ。その打ち合わせらしいです」
 カロ先生の後任人事や、ウルマスの娘のことはまだ話せない。下手な伝え方をしたらショックを受けるに決まっている。葵さんはぽおっとしているようで怖いぐらい勘がいいのだ。ちゃんと打ち合わせしておかないと、俺ひとりじゃボロを出す。
「ニ、三日、カロ先生のマンションに泊まって打ち合わせして、住吉にも顔出すって言ってましたよ」
「お忙しいのね」
 葵さんはやたらウルマスに懐いているのである。来日しているのに今日は会えないと知って、がっかりしている顔を見るに、こっちもがっかりするわけである。そういう流れが碧ちゃんにはお見通しなのも憂鬱だ。俺には味方がいない。
「とにかく、ひと心地ついたんなら帰りましょう。まだ顔真っ白ですよ。俺、運転しますから。それ、何か知らないけど、ここに置いてくわけにいかないでしょ?」
「どうやろ。このお人は人が多いところがええんかもしらんよ」
 碧ちゃんは毎度呑気というか、どこか人間の事情なんかかまってくれないので用心しないといけない。
「お人って、これ何なん」
 俺もつられてなまってしまった。
「ま、でもここで開けるのもあかんやろな。黒い犬と白い犬はおらんの」
 ウルマスとリューカのことらしい。
「嵯峨野に飯喰いに行ってる。連絡入れるか?」
「呼んだり。見たがるやろ。とにかく社に帰ろ。キリが起きとるうちに」
 碧ちゃんが何を知ってるのだかさっぱりわからないが、リューカと咲さんにメールを送っておいた。


 というわけで、怪しい布包みを枝社のひとつに運び込んだ。桜さんが一番気に入って居座っていた社だ。メノウの鏡が奉ってある。桜さんはこの鏡に住んでるらしい妖魔を鏡ちゃんと呼んでいた。
 住吉では何をさておいてもご飯である。くるみ味噌をかけたふろふき大根とアジの塩焼きを食べて、真っ白だった葵さんの顔色が少しピンクに戻った。可愛い。いや、そうじゃなくて。
 
 夕食を済ませて一同、鏡ちゃんのお社に座ってやかましい布包みを囲む。葵さんの娘のさっちゃん、そのダンナのキジロー。葵さんの孫のトンスケと桐花。俺の叔母の咲さん。そして葵さんと碧ちゃんと俺。光さんは今日は神社のご神馬を預けているファームに行っている。


「トンちゃん、開けたげて。きゅうくつだって文句言ってるもん」
 まだ3歳の桐花が何か注文すると、兄の鳶之介は絶対に逆らえない。包みの中にカミツキガメが入ってると言ったって開けたに違いない。とにかく無造作とも言える手つきで、トンスケはさっさと包みを解いた。
「わあ。綺麗だねえ」
 螺鈿をあしらった琵琶だった。古ぼけてあちこち擦り切れているが、しかし似たようなものを正倉院の写真集で見たような気がする。
「葵さん、これ」
「何でもね、国宝にって話もあったものなんですって。手入れが悪くて認定されなかったそうなの。手入れしようとすると怒るんですって」
 こんな会話の間も、琵琶はとにかくやかましい。ジャンジャンというかビーンビーンというか。キコキコ耳障りな音もするし。
「あんた、話したいなら大人しゅうしいな。やかましくて何いいよんやら聞こえんやろ」
 碧ちゃんに一喝されて、ちょっとだけボリュームが下がった。


「綺麗だねえ」
 桐花はぺたぺた、よく磨かれたお社の木の床をいざっていって、琵琶を抱っこしてにこにこした。
「いい子だねえ。お友達欲しかったんだよねえ」
 やかましい音がやんだ。桐花が弦を撫でると何とも深い味わいのある音が響いた。
「いい子いい子」


 咲さんが促して、桐花は琵琶の主張を翻訳し始めた。
「んーと。カシって何?」
 3歳児のわかる範囲の話なので、かなりの推理力が必要だ。
「あのねえ、この子、外国から来たのよ。カラってどこ。で、オカミに大事にしてもらったんだけど、オカミのオジさんのチュウジョーにカシされて、その人がすごく上手に弾いてくれたんだって」
 ちょっと待て。オカミって帝のことか? 皇族筋で臣下に下りた貴族に下賜されたって、これ、スゴイものなんじゃないのか。
「でもねえ、そのチュージョーがムホンでゴケニンと逃げて、それでシズデラに隠れて、そしたらまたイクサで、お寺が焼けちゃって、カズニモハイラナイものに持ち出されて、それで怒って文句言ったらまた別のお寺に運ばれて、そこもイヤで文句言ったらずっと閉じ込められて、誰にも会えないし誰も弾いてくれないし、悲しかったんだって」
 文句言ったら対応してもらえるって学習してしまったらしい。騒ぎ続けてたらい回しにされて、結局、田舎の庄屋筋の蔵に仕舞いこまれて、持て余されて今に至る。
「ずっとミヤコに帰りたかったんだって。ヒナはたくさんじゃって。やっと表に出たと思ったらまたイクサで、ミヤコの向こうが燃えてたんだって。お空からどんどん火が降って来て、みんな逃げて、またぐるぐる巻きにされて、ずっと怖かったんだって。かわいそうにねえ」
 桐花は優しく琵琶を撫でると、オロロンビョロロンとすすり泣くような音を立てる。
「かわいそうにねえ。でももうイクサはここにないよ。遠いとこでやってるけど、ここは大丈夫だよ。もうオカミはミヤコにいないけど、お友達はいっぱいいるよ」
 3歳児がどこまで歴史を把握しているのか、不思議だった。ビョーンビョロロン泣いている琵琶を抱っこしながら、桐花があくびをした。さっちゃんが慌てて時計を確認した。
「桐、もうとっくに寝る時間過ぎてるやない。ねんねしよ。おいで」
「うん。トンちゃん、抱っこしたげてね。もうすぐウルちゃんとルーちゃん来るからね。ウルちゃん、お友達だからだいじょぶだよ。ね」
 琵琶は大人しくトンスケに抱かれて、今ではロローン、ミヨヨーン、と子守唄のようなものを奏でている。葵さんもすっかり落ち着いたようだ。
「銀ちゃんももう寝なさい。後は大人に任せたらええんやから」
「まだ平気。葵さん心配だから起きてる」
 6年生のトンスケはもういっぱしの大人のつもりなのだ。ことさらにさっちゃんに子供扱いされたり、トンちゃんと呼ばれるのをイヤがっている。さっちゃんも心得て気遣いしているのだ。
「そう? でも酔っぱらいにつきあってあんまり夜更かししたらあかんよ」
 桐花はさっちゃんに抱き上げられて、咲さんも一緒に母屋に帰って行った。小さなお社には葵さんと男ばかりが残った。
「トンスケ無理すんな。明日は学校ないにしろ」
 キジローに言われて、鳶之介はいつものように噛み付いた。
「トンスケ言うな。桐に頼まれたんだから起きてる。ウルマス来るまで一緒に起きてる」
「わかったわかった。じゃあ、何か温かいもんでも作ってくるか。葵さん、甘酒に牛乳入れたのどうだ?」
 答える代わりに、葵さんが大きな目をうるうるした。食いしん坊が発動するようならもう大丈夫だ。碧ちゃんはキジローに生姜湯を注文した。トンスケは琵琶を抱いたまま、葵さんと一緒に甘酒ミルクを飲み、一杯引っ掛けたウルマス達が来る頃には葵さんに寄りかかってぐっすり眠っていた。葵さんもトンスケと琵琶を抱いてうとうとしている。そんな3人に毛布をかけて、俺とキジローはバーボンを啜っていた。そこにウルマスとリューカも混ざって4人で晩酌になった。


「今頃こいつが出て来るとはねえ」
 ウルマスは面白そうにくつくつ笑っている。桐花の聞き出した、琵琶の身の上話を伝えると、さらにくつくつ笑った。
「こいつ、誰も知らないと思ってずいぶん話を盛ったな。まあいいや。そういうことにしておいてやろう」
「え、じゃあ、帝から下賜されてって件はウソなんですか」
 思わず俺がつっこんだ。
「いやいや、そこは合ってる。源の誰ぞのとこに行ったはずだ」
 それってかの有名な玄上とかと同じじゃないか。
「こいつがうるさく騒ぐから、仕舞われたんじゃなくて、縛られてたのさ。そういう都合の悪いことは言わないんだな」
 調伏されたり封印されたりしてたってことらしい。不遇な1000年を過ごして来たと見える。でもやかましいのは困ったもんだ。
「要は誰ぞに弾いてもらえればええんでしょ。琵琶弾ける人やら、ここらならいくらでもおるやないですか」
 リューカがラフロイグをぱっぱか空けながら、こともなげに言う。まったく酔った気配を見せない。高いウイスキーがもったいないような気がする。
「でも何か気に食わないと、またすぐ騒ぐんじゃないですか」
 キジローは中学校の先生やりながら神主やってるだけあって、良識派の意見を言う。
「誰ぞに面倒みさせれば良いのだ」
 碧ちゃんもマッカランを舐めながら無造作に言う。まったく、こいつらは。
「愚痴を言い合える仲間でもできればいいんじゃないのかね」
 ウルマスは葵さんが飲み残した甘酒ミルクを味見しつつ、高齢者施設のお爺ちゃんについてみたいな暢気な話をする。不遇で文句言う仲間ねえ。ここの蔵を探せば何匹か見つかりそうだけど。それでなくともややこしいこの神社に、さらにやっかいごとが増えるのも面倒だ。どこかに里子に出せればいいんだけど。商店街のあの付喪神だらけの骨董屋で引き取ってくれないかしらん。

 あ。いいとこがあった。あそこならぴったりじゃないか。ピアノ図書館。そんな簡単なわけにはいかないか。あそこのオーナーは何だか面倒な人という話だ。

 いつまでも晩酌の魚にするわけにいかないので、トンスケを揺り起こした。
「ほら。風邪引くぞ。ウルマス帰って来たから」
 トンスケは持ち前の寝起きの良さでぱちっと目を覚ますとさっと正座して挨拶した。
「ウルマス、お久しぶりです。この琵琶、ご存じですか? お知り合いじゃないですか?」
 ウルマスは面白そうにニヤニヤ笑った。
「はい、久しぶり。うん、よく知ってるよ」

 トンスケは心底ほっとしたような笑顔を見せた。
「良かったやん、おまえ。友達見つかったやんか。桐の言った通りやったなあ」と琵琶に話しかけている。
 大人全般に突っ張ったような口を利くくせに、こういうところは素直だ。葵さんも喜んでいるが、これには”さすがウルマス”というような信頼が見えて面白くない。
「こいつ、何て名前なんですか?」
 トンスケに聞かれてウルマスは首をひねった。
「さてな。いろんな名前で呼ばれてたから、ご当人はどれが自分の名前のつもりかね。得意の曲にちなんで啄木などと呼ばれてたとこまでは知っているが」

「右近」
 葵さんがつぶやくように言った。
「そう呼んでくれた子がいたのよね?」
 そう問いかけると琵琶がビョロロンと鳴いた。
「私たちもそう呼んでいい?」
 もう一度ビョロロロンと鳴く。
「そう。右近、都におかえりなさい」

 葵さんが優しくそう話しかけた途端、琵琶がパタッと倒れた。
 倒れた、というのはおかしいか。ふっとやかましいエネルギーが抜けて、ただの琵琶みたいになったのだ。
「死んじゃったん?」
 トンスケが子供らしく無造作に聞く。
「安心したんだろうな」というウルマスのコメントにトンスケがさらに聞く。
「死んじゃったん?」
「いや。でもま、2、3日は寝てるだろう。大人しくしてる間に弦張り替えるなり手入れしたらいい」

 その晩はトンスケと葵さんで琵琶を挟んで川の字で寝ることになった。
「せっかくやっと帰って来たのに、目が覚めてひとりやったら寂しいやろ」
 またそんな素直で優しいことを言うものだから、俺は涙腺が弛みそうになった。ええ子やなあ。鷹史、ええ子に育っとるぞ。お前、見たかったやろなあ。トンスケは鷹史のことをどのくらい覚えているんだろう。俺は聞いてみたことがない。

「また騒いだり暴れたりしませんかね?」
 キジローは懐疑的だ。こいつはさすがに人の親という気がする。住吉の連中はだいたい妖魔の危険性に無頓着過ぎるのだ。
「大丈夫よ、きーちゃん。銀ちゃんはもう右近のマスターだもの」
 俺にもだいぶ、こういうことがわかって来た。封じてあった包みをトンスケが開けたおかげで、恩義と契約が生じたらしい。それにしても葵さんも毎度、無造作に託宣する。この人の目にはいったい世の中がどんな風に見えているんだろう。

 同じような質問を、枝社に残った男達と飲みながら繰り返した。
「葵さん、何ヶ国語話せるんでしょうね。こないだなんか、エストニアのパン屋のおかみさんとセト語で雑談してケラケラ笑ってましたよ」
 俺なんかいくら寝ずに勉強しても日英独仏伊がせいぜいだ。スペイン語なんかは仏伊から類推して気合で喋る。それ以外は調査旅行の先々でどうにか買い物に困らない程度の挨拶だけ覚える。少数言語で雑談なんか程遠い。
「葵さん、話せても読めないでしょ」
 リューカが指摘する。
「でも現地の人に音読してもらうと意味わかるらしいんや」
「つまりそういうことでっしゃろ」
「そういうことって?」

「ああ。そういうことか」
 キジローの方が先に納得した。
「ノン太。俺らがタカ兄の言うことわかってたのと同じや」
 
 そういうことか。鷹史、今夜は何だかお前のことばかり思い出す。いいや、いつもだ。住吉に寝起きしながら、俺はいつも鷹史の痕跡を探している。それはきっと葵さんも同じだ。神社で。家で。大学で。街角で。いつも新さんの面影を探しているに違いないのだ。
 だから俺は、葵さんにずうずうしく迫れない。俺も葵さんも同じ。身体の一部分が欠けて穴が空いている。いつも何かを探している。消えたなんて信じてない。信じられない。世界中を旅しながら、どこかにひょっこり生活しているんじゃないか、何でもない顔で笑いかけてくれるんじゃないか。そんな思いを抱えて生きている。

 こんな穴を抱えたまま、誰かに恋したりできない。


 新さんのことは”さっちゃんの親父さん”ぐらいの認識で、あまり印象が残っていない。俺は6歳から住吉に出入りしていたが、あまり話す機会がなかったからだ。新さんは昼間はピアノ図書館で蔵書整理のバイトしつつカロ先生の助手のようなことをしていた。夜は街中のジャズバーでピアノ弾き。子供の活動時間にめったに神社にいなかったのだ。そして俺が13歳の時、消えた。
 
 さっちゃんや葵さんが気の毒だとは思ったけど、自分自身はそれほど動揺したわけじゃない。むしろ新さんが消えた時、俺の妹の都が寝込んだことの方がショックだった。まだ3歳にもならないちっちゃな都が竜宮の奈落に引きずり込まれそうになった。正直、それまで俺はピンと来ていなかったのだ。確かに鷹史は変わってるけど、自閉症の天才少年の本を読んだことがあるしそんなものだと思っていた。さっちゃんも桜さんも身体が弱いだけだと思っていた。
 つまり、金の瞳の姫君だの、竜宮だの信じていなかったのだ。新さんは消えてしまったけれど、都は元気になったし、だからやっぱりその後もそれほど深刻に考えていなかった。
 
 鷹史が消えるまでは。

 そもそもの最初から、俺は鷹史のために住吉神社に連れて来られたのだ。
 6歳当時、鷹史は母親の咲(えみ)さんとさっちゃんの2人としか話さない子供だった。というより、咲さんとさっちゃんだけが彼の言葉と気持ちがわかったのだ。無表情で、ツバメのように空を飛んでて、およそ人間らしいところがなかった。さっちゃんは生まれた時から鷹史とだけつながって、やっぱり無表情な赤ん坊だった。泣きも笑いもせず、ただ鷹史とふわふわ浮かんでうとうとしていた。2人だけで完結していて、他の人間を必要としていなかった。それでも葵さんは、さっちゃんがいつお腹すいてるかわかったし、縁側の猫を見て笑っているのがわかった。鷹史の指差した先にカケスを見つけて、2人してきゃっきゃと喜んでいることが、それぞれの母親だけには伝わったのだ。葵さんが言うには、小さな鈴がなるような、波打ち際の夜光虫が指の先で瞬くような、そんな微かな音とも光ともつかないものが、心に届いていたそうだ。


 2人が初めて、母親以外の人間に伝わるように感情を表に出したのは、俺が来てからのことだったらしい。つまり俺がそういう勘が一切働かなかったから、あちらから働きかけてコミュニケーションしてくれたわけだ。どうして俺だったのか、今でもわからない。とにかく俺は鷹史に見込まれて、2人にいきなりなつかれてしまったわけだ。
 母親以外は自分だけ、と言われて放っとけるわけがない。俺はせっせと住吉神社に通って、中学二年からはとうとう住吉に下宿して住み込むようになってしまった。考えてみると、そのちょっと前に新さんが消えたわけだ。新さんをあまり知らなかったとはいえ、親父が栄転で関東に移動となった時に、家族について行く決心がつかなかった。

 新さんが消えた瞬間、妹は竜宮に牽かれて奈落の底を覗き込んだらしい。それを引っ張り戻したのは母親だった。父が彼女と再婚して3年。いや、俺が産みの母親を失ってからだと8年ぐらいになる。彼女は自分自身の子供を持とうとせずに、俺を育てることだけにエネルギーも時間も費やしてくれたわけだ。そんな事情を、俺は当時、よくわかっていなかった。子供は自分に与えられるものを疑わないものだ。11歳違いの妹を、俺は心待ちにしていた。生まれた赤ん坊は、金色の髪と緑の目を持っていて、丸っきり無表情で泣かない子供だった。そして母親と俺にしかなつかなかった。まるで出会った頃の鷹史みたいに。
 そんな妹より、俺は鷹史とさっちゃんを選んだわけだ。


 妹が高熱を出して生死の境をさまよった後、母親と母の姉の咲さんは相談して、妹がある程度大きくなるまで住吉から隔離することに決めた。母親は妹を連れて、関東の山寺に駆け込んだ。それほど間を置かずに、親父の転勤が決まって関東で一緒に暮らせるようになったのは幸運だった。そして俺は家族と離れて、住吉に残った。
 
 どうやら妹の都は鷹史を盲目的に崇拝していたらしい。鷹史が折に触れて会いに来ては、慣れない環境で元気のない都に優しい言葉をかけていたそうだ。その点はズルいと思う。俺の立場がない。完全にお株をとられてしまった。とにかくそういうわけで、都は冷たい兄を恨むでもなく、”進学のため”という俺の表向きの言い訳を受け入れて応援してくれた。住吉に行けない自分の代わりに鷹史たちを守って欲しい、という文脈の励ましをもらったこともある。禅寺での修行と弓道の鍛錬を積んだ都に、咲さんが”もう大丈夫だろう”と判断して住吉を訪れる許可が出た時、あの子は11になっていた。俺には具体的に何をやっていたのかわからないが、都は鷹史と一緒に地脈の歪みを修復したり、竜宮へのイレギュラーな経路を閉じたりしてたらしい。何をやっているのかさっぱりわからなかったが、とにかく都が無表情なまま、うれしそうで活き活きしていたのはよくわかった。この時のために、あの子は健気につらい修行を耐えたのだ。
 
 そんな時間は一年も続かなかった。
 
 鷹史は俺の目の前で消えた。住吉の大祭前日。相撲の奉納試合や弓の演武、流鏑馬など一般公開の行事が行われて、一年で一番人が集まる時だった。押し合いへし合いする観衆の注目を一身に集めて、鷹史は消えた。見事的の真ん中に命中させて熱狂的な拍手に包まれ、疾走する馬上で、鷹史はふいに意識を失ったように見えた。ふうっと慣性で浮いた身体が、装束の重みであっけなく地面に落ちた。ぐしゃっと叩きつけられて地面に半回転した。受け身も何もなく、木偶人形みたいに。
 上に下にの大騒ぎになった。俺は何が起こったのかわからなかった。一瞬後に我に返って馬場に走り出したが、気になって観覧席のさっちゃんを振り向いた。さっちゃんは真っ白な顔をしていた。強ばった顔で膝の上のトンスケをぎゅうっと抱き締めていた。

 その刹那。空に強烈な閃光がひらめいた。一瞬後、地面が大きくかしいだ。視界がぐにゃっと歪んで見え、黒板をチョークでひっかいたようなキキィーと不快な音が大音響で耳をつんざいた。耐えきれず、俺は両手で耳を押さえて地面にかがみこんでしまった。
 音はすぐやんで、空も視界も正常に戻った。膝をついたままようやく身体を起こして辺りを見回すと、誰もかれもが地面でのたうっていた。目を覆った人、耳をふさいだ人、頭を抱え込む人。喘いで吐いている人もいた。あちらでもこちらでも乳幼児が火がついたように泣き叫んでいた。地獄絵図である。
 よろめきながら立ち上がって、震える膝を叱咤しながら馬場に走った。鷹史の装束は落ちたまま、地面に転がっていた。だが空っぽだった。綾藺笠に萎烏帽子、水干、射籠手、ゆがけ、行縢に沓。身につけた細々したパーツが落ちた時の配置のまま並んでいる。だが空っぽだ。中身が蒸発したみたいに。鷹史はどこにも見つからなかった。
 まるで最初から鷹史なんかいなかったみたいに。

 翌日、何事も無かったように大祭が執り行われた。
 いや、むしろ鷹史が消えたからこそ、無事に大祭を務めることができた。そんな感じだった。

 大祭前日の出来事は地元の夕刊に大きく取り上げられた。重軽傷者23人。昏倒して救急搬送された人が11人。視覚や聴覚に異常を訴えた人多数。ひきつけを起こした乳幼児9人。パニックを起こして負傷し、予後不良になった馬が3頭。
 そして、行方不明者1名。


 同時刻、住吉神社の敷地以外で怪しい光や音を知覚した報告はなかった。原因は不明。集団ヒステリーか、という解説もついた。大祭当日、マスコミ関係者が数人来たが、一般参拝客はひとりもいなかった。大祭の後も長いこと、神社を訪れる人は少なかった。それでも咲さんのお茶やお花の生徒が訪ねて来たり、桜さんやさっちゃんを心配して商店街の面々が思い思いのお見舞いを持って来たりして、少しずつ日常が戻って来た。しかし神社の悪評は決定的になってしまったのだ。


 6歳の時から17年住吉の連中と付き合って来たが、あの時ほど距離を感じたことはない。鷹史が消えたことに動揺して騒いだり探し回ったりしたのは俺ひとりだった。母親の咲さんも、父親の満さんも、キジローも、鷹史の兄貴の仁史さんも、みな暗い表情で現状を受け入れただけだった。警察にさんざん促されて、鷹史の両親は捜索願を出したが、消えることを知っていた、あるいはどこに消えたか知っていた、そんな感じだった。誰ひとり、鷹史が消えたことに涙を流したりしなかった。さっちゃんさえも。


 さっちゃんとトンスケは何一つ変わらず、朗らかに日々を過ごしていた。いや、今まで以上に朗らかだった。まだ2歳のトンスケがぴたりとゴネたりむずかったりしなくなった。もともと丈夫で手のかからない子供だったが、それでも眠い時や言いたいことが伝わらないと不機嫌になって泣いたりする。それが消えた。聞き分けが良過ぎて、不憫で仕方ない。今ならわかる。2人はこれ以上誰も失いたくなくて、必死にお互いに支え合っていたんだと思う。


 妹の都は満さんに弓を習っていて、大祭前日に仁史さんと演武を披露する予定だった。直前に母が高熱を出し、急遽南下をあきらめた。そのことだけは本当に良かったと思う。
 都が鷹史の失踪をどう考えているのか聞いたことはない。都は飛んだりはしないが、どこか鷹史に似ているところがあった。鷹史はいつも5歳児みたいにニコニコ上機嫌で何考えているのかよくわからなかったし、都はいつも半目しか開いてないような活気のない顔で何考えているのかわからない。一年足らず弟子入りしただけで、都は師匠を失った。今はひとりで闇雲に野山を駆け回って、俺にはさっぱりわからない魔法を振り撒いている。
 そして俺は葵さんの探索に同行するようになった。どこを探せばいいか見当もつかないから、千里眼の葵さんについて行けば何か見つかるかもしれないと思ったのだ。鷹史は新さんと同じ穴に落ちたに違いないのだ。それに今なら俺は葵さんの気持ちがわかる。痛いほどわかって、世界中飛び回る葵さんを放っておけない。聞こえない声を聞いて見えないものを探す葵さんは、自分の足元には無頓着でよくすっ転んでいた。危なっかしくて見ていられない。住吉の他の連中は誰ひとり真剣に消えた男たちを探してくれない。俺と葵さんは同志になった。


 いつから好きになったかなんてわからない。ふわふわした栗色の髪。優しい声。小さな身体。優雅な手の動き。猫のように見えないものを目で追う。どこに入るんだろうと思うぐらい食いしん坊。何とはなしにいつも寂しそうで不安そうな佇まい。ふいにぱあっと明るい笑顔を見せてくれる。アルバニア語でもサーミ語でもケラケラ笑うくせに、日本語になると途端に口ごもる。
 娘のさっちゃんの兄貴ポジションの俺を、昔から可愛がってくれていた。下宿人になり、教え子になり、同僚になった。信頼はしてくれていると思う。旅先ではぐれて合流した時など、心からほっとした表情で迎えてくれる。一週間以上2人で旅して、列車でもバスでも並んで移動。肩や肘が触れ合ってもリラックスしているし、飛行機が遅れて空港で30時間過ごした時など俺に寄っかかってすうすう寝ていた。つまり、甥っこポジションの俺を信頼してくれているが、男とは思っていないんだと思う。
 女の人は、男に上から覆い被さって来られたり、後ろから近づかれたりすると本能的に恐怖を感じるものだ。ところが、書庫で高いところの本が崩れて来た時も重心を俺に預けたまま、まずは装丁のゆるんだ古書をサルベージするし、ラッシュの電車で押されて釣り革に掴まれなかった時も俺に背中を預けて安心しているし、まあそんな感じだ。
 オーストリアからチェコに移動中、強風で列車が脱線して、行き場を失った客が小さな町の2軒しかないホテルに殺到したことがある。ずぶ濡れのまま15キロ歩いてたどり着いた宿はほぼ満室で、葵さんとひとつ部屋で泊まることになった。もちろん何も無かったし、嵐で不安になった葵さんは”ノンちゃんが一緒で良かったって今ほど思ったことはないわ”と感謝してくれた。
 その後だ。誰か彼女を作ろうと思ったのは。葵さんは俺を男と見ていないかもしれないが、俺にとって葵さんはやっぱり女性なのである。でも葵さんは今それどころでないのは重々わかっていた。今の距離を続けるために、他の人を見つけるべきだと決心した。そして珠里くんとつきあった。そして振られたわけだ。


「望くん、あなた好きな人がいるでしょ」と指摘された時、真っ先に心に浮かんだのはなぜか鷹史だった。鷹史を失ったトラウマのせいで、積極的に恋愛や結婚が考えられないのだと思っていた。俺は無自覚に、他の女性と付き合うことで葵さんとの関係を守ろうとしていたのだ。葵さんのことを朴念仁だと責められない。


 その週末のこと。葵さんのゴルフに助手席に座って、後部座席には大事に右近を抱えたトンスケと桐を乗せて、宇治の職人さんの工房に向かった。琵琶を修理できる職人さんは街中に数あれど、”話のわかる”工房はそうそう無いのだ。幸い、右近は爆睡したままだったし、すぐ横でトンスケが見守って、桐は上機嫌で子守唄を唄っていたので何事もなく弦を張り替えてもらえた。
 吉川さんは黙って、葵さんと桐のわかるんだかわからないんだかふわふわした説明を聞いて請け負ってくれた。淡々と新しい弦を張り、緩んだペグの補修をしながら、ぽつんと言った。
「すごいですね」
「すごい?」
 トンスケがきょとんと聞く。
「この時代の五弦琵琶に触れると思いませんでした」
「そうなの?」
 預けるわけにいかないし、出来れば短時間で最低限の処置を、というこちらの無茶な要求を飲んでくださった。どういう由来か何も説明しなかったし出来なかった。
「今度は”起きている時”にいらして下さい」
 吉川さんはため息混じりに言った。
「”ご本人”に無断で塗り替えたり磨いたりするわけに行きませんからね。とりあえず間に合わせのことしかできませんよ」
 どうやらお見通しである。さすが古都だ。


「ああ。でも必ず坊ちゃんとお嬢ちゃんも一緒に来てくださいね。それに日没までにお引取り願える時間にいらしてください」
「ご迷惑おかけして」
 葵さんが工房の奥をちらとのぞいて謝った。
「いえいえ。他所からお預かりしている楽器が萎縮して鳴らなくなると厄介なものですから。うちのものならいいんですが。私の言うことを聞き分けますし、多少慣れてますし」
 不遇な平家琵琶や月琴、三味線なんかが運び込まれるそうだ。俺は吉川さんなら右近を引き受けてもらえるのでは、と考え始めていたが、商売に障るんじゃ仕方ない。


 やはりあそこに頼むか。


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